GW前に四国周遊、雨の小豆島で「二十四の瞳」村に感激(180-1)

【モハンティ三智江のインドからの帰国記=2026年6月9日】ゴールデンウィーク(GW)で混雑する前にどこかへ旅しようかと考えていたが、第一候補は四国だった。ちょうど北陸との間に夜行バス(琴平バス)が開通し、横浜や東京に行くのと変わらない所要時間で行けると知って飛びついた。

4月15日21時35分の金沢発琴平バスで翌16日朝7時過ぎに高松に到着、3階建ての駅舎はモダンで、近くには一際目立つ超高層ビル、高松シンボルタワー(29階で高さが151mの四国一)がそびえ、周辺には、讃岐うどんの看板を掲げた店も。

早割りで片道6200円、LCC(格安航空会社)の特割だともっと安く行けるかもしれないが、都市の空港まで出向いての待ち時間を考えると、なんと言っても金沢から直通というのがありがたい。ひと晩、車中泊で翌朝には現地に到着できる。

四国と一口に言っても、広いし、3泊する予定の中どうやって周ろうかと考えて、まず愛媛県は今回は外し、香川、徳島、高知の3県を周ることにした。

翌朝の第一寄留地、徳島市(徳島県)で降りることも考えたが、通過して高松市(香川県)まで行くことにした。以前から小豆島(香川県)に行ってみたかったので、こちらを優先することにしたのである。

初めて乗る琴平バスは、3列の隣席との間にスペースのあるなかなか快適なシートで乗り心地は悪くなく、翌朝6時には徳島市に着いた。高松市に着いたのは1時間余後の予定より早い7時過ぎだった。駅周辺の小綺麗な街並みをざっと見て、小豆島へのフェリーが出る築港に向かった。

後で知ったことだが、駅から繋がる高架橋を伝っていけば自動的に港に着けたのだが、初めての私には知る由もなく、街中の道沿いに人伝に訊いて歩いていったのだ。今夜の宿は、琴電(高松琴平電気鉄道)でひと駅の片原町駅近くに取ってあったので、ちょうど築港駅を通過したことで、ホテルへの行き方もわかり、好都合だった。

港からは今まさに、7時40分発の船が出ようとしているところだった。窓口で慌てて切符を買い求め、2600円(往復)とはやけに高いな、ネットでは確か片道700円のはずと首を傾げていたら、倍高の高速艇のチケットを買ってしまった失態にはたと気づいが、もう遅かった。

高松の築港から、小豆島の土圧港まで高速艇で35分、雨の中4月16日8時15分着、市バスで「二十四の瞳」村に向かった。

しかし、結果的には、片道35分のスピーディーな高速艇にしてよかった。フェリーだと1時間かかるところを半減、迅速に土圧(とのしょう)港に着いたおかげで、観光時間に余裕ができたからである。1日乗り放題の市バス乗車券(1600円)を買って、程なくして現れた鮮やかな黄緑色のオリーブバスに乗り込み、まずは「二十四の瞳映画村」(香川県小豆郡小豆島町田浦甲931、0879-82-2455)に向かった。

生憎(あいにく)の雨で、瀬戸内海もグレーに霞んでいるのが惜しまれたが、途上、「醤の郷(ひしおのさと)」(明治時代の日本で最も古い醤油蔵の集積地、香川県小豆郡小豆島町、0879-82-1011)を通過、香ばしい匂いがぷんと漂う中、車窓越しに見学のみ、1時間余後に終点の映画村に着いた。

停車場の脇には、醤油の大樽を廃物利用した物珍しい待合椅子があった。雨がひどくなってきたので、すぐそばの土産物屋に駆け込む。向かいの、車道を挟んだ長屋風建物が映画村らしかったが、まずは、岬の村周辺をざっと巡ってみることにした。入り江沿いに傘をさしながら歩いたか、海はしぶいているし、大して見るべきものもなく、戻ってきた。反対方向に進めば、分校場も見学できるらしかったが、雨で断念した。

映画村の入場料は900円と高めなのだが、バスはお昼までないし、見なければ時間を持て余してしまう。ラッキーにも、前に並んでいた人が身障者割引の半額で、私までシニアゆえかその恩恵にあずかれた。しかも、あまり期待していなかった割には、中は素晴らしく、見応え充分だった。最初の予定の9時の普通フェリーだったら、時間がなくてとても見切れなかったろう。高速艇で早く着いたおかげで、名画のロケ地をじっくり堪能することができたのである。

昭和レトロな瓦屋根旧家風の、「二十四の瞳」映画村。入口には、往年の映画ポスターが壁にずらりと貼られていた。

表門をくぐった中には、高峰三枝子(1918-1990)主演の不朽の名作「二十四の瞳」(原作は壺井栄=1899-1967、監督は木下惠介=1912-1998、1954年公開)のロケのために造られた村が広がっており、その牧歌的な美しさに息を呑んだ。入り口付近には、民家を改造した土産物屋や飲食店、古いゲーム機が並ぶ昭和娯楽館などが立ち並び、さらに奥に進むと、粗末な平屋が入り組んだ路地に軒を並べ、井戸や古い生活用具、壁には昭和の看板がかかり、郷愁をそそった。

右手に透明なせせらぎが流れ、橋を渡ったところの、石段上の奥に弁天様が祀られていた。参拝後、下に降りて、海に近い向こう側まで行くと、12人の子どもたちと女先生の像(「せんせあそぼ」)もあった。

そこから左手にずっと進むと、木造の校舎らしき建物が見えてきた。入ってみると、下駄箱を過ぎて折れた廊下の手前が教室になっており、廊下の窓からは鮮やかな黄に咲き乱れる菜の花畑が見えた。簡素な板敷の教室には、レトロな木の椅子と机が並び、教壇と黒板がしつらえられ、端のガラス窓から海が望めた。

屋外に出て、海の間近まで行ってみると、小石の敷き詰められた浜に、波の穏やかな透き通った入り江が開けていた。

なんとのどかで美しい光景だろう。夢のような学校、素朴な自然に囲まれたこんな校舎で学べるとは、なんて幸せなことだろう。貧しい島の小村ながら、私にはここがまるでパラダイスのように思え、このような環境で学べる子どもたちが羨ましくてならなかった。

すっかり魅せられてしまい、時間ギリギリまで見学、壺井栄記念館も見て、最後に土産物屋でオリーブオイル入りのサブレを買い、まだいくらか時間があったので、「二十四の瞳」を上映中のギャラリー松竹座へ。昭和レトロの小造りの映画館は、円形カウンターの切符売り場、壁もタイル張りと洒落ていて、往年の名優のブロマイドやポスターが貼られていた。バスの時間直前まで楽しみ、帰ったら、原作を読まなきゃと自分に言い聞かせた。

初めて見るオリーブの木をじっくり観察、尖った葉は魔除けに効き、太陽の木、生命の木とも言われ、平和と知恵の象徴。日本では、明治時代フランスから神戸に持ち帰られたが、小豆島はオリーブ栽培発祥の地(1908年)。

次は、道の駅オリーブ公園(香川県小豆郡小豆島町西村甲1941-1、0879-82-2200、8.2ヘクタール、1990年開園)へ向かった。が、雨は止む気配がなく、まずは停留所近くの観光案内所に逃げ込んだ。すぐ横手の海はしぶいているし、せっかく念願の小豆島まで来たのに、雨とはついていない。30分ほど休憩したあと、渋々傘をさして道の駅に向かった。

途中オリーブの樹々が並ぶ園内を散策(約2000本が植わる)、左手奥にふと目をやると、小高い丘の上に、なんとも洒落た白い風車小屋が立っているではないか(姉妹島のギリシャのミロスから贈られたものとか)。エキゾチックなギリシャ風車のさらにその向こうに、灰色に霞む海が横たわっていた。晴天だったら、白い風車小屋と青い瀬戸内海の対照は、いかばかり美しかったろうと惜しまれた。雨にもかかわらず、周辺には、観光客が三々五々群れて、記念撮影していた。

前の道に戻り、少し行ったところで右折すると、地中海風の白い建物、オリーブ記念館が見えてきた。手前の土産物コーナーでは、オリーブオイルはじめ、醤油、地産菓子折りなどが並び、隣接するスペースはギリシャ神殿風、円柱が並ぶ中に神話から抜け出したような美しい白亜のオリーブの女神、アテナ像が直立していた(ルーブル美術館から贈られたレプリカ)。

小豆島と、ギリシャのミロス島が姉妹都市であることを、そこで初めて知った。館内には、オリーブの歴史がわかる関連パネルも展示され、廻り階段を上がった2階のカフェでは、外国人観光客が寛いでいた。ジブリ映画「魔女の宅急便」(原作は角野栄子=1935年生まれ、1989年公開)ゆかりの観光施設も先の道にはあるらしかったが、しのつく雨に断念せざるを得なかった。

この先の停留所をいくつか行った先に、干潮時現れる砂浜、エンジェルロード(香川県小豆郡土庄町にある砂洲)があって、ひと目見たかったが、この雨では砂浜も霞むだけで何も見えないだろうと、諦めた。1日乗車券を買ったが、結局100円高くついた。

土圧港に戻り、少し待って高速艇が来たので高松に帰り、その足で港近くの築港駅から琴電で次の片原町駅で下車、日は暮れかけていた。商店街を抜けたところの裏路地にある「ザ・セレクトン高松」(シングル6300円、 香川県高松市城東町1-9-5、087-821-2222)にチェックイン、小綺麗なビジネスホテルで、コーヒー無料、牛丼サービスがありがたがった。

オリーブ公園の丘の上のギリシャ風車、彼方に見える瀬戸内海との対照が美しく、雨であることが惜しまれた。

いつも雨に祟られる雨女にふさわしい四国第1日目だったが、「二十四の瞳」村は見応えがあったし、道の駅オリーブ公園も初めて見るオリーブ畑や、丘の上の風車に彼方の海の対照が美しかった。まずまずの出だし、明日は普通電車で徳島に向かい、半日観光後、高速バスで高知へ出発、1泊予定だ。9階の窓から、高松の夜景を見下ろしながら、翌日のぎっしり詰まった旅程に思いを馳せた。

☆雑学道しるべ
帰ってから読んだ壺井栄作「二十四の瞳」(1952年発表)は児童文学の名作のみならず、大人の鑑賞に耐えうる反戦文学だった。以下、ざっと概要を掲げると。

昭和3(1928)年、小豆島の分校場に赴任した大石久子は、洋服姿に自転車通勤で村人や子供たちの目を惹く。小柄なことから、小石先生とのあだ名を付けられ、1年生12人のクラスの受け持ちになった久子は張り切るが、しばらく後にいたずらっ子の仕掛けた落とし穴にはまり、アキレス腱を傷めてしまう。しかし、自宅療養中に、8キロの道のりを押して教え子たちが見舞いに訪ねてくれ、絆は強まる。12人の子供たちのきらめく24の瞳の中に未来を見る久子だったが、退職を余儀なくされる。

4年後に本校に復帰、小学1年から5年に成長した元教え子たちと再会、絆はいっそう深まっていく。

時は流れ、太平洋戦争(1941年12月8日から1945年8月15日)勃発、無念の戦死を遂げる男子生徒に、転落する女子生徒も。終戦後、定t年に近い年齢になって復職した久子は、元教え子たちに歓迎会を開いてもらう。それぞれに人生の辛酸を舐めながらも、逞しく成長した教え子たちに囲まれて、自らも母となり、夫を戦争で亡くしながらも、久子は、幸せだった……。

オリーブ記念館のオリーブの女神、アテナ像。ルーブル美術館から贈られたレプリカだけに、壮麗で見とれた。

(「インド発コロナ観戦記」は、92回から「インドからの帰国記」にしています。インドに在住する作家で「ホテル・ラブ&ライフ」を経営しているモハンティ三智江さんが現地の新型コロナウイルスの実情について書いてきましたが、92回からはインドからの「帰国記」として随時、掲載しています。

モハンティ三智江さんは福井県福井市生まれ、1987年にインドに移住し、翌1988年に現地男性(2019年秋に病死)と結婚、その後ホテルをオープン、文筆業との二足のわらじで、著書に「お気をつけてよい旅を!」(双葉社)、「インド人には、ご用心!」(三五館)などを刊行している。編集注は筆者と関係ありません)。