【銀座新聞ニュース=2026年6月24日】世界第2位のタイヤ―メーカーのブリヂストングループの公益財団法人石橋財団(中央区京橋1-7-2、03-3563-0251)が運営するアーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館、中央区京橋1-7-2、050-5541-8600)は10月4日まで6階展示室で「エットレ・ソットサスー魔法がはじまるとき、デザインは生まれる」展を、、5階、4階展示室で「瀧口修造 書くことと描くこと」展を開いている。

アーティゾン美術館で10月4日まで開かれている「エットレ・ソットサスー魔法がはじまるとき、デザインは生まれる」展に出品されている画像で、画像はエットレ・ソットサスの「カールトン」(1981年、デザイン、製作:メンフィス・ミラノ、石橋財団アーティゾン美術館(C)Erede Ettore Sottsass)。
美術館によると、イタリアの建築家、インダストリアルデザイナーのエットレ・ソットサス(Ettore Sottsass、1917-2007)は1950年代からイタリアのタイプライターメーカーのオリべッティ社(Olivetti)やイタリアの家具メーカー、ポルトロノーヴァ社(Poltronova)のデザイナーとして数々の名作を生みだし、1981年には国際的なデザイナー集団「メンフィス」を結成して、しばしばポストモダンと評される革新的なデザインで一世を風靡した。
エットレ・ソットサスは過度な合理性の追求に疑念をもち、人々の生活に自由で生き生きとした感性を取り戻そうとし、斬新でユーモアあふれるデザインによって、現代人の生活、人生、ひいては運命を明るく照らそうとした。 近年、石橋財団では新たにデザイン分野の作品収集にも注力し、エットレ・ソットサスの初期から晩年におよぶ100点を超えるコレクションがあり、今回はこれらの作品を一挙に公開する大回顧展であり、美術館の初のデザイン展としている。
一方、石橋財団は、昭和期を代表する詩人にして美術批評家、画家の瀧口修造(たきぐち・しゅうぞう、1903-1979)の作品163点(他の作家との共作含む)を所蔵しており、今回は収蔵後にこれらの作品のおよそ半数を一挙に公開する。また、同じフロアで「石橋財団コレクション選」として、近代を中心に所蔵する作品も展示する。
瀧口修造は1920年代にシュルレアリスムの影響を受けながら、詩作を始め、1930年代から戦後にかけて、フランスの画家、ポール・セザンヌ(Paul Cezanne、1839-1906)から同時代に至る美術についての思索と著述を重ねており、その歩みは、「書く」営みに貫かれたものとしている。
瀧口修造が1960年に本格的に試みるようになるのが、自身で「デッサン」と称する造形作品の制作で、「書く」ことを通じて世界と対峙してきた瀧口修造において、「描く」こととはいかなる行為であったのか。
今回は詩作から美術批評、展覧会の企画や他の作家との交流など、瀧口修造の活動全体を視野に収めながら、多様な実験的技法による作品と、スイス生まれのドイツ人画家、パウル・クレー(Paul Klee、1879-1940)やフランスの美術家、マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp、1887-1968)、スペインの画家、ジョアン・ミロ(Joan Miro i Ferra、1893-1983)をはじめとする関連作家の作品、あわせて約120点の展示を通して、この問いを再考するとしている。
ウイキペディアによると、エットレ・ソットサスは1917年オーストリア=ハンガリー帝国(当時)のインスブルック(オーストリア)で生まれ、父親は建築家で、その仕事に伴い、イタリア・トリノへ移り、そこで育ち、1939年にトリノ工科大学(Politecnico di Torino)建築学科を卒業後、第2次世界大戦(1939年9月1日から1945年9月2日)でイタリア軍に従軍し、ユーゴスラビアの収容所で終戦を迎えた。
復員すると、1947年にミラノに建築および産業デザインの事務所を開設し、ジオ・ポンティ(Gio Ponti、8981-1979)やカルロ・モリーノ(Carlo Mollino、1905-1973)らデザイナー・建築家が戦後イタリアの復興のために結成したグループに加わった。当時のイタリアでは、社会や経済の近代化をめぐって、インテリや実業家ら改革推進派と、中産階級や政府など改革抵抗派が対立していたが、デザイナーらは消費社会に反対する風土に抑圧されつつ、混沌とした情勢を利用して大量生産企業相手や地方の家族企業相手の両方の方向性の仕事を行った。また、バウハウス(Bauhaus、1919年にドイツ近郊のヴァイマルに設立された美術学校)以後に確立されたモダニズムの思想に基づきながらも、人間性を重視した新しい「デザイン言語」を作り上げた。
当時は建築設計や展覧会出展などの仕事を行っていたが、1958年よりオリベッティとデザイン・コンサルタントとしての契約を結び、電子機器やタイプライター、オフィス家具のデザインを開始した。当時、電子技術の知識はあまりなかったものの、英米のポップアートの影響や、アーキグラムなどのグループが打ち出すハイテクを駆使した過激なデザインを吸収して咀嚼していた。
エットレ・ソットサスのデザインした「トテム」(totem)や大型コンピュータ「エレア9003」(ELEA 9003)などは1959年にイタリア最高のデザイン賞を受賞した。オリベッティとの共同作業は40年に渡り続き、1969年にはペリー・キング(Perry King)さんとともに、鮮やかな赤色のプラスチックケース入りポータブルタイプライター「ヴァレンタイン」をデザインした。これは当時の産業デザインに比べるとポップアート作品に近いほどの大胆さであり、当時の働く女性の究極のファッションアイテムとなった。現在ではニューヨーク近代美術館にコレクションされている。
1961年にはインド旅行で強い哲学的衝撃を受け、同年に病気療養のためアメリカ西海岸のパロアルトに滞在し、同地のビートニク詩人らと交わったことで新しい文化を吸収した。日本の美術家であるタイガー立石(1941-1998)が1971年からオリベッティ社配下のソットサスのデザイン研究所に在籍している。
1980年、60歳代のエットレ・ソットサスはデザインや展覧会を通して知り合ったマルコ・ザニーニ(Marco Zanini、1971年生まれ)さんら若手デザイナーと「ソットサス・アソシエイツ」を作り、1981年にはソットサス・アソシエイツのメンバーや世界から集まった30歳代の若手デザイナー・建築家らと「メンフィス・グループ」を結成した(この名は、彼らがボブ・ディラン=Bob Dylan、1941年生まれ=さんの「Stuck Inside of Mobile With the Memphis Blues Again」を聴きながら飲んでいたときに決まった)。
「メンフィス」は40点ほどの家具、陶磁器、照明器具、ガラス製品、テキスタイルを集めた展覧会を開いたが、その作品は蛍光色などの鮮やかな色彩、滑らかな表面、うねるような形状などを特徴としていた。メンフィス・グループ時代のエットレ・ソットサスの鮮やかで反語的なデザインは、戦後のモダニストとして、より簡素な作品からは離れたと見られた一方、ポストモダンのデザインや芸術の好例として熱狂的に受けいれられた。
インダストリアルデザイナーとしてエットレ・ソットサスは、1960年代から家具会社のポルトロノヴァ(Poltronova)のデザインも手がけた。1980年代にはヨーロッパ、アメリカ、日本各地で市街地再開発や個人宅の設計を行ったほか、フィオルッチ(Fiorucci、1967年創業の至りのファッションブランド)やエスプリ(Esprit、1968年アメリカで創業されたライフスタイルブランド)などのブランドの店舗内装デザイン、イタリア・ミラノのレザー&アウターウェアのマンデッリ社(Mandelli)」の工作機械、イタリアの家電・オーディオーメーカーのブリオンヴェガ社(Brionvega)」のテレビ、ウェラ社の家電、トーヨーサッシ(現トステム)の窓枠などのデザインも行っている。
こうしたデザインや設計には、イタリアのデザイナーのアルド・チビック(Aldo Cibic、1955年生まれ)さん、ジェームズ・アーヴィン(James Irvine、1978年生まれ)さん、マテオ・テュン(Matteo Thun、1952年生まれ)さんらが共同設計者としてかかわっている。

同じく美術館で開かれている「瀧口修造 書くことと描くこと」展に出品されている画像で、画像は安齊重男(1939-2020)の「瀧口修造、自由が丘画廊、東京、1978年1月」(1978年/1980年代前半、石橋財団アーティゾン美術館(C)Estate of Shigeo Anzai)。
瀧口修造は1903年富山県婦負郡寒江村(のち呉羽町、現富山市)生まれ、1921年に富山県立富山中学校(現富山県立富山高等学校)を卒業、医学部受験準備を理由に上京するも、1922年に母たきが急死、医学部進学を断念、日進英語学校に通う。1923年4月に慶應義塾大学予科に入学するも、講義より図書館でイギリスの詩人、画家のウィリアム・ブレイク(William Blake、1757-1827)などを原書で読むことのほうが多くなる。
1923(大正12)年の関東大震災被災後の12月に大学を退学、持っていた文学書等を売り払い、文学を「清算」して姉のいる北海道小樽市に身を寄せ、姉と一緒に文房具店兼手芸材料店「島屋」を開く。その後、姉や身内の強い説得にあい、1925(大正14)年に慶應義塾大学文学部に再入学、1926(昭和元)年、友人の永井龍男(1904-1990)らの勧めで同人誌「山繭(やままゆ)」に参加、同人には小林秀雄(1902-1983)らがいた。
慶応大学ではイギリスのオックスフォード大学から帰国した西脇順三郎(1894-1982)に、卒業まで5年間教わる。西脇順三郎から西洋の最新のモダニズム詩運動について聞き、西脇順三郎の自宅でダダイスムやシュルレアリスムを知り、アルチュール・ランボー(Arthur Rimbaud、1854-1891)、アンドレ・ブルトン(Andre Breton、1896-1966)、ポール・エリュアール(Paul Eluard、1895-1952)などの「詩集」を原書で読み、次第に影響を受ける。
1927(昭和2)年には西脇順三郎を中心にシュルレアリスム詩「馥郁(ふくいく)タル火夫ヨ」(アンソロジー)を刊行、1928(昭和3)年に上田敏雄(1900-1982)、英文学者の上田保 (1906-1973)、冨士原清一(1908-1944)らと「衣裳の太陽」(編集発行人:冨士原清一)を発刊、また詩雑誌「詩と詩論」(編集人:春山行夫=1902-1994=、厚生閣書店)同人となる。
1930(昭和5)年、シュルレアリスムの国際交流を目指す「LE SURREALISME INTERNATIONAL(シュールレアリスム・アンテルナショナール)」(主唱者:瀧口修造、編集発行人:冨士原清一)を創刊するも、日本語版のみで、1冊のアンソロジーで終わる。しかし、この路線は後に「L’ECHANGE SURREALISTE(レ・シャンジ・シュールレアリスト)」(山中散生=ちるう、1905-1977=編、1936年、ボン書店)、「海外超現実主義作品展」(1937年)として結実する。1930年にはアンドレ・ブルトンの「超現実主義と絵画」を翻訳した。
1931(昭和6)年、慶應義塾大学文学部英文科を卒業、1932(昭和7)年、PCL映画製作所(現東宝)に入社、日本で初のスクリプター(記録係)となり、数年間働く。1935(昭和10)年に、画家の鈴木綾子(1911-1998)と結婚した。1936(昭和11)年には瀧口修造が中心となって難波田龍起(なんばだ・たつおき、1905-1997)、末松正樹(1908-1997)、大塚耕二(1914-1945)らとともにアヴァンギャルド芸術家クラブを結成、1938年に永田一脩(いっしゅう、1903-1988)らとともに「前衛写真協会」を結成した。
1941(昭和16)年3月に当局に前衛思想が危険視され、シュルレアリスム系の画家である福沢一郎(1898-1992)とともに、治安維持法違反容疑で特高に逮捕されたが、起訴猶予のまま同年11月に釈放された。しかし、この逮捕により、戦前の日本のシュルレアリスム運動は終息に向かった。1945年5月25日、東京最後の空襲で自宅が全焼し、戦前の活動を記したすべての原稿や文献が失われ、8月15日の敗戦の日を金沢市の綾子夫人の実家で迎えた。
戦後は主に評論家として活躍し、実験工房を主催し、美術評論を数多く著した。1950年には植村鷹千代(1911-1998)と村井正誠(まさなり、1905-1999)、岡本太郎(1911-1996)、福沢一郎(1898-1992)らと「日本アヴァンギャルド美術家クラブ」を創立、1951年から、神田駿河台のタケミヤ画廊にて多くの企画展を開いた。また、読売アンデパンダン展の企画運営にも関与し、当時の新進の芸術家に自由な表現の場を提供した。
1952年に国立近代美術館運営委員、1959年に欠席した美術評論家連盟の総会で国立近代美術館の会長に選ばれ、2期務めた。1956年5月に山本悍右(かんすけ、1914-1987)らとともに「日本主観主義写真連盟」を結成した。1960年頃より創作活動を再開、1966年に日本展開催のために来日したスペインの画家、ジョアン・ミロ(Joan Miro、1893-1983)と出会い、後に共著詩画集「ミロの星とともに」(平凡社、1978年)を刊行した。1979年に心筋梗塞のため死去、享年75。
瀧口修造の所持していた1万点に及ぶ美術資料は、多摩美術大学で瀧口修造文庫として所蔵され、作品と遺品の多くは富山県美術館に瀧口修造コレクションとして収蔵されている。母校の慶應義塾大学アート・センター内にも「瀧口修造アーカイヴ」が設けられている。
旧ブリヂストン美術館は1952年にブリヂストンの創業者、石橋正二郎(1889-1976)がブリヂストン本社ビル(永坂産業京橋1丁目ビル)内に開館した。石橋正二郎は昭和初め頃から日本の近代絵画の収集を始め、西洋美術のコレクションを、戦後まとまった形で入手し、美術館の開館までのわずか数年間に日本有数の西洋美術コレクションを形成した。
1956年には財団法人「石橋財団」を設立、1961年に美術品も財団へ移管され、同年に郷里の福岡県久留米市には石橋美術館を中核施設とする「石橋文化センター」が寄贈された。石橋財団は2016年9月をもって石橋美術館の運営を久留米市に返還し、石橋美術館は2016年10月から「久留米市美術館」として再出発した。石橋財団が所有し、石橋美術館で展示してきた国宝・重要文化財を含む美術品はすべて石橋財団アートリサーチセンター(東京都町田市)で一括管理されている。
ブリヂストン美術館は2015年5月18日からビルの建替えに伴い長期休館し、2019年7月1日から館名を「アーティゾン美術館」に変更し、2020年1月18日に「ミュージアムタワー京橋」の1階から6階部分で再開館した。
開場時間は10時から18時(金曜日は20時)。月曜日は休館、ただし、7月20日と9月21日は開館し、7月21日と9月24日は休館。入場料は一般が当日窓口で1500円。ネットで予約すると、1200円。大学生以下は無料だが、高校生以上は事前にネットで予約する。