丸善日本橋で沖縄の染織展、宮良千加、砂川恵子、前津雪絵ら

【銀座新聞ニュース=2025年6月14日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は6月18日から24日まで3階ギャラリーで「めぐり逢う沖縄の染め織り」展を開く。

丸善・日本橋店で6月18日から24日まで開かれる「めぐり逢う沖縄の染め織り」展のフライヤー。

「Gallery(ギャラリー)はらいそ」(沖縄県うるま市石川曙1-9-24、098-989-3262)が企画する沖縄の伝統工芸品とアーティストを紹介する企画展で、沖縄戦などの戦没者を追悼する「慰霊の日(6月23日)」を挟んだ1週間、丸善日本橋に沖縄の工芸品が展示される。

「めぐり逢う沖縄の染め織り」は琉球びんがた、芭蕉布、首里織、南風原花織(はえばるはなおり)、琉球藍織物を中心に選んだ帯、着尺、琉装などを展示する。琉装とは、古くから伝わる沖縄の胴衣(ドゥジン)、長羽織(フィーター)などの着物のことで、帯を使わずに、沖縄の手織物を身に纏うことができる。

出品するのは琉球藍織物の「花藍舎(からんしゃ)」(うるま市勝連南風原152、090-5720-9268)を主宰する染織家の宮良千加さん(1970年大阪府生まれ、2012年に花藍舎を設立)、琉球びんがたの「紅型工房べにきち」(沖縄県国頭郡本部町瀬底94、0980-47-4451)を主宰する吉田誠子(のぶこ)さん(兵庫県生まれ、2002年に沖縄県立芸術大学デザイン工芸科染色コース卒業、2010年に紅型工房べにきちを設立)。

琉球紅型と琉球藍型を制作している「紅型工房ひがしや」(国頭郡今帰仁村、090-1179-6198)を主宰する道家良典(どうけ・よしのり)さん(1982年北海道生まれ、2017年に紅型工房ひがしやを設立)と道家由利子さん(1982年沖縄県那覇市生まれ、工芸技術支援センター(紅型研修)修了)、琉球かすり・南風原花織を制作する「TEORI WORKS OKINAWA(テオリワークスオキナワ)」(島尻郡南風原町兼城294-2、080-9851-6036)を主宰する宮城麻里江さん(1982年鹿児島県生まれ、大阪文化服装学院ファッションクリエイター学科卒業、2020年にTEORI WORKS OKINAWAを設立)。

琉装(昔の琉球王国における民族衣装で、現在の沖縄の伝統的な地方衣装)の「琉衣」ブランドを展開する砂川恵子さん(沖縄県宮古島市育ち)、芭蕉布(ばしょうふ)の「工房うるく」(沖縄県国頭郡大宜味村津波1971-506)を主宰する大城あやさん(2001年に沖縄県立芸術大学美術工芸部デザイン工芸学科工芸専攻卒業、2004年から2016年まで同大学の嘱託助手、非常勤講師を勤め、2010年に「工房うるく」を開設)、芭蕉布の職人の辺土名(へんとな)加代子さん、芭蕉布の職人の平良京子さん(1952年沖縄県名護市生まれ)。

「西表(いりおもて)手仕事センター」(沖縄県八重山郡竹富町上原870-277、0980-85-6039)の竹富ミンサー帯、草木染織の前津雪絵さん(1971年東京都生まれ、大塚テキスタイル専門学校Ⅱ部ウィービングデザイン科卒業、2003年に八重山諸島西表島へ移住、2004年に竹富町織物事業共同組合研修生・組合員を経て、2009年から交織(ぐんぼう)の布作り)、宮古上布(じょうふ)の「染織工房timpab(ティンパブ)」(宮古島市平良東仲宗根561-7、080-6490-1770)を主宰する石嶺香織さん。

宮古上布、宮古苧麻(ちょま)織の「染織デザインmieko」(沖縄県宮古島市平良東仲宗根299-2)を主宰する中島三枝子さん(栃木県生まれ)、帯等の首里織の起田(おきた)奈津子さん(千葉県生まれ)、首里織の「アトリエKei Fleur(ケイ・フルール)」(那覇市首里石嶺町2-92、プラザ石嶺Ⅱ、070-5698-2187)の玉城恵さん(1968年沖縄県那覇市生まれ、2020年に工房「アトリエKei Fleur ケイフルール」を設立)。

酒がめと器の工房の「眞正陶房」(沖縄県那覇市真地260-6、098-996-5296)を主宰する安里真尚(あさと・まさなお)さんと安里貴美枝さん、「國場陶芸」(沖縄県国頭郡大宜味村字押川640-188、0980-44-2387)を主宰する國場一(こくば・はじめ)さん、やちむん工房の「シーサー陶房大海」(沖縄県国頭郡大宜味村津波1971-678、0980-44-2424)を主宰する大海(おおがい)陽一さん、「小橋川製陶所・仁王窯」(沖縄県那覇市壺屋1-28-27、098-863-4617)を主宰する2代目の小橋川(こばしがわ)永昌さんなど。

ウイキペディアによると、沖縄は明治政府が1879(明治12)年4月5日に琉球藩を廃止して沖縄県を設置したのがはじまり。1951年に第2次世界大戦の講和条約(サンフランシスコ講和条約)で、アメリカの施政権下に置かれるものとされ、同条約は1952年4月28日に発効し、沖縄は日本本土から切り離された。

アメリカは「行政主席」を行政の長とする琉球政府を置き、公選の議員で構成される立法機関「立法院」を設けるなど一定の自治を認めたが、最終的な意思決定権はアメリカが握ったままであった。

琉球諸島への出入りは厳しく管理され、渡航にはパスポートが必要であった。1950年6月25日に北朝鮮が韓国に軍事侵攻したことにより「朝鮮戦争」が、1960年12月に南ベトナム解放民族戦線が南ベトナム政府軍に対する武力攻撃を開始したことで「ベトナム戦争」がおこるなど、1950年代から1960年代にかけて東西冷戦が過熱する中で、アメリカの沖縄の扱いは施政権下においての自治から、ソ連や中国、北朝鮮などの東側諸国に対しての抑止力を持った軍事基地、そしてフィリピンやタイの基地と並ぶベトナム戦争の爆撃機拠点および後方支援基地としての重要性を重視する方向に変わった。

1969年に行われた首相の佐藤栄作(1901-1975)とアメリカのニクソン大統領(Richard M.Nixon、1913-1994)との日米首脳会談で、ベトナム戦争の近年中の終結を考えて、繊維製品の輸出自主規制と引き換えに沖縄返還を約束し、アメリカ軍基地を県内に維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還が決定し、1971年に沖縄返還協定に調印、1972年5月15日に日本へ復帰した。1973年3月29日にアメリカ軍がベトナムから全面撤退した。しかし、2020年でも米軍専用施設面積の約70%が沖縄県に集中し、沖縄本島の14.5%が基地に占められる(県全体の基地の割合は8.1%)。

Galleryはらいそによると、「紅型染」は琉球王朝時代、王族や士族の衣装として染められていたとされ、長い歴史の中で幾度となく存続の危機があり、大東亜戦争では多くの型紙や道具が消失した。

しかし、戦後、王朝時代から紅型染めに従事してきた城間家の尽力により、紅型が復興へと向かい、現在の紅型は江戸時代の頃の作品が多く、ほとんどの図案は中国の吉祥文様をベースとしている。図案を考え、型を刀で掘り、糊を置いて、顔料や藍などで染める。作品としては、着物の生地や帯、額絵などから、コースターやカードケース、髪飾りなどまである。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は15時)。