ヴァニラでサド「オマージュ」展、川井莨、空山基、多賀新ら17人

【銀座新聞ニュース=2026年8月4日】ヴァニラ画廊(中央区銀座8-10-7、東成ビル、03-5568-1233)は8月6日から21日まで「サド・オマージュ-defy」を開く。

ヴァニラ画廊が8月6日から21日まで開かれる「サド・オマージュ-defy(ディファイ、反抗)」のフライヤー。作品は空山基さん。

画廊によると、没後200年(212年)を経た今日もなお、アルフォンス=フランソワ・マルキ・ド・サド(サド侯爵、 Alphonse Francois Marquis de Sade、1740-1814)はその作品と共に、苛烈な人生と人物像を通じて、当時の道徳観を揺るがし、想像力を挑発し続け、時代を超えて現代の作家たちに読み継がれている。「反骨」と「官能」と「不道徳」という強烈なイメージを放ち続ける一方で、サドの根底には社会規範への反抗と批判、人間存在の本質を見つめる眼差しが宿っているという。

今回は、そうしたサドのイメージがいかに現代作家やシュルレアリスムに影響を与え、また「欲望と倫理」と「自由と抑圧」といった普遍的テーマとして受容されてきたかを、現代作家によるオマージュを通して紹介する。

アルフォンス=フランソワ・マルキ・ド・サド(サド侯爵、 Alphonse Francois Marquis de Sade、1740-1814)はフランス・パリに生まれ、幼少期にジャック・ド・サド神父(Jacques-Francois-Paul-Aldonse、1705-1778)のもとで教育を受け、16歳から7年間、軍務に就き、1763年の結婚以降、サドは度重なる性スキャンダルやキリスト教冒涜、女性への暴行や服毒事件などにより逮捕・拘留・投獄と釈放を繰り返し、最終的にはバスティーユ監獄に収監された。

代表作である「ソドム百二十日」(1785年)、「アリーヌとヴァルクール」(1795年)、「ジュスティーヌ」(1787年)などは、この獄中で執筆された。

フランス革命(1789年7月14日にバスティーユ牢獄を襲撃、これが伝統的に革命初期の頂点とみなされ、現在の革命記念日となっている)後に釈放されたサドは、政治活動に関わるものの、その演説は無神論と宗教への攻撃とみなされ再び逮捕され、処刑寸前に恐怖政治(1793年から1794年7月)の終焉によって救われたのちも、「閨房哲学」(1795年)、「新ジュスティーヌ」(1787年)などを匿名で出版した。しかし、晩年は貧困と病に苦しみ、精神病院に収容され1814年に生涯を閉じた。

それらの作品は、19世紀にはスタンダール、ボードレール、ドストエフスキーら文学者、シュティルナーやニーチェら思想家に影響を与え、20世紀に入るとアンドレ・ブルトンやジョルジュ・バタイユ、ハンス・ベルメールをはじめとするシュルレアリスト、さらにはミシェル・フーコーやカミーユ・パリアら思想家へと受け継がれていく。

今回、出品するのは金子國義(1936-2015)、川井莨(たばこ)さん(1958年東京都生まれ) 坂本眞一さん(1972年大阪府生まれ)、沙村広明さん(1970年千葉県生まれ)、スズキエイミさん(1993年生まれ)、空山基(はじめ)さん(1947年愛媛県生まれ)、髙木智広さん(1972年岐阜県生まれ)、多賀新さん(1946年北海道生まれ)、田亀源五郎さん(1964年生まれ)、クロさんとシロさんの2人組ユニット「FREAKS CIRCUS(フリィクスサァカス)」。

冷墨(ひやずみ)清志さん(1960年和歌山県生まれ)、与偶さん(1982年岐阜県生まれ)、Arthur de Pins(アルチュール・ド・パン)さん(1977年フランス・ディナン生まれ)、Ignacio Noe(イグナシオ・ノエ)さん(1965年アルゼンチン生まれ)、Patricia Mariano(パトリシア・マリアーノ)さん(1988年ポルトガル・リスボン生まれ)、Romain Hugault(ロマン・ユゴー)さん(1979年フランス生まれ)、Vince(ヴィンス)さん(フランス生まれ)の17人(組)。

また、今回は特別にウエブギャラリーのGallery Lucifer(ギャラリー・ルシフェール)所蔵の「サド頭蓋骨レプリカ」を展示する。このレプリカはドイツ生まれの画家、ハンス・ベルメール(Hans Bellmer、1902-1975)が制作した。

ウイキペディアによると、マルキ・ド・サド(Marquis de Sade
)は、フランス革命期の貴族で小説家。サドは虐待と放蕩の廉で、パリの刑務所と精神病院に入れられた。バスティーユ牢獄に11年、コンシェルジュリーに1カ月、ビセートル病院(刑務所でもあった)に3年、要塞に2年、サン・ラザール監獄に1年、シャラントン精神病院に13年入れられた。サドの作品のほとんどは獄中で書かれたものであり、しばらくは正当に評価されることがなかったが、現在は高い評価を受けている。

1740年にパリのオテル・ド・コンデ、かつてのコンデ公の邸宅、現在のパリ6区コンデ通りとヴォージラール通りで、サド伯爵ジャン・バティスト・フランソワ・ジョセフ(Jean-Baptiste de Sade、1702-1767)と、マリー・エレオノール・ド・マイエ・ド・カルマン(コンデ公爵夫人=Caroline von Hessen-Rheinfels-Rotenburg、1714-1741)の女官、マリー・エレオノール・ド・マイエ・ド・カルマン=Marie-Eleonore de Maille de Carman、1712-1777)の間に生まれた。

マルキ・ド・サドは伯父のジャック・ド・サド修道士(Jacques-Francois-Paul-Aldonse、1705-1778)による教育を受けた。サドは後にイエズス会のリセ(Lycee、日本の高校と同じ)に学んだが、軍人を志して七年戦争(1756年から1763年まで戦われた、18世紀の実質の世界大戦)に従軍し、騎兵連隊の大佐となって闘った。

1763年に戦争から帰還し、金持ちの治安判事の娘に求婚するも、彼女の父はサドの請願を拒絶した。その代わりとして、彼女の姉ルネ・ペラジー・コルディエ・ド・ローネー・ド・モントルイユ((Renee-Pelagie Cordier de Launay de Montreuil、1741-1810))との結婚を取り決めた。1763年の結婚後、サドは息子2人と娘を1人もうけた。1766年、サドはプロヴァンスのラコストの自分の城に、私用の劇場を建設した。

サド家は伯爵(Comte、コント)から侯爵(Marquis、マルキ)となり、祖父ギャスパー・フランスワ・ド・サド(Gaspard Francois de Sade、1669-1739)は最初の侯爵であった。サドは「復活祭の日に、物乞いをしていた未亡人を騙し暴行(アルクイユ事件)」や「マルセイユの娼館で乱交し、娼婦に危険な媚薬を飲ます」などの犯罪行為を犯し、マルセイユの娼館の件では「毒殺未遂と肛門性交の罪」で死刑判決が出ている。1778年にシャトー・ド・ヴァンセンヌに収監され、1784年にはバスティーユ牢獄に移された。

獄中にて長大な小説をいくつか執筆した。それらは、リベラル思想に裏打ちされた背徳的な思弁小説であり、エロティシズム、徹底した無神論、キリスト教の権威を超越した思想を描いた小説だった。「ソドム百二十日あるいは淫蕩学校」をはじめ、淫猥にして残酷な描写が描かれた作品が多いため、19世紀には禁書扱いされた。

サドは革命直前の1789年7月2日、バスティーユから「彼らはここで囚人を殺している!」と叫び、革命のきっかけの一つを作ったと言われる。まもなくシャラントン精神病院にうつされ、1790年に解放された。

当初、共和政を支持したが、彼の財産への侵害が行われると次第に反共和政的になった。1793年12月5日から1年間、投獄された。1801年、ナポレオン・ボナパルト(Napoleone di Buonaparte、ナポレオン1世、1769-1821)は、匿名で出版されていた「ジュスティーヌあるいは美徳の不幸」と「ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え」を書いた人物を投獄するよう命じ、サドは裁判なしに投獄され、1803年にシャラントン精神病院に入れられ、1814年に没するまでそこで暮らした。

開場時間は12時から19時(土日曜日、祝日、最終日は17時)。会期中は休みなし。入場料は1000円。