悲惨な戦争を生き抜く意義を知らしめた「木の上の軍隊」(425)

【ケイシーの映画冗報=2025年7月31日】今回は「木の上の軍隊」(2025年)です。太平洋戦争(1941年12月8日1945年8月15日)末期、沖縄本島に近い伊江島では、予想されるアメリカ軍の攻撃に備え、本土から陸軍の部隊が送り込まれていました。宮崎県出身の山下一雄(演じるのは堤真一=つつみ・しんいち)は、軍人としての本分を全うすることにつとめ、部下や徴発された民間人に接していました。

7月25日から一般公開されている「木の上の軍隊」((C)2025「木の上の軍隊」製作委員会)。

一方、地元出身の陸軍兵である安慶名(あげな)セイジュン(演じるのは山田裕貴=やまだ・ゆうき)は、古い友人の与那嶺(よなみね)幸一(演じるのは津波竜斗=つは・りゅうと)たちと、自分たちの故郷が戦場になることに戸惑いを感じながらも、軍隊生活を送っていました。

1945年4月、アメリカ軍は沖縄に上陸し、伊江島も攻撃され、上陸したアメリカ兵との地上戦がはじまります。圧倒的なアメリカ軍との戦闘で、山下少尉は多くの部下を失い、安慶名も親友の与那嶺と離ればなれになってしまいます。

山下少尉と安慶名は、逃げのび、大きなガジュマルの木の上で生活を共にするようになります。周囲が静けさをとりもどしていくなか、徹底抗戦を主張する山下少尉と、それに従う安慶名。やがて彼らの目的は戦闘ではなく自活となり、その最大の補給はアメリカ軍の落とした物資や、ごみ捨て場に残る残飯などになります。

衣服もアメリカ兵の捨てられた軍服になるなど、かつての日本陸軍の軍人とは異なった姿になっていくのですが、その中身はあくまで日本軍人であろうとする山下少尉。しかし、故郷にあって、隠れひそんでくらす安慶名は、かつての島の平穏だった生活に惹かれていくのでした。

本作は、戯作を中心に多くの作品を残している作家の井上ひさし(1934-2010)の手がけた未完成の戯曲(本作では原案)をもとに舞台化された「木の上の軍隊」を監督した平一紘(たいら・かずひろ)が映画の脚本に仕上げたものです。平監督によると、「沖縄でもこういう歴史があったことを知っている人はほとんどいないんじゃないかと思います」とのことです。

本作は、平監督をはじめとしたスタッフ陣は沖縄出身者がほとんどで、キャストにもその傾向が見られます。撮影も一部は沖縄ですが、山下少尉と安慶名の生活の中心となるガジュマルの木は、実際に伊予島で準備されたそうですし、その撮影現場のちかくには、本作の源泉となっている「実際にふたりの日本兵が樹上に潜んでいたガジュマルの木」が残っているのだそうです。

これだけの年月(1945年から2025年まで80年)を経ながらも、樹木が残されていることにおどろく反面、「当時の戦場」を知る人々は着実に減っています。

30年ほど前、1995年(終戦50年)前後であったと記憶しているのですが、太平洋戦争を戦った元日本海軍のパイロットが、テレビ番組で「戦前と戦後とどちらが良いですか?」という質問に、こう答えていました。
「戦後が良いに決まっている。命が一番大切だと言えるんだから。戦争中はとてもじゃないが言えなかったんだ」

それから30年が経っています。件の元パイロットもなくなっており、戦争を知る世代は本当に限られてきました。本作でも、撮影現場に作中人物のモデルとなった方のご遺族が訪れていますが、それなりの年齢を重ねており、時間の経過を実感する情景となっていました。

山下少尉と安慶名は、本土から来た指揮官と現地で入営した新兵という設定で、モデルとなった日本兵2人よりも軍人としての階級にはへだたりがあります。なので、山下役の堤真一は、こうした意識で演じていたそうです。
「その頃の軍人というのは、戦争をするうえでの、ある種の誤った武士道精神を持っていたように思います」

「攻めてくる敵を叩く」という基本軸に忠実な山下に対し、自分の故郷が戦場となり、日常生活を打ち砕かれたかたちの安慶名について、演者の山田裕貴は、
「戦争がどういうものかあまりわかっていない。(中略)つまりは上官とは真反対の、僕たちと近い戦争を知らない若者なんですよ」(いずれもパンフレットより)と、山下とはまったく違うアプローチで役に寄り添っていったそうです。

確かに戦場では山下が指揮をしますが、生き残るための自活部分では、現地を知る安慶名がいなければ、山下が生き残ることは難しかったでしょう。

現在も存在する戦争や戦場が、恐ろしいことであることは事実ですが、そこでも懸命に生きる努力を重ねるのもまた、大きな意義があることも忘れてはいけないはずです。こうした現実を体感させる佳作だと強く感じました。次回は「ジュラシック・ワールド/復活の大地」の予定です(敬称略。【ケイシーの映画冗報】は映画通のケイシーさんが映画をテーマにして自由に書きます。時には最新作の紹介になることや、過去の作品に言及することもあります。隔週木曜日に掲載します。また、画像の説明、編集注は著者と関係ありません)。

編集注:ウイキペディアによると、伊江島は沖縄本島本部半島の西海上5キロメートルに浮かぶ島で、現在は島の面積の35.3%がアメリカ軍が占有する「伊江島補助飛行場」の管理下にある。面積は22.70平方キロメートルで、2025年6月1日現在の人口は推計で3831人。

1943(昭和18)年に飛行場建設計画があり、延長1800メートル、幅員300メートルの滑走路の建設が決定され、建設が始まり、1944年9月に完成した。1944年10月10日から南西諸島一帯での米軍の空爆が始まり、空港はほとんど使われることもないまま、1945年3月アメリカ軍に奪われることを懼れて、破壊命令が出される。

激しい艦砲射撃の後に1945(昭和20)年4月16日に米軍の上陸作戦が開始された。日本軍の根こそぎ動員により住民は防衛隊、青年義勇隊、婦人協力隊等に組織され、赤ん坊を背負った女性が竹槍で斬込隊に参加したという話も伝わる。

4月21日17時30分に米軍から伊江島確保が宣言された。6日間ほどの戦いで島にいた住民の半数1500人が犠牲となった。犠牲の大きさ、勤労動員、住民の疎開と戦闘参加、集団自決などから伊江島の戦いは沖縄戦の縮図ともいわれた。

1945年8月、日本の降伏のため、降伏調印使節団が搭乗した緑十字機(安導権を示す緑十字のマークをつけた白塗りのDC3型と一式陸上攻撃機2機)と、アメリカ軍のDC4型機(ダグラス C-54 スカイマスター)に乗り換える中継地とされた。