【銀座新聞ニュース=2026年1月31日】Art Gallery M84(中央区銀座4-11-3、ウインド銀座ビル、03-3248-8454)は2月2日から28日までウジェーヌ・アジェによる写真展「Ⅵ シュルレアリスム」を開く。

Art Gallery M84(アート・ギャラリー・エムハッシー)で2月2日から28日まで開かれるウジェーヌ・アジェの写真展「Ⅵ(第6回)シュルレアリスム」に展示される「Rue Boutebrie(ル・ブテブリ、ブテブリ通り)」(ATGET(C)Arch.Phot.Paris Spadem)」。
フランスの素朴派の画家、アンリ・ルソー(Henri J.F.Rousseau、1844-1910)とともにシュルレアリスムの先駆者に数えられた、フランスの写真家で「写真家の税関吏ルソー」と呼ばれたウジェーヌ・アジェ(Jean-Eugene Atget、1857-1927)の個展「シュルレアリスム」を開く。Art Gallery M84では2018年9月から10月に1回目を開き、2022年5月から7月まで2回目、2023年8月から9月に3回目、2024年6月から7月に4回目、2025年5月に5回目を開いたのに続き、今回6回目(Ⅵ)を開く。
ウジェーヌ・アジェは41歳のときから30年間に約8000枚の写真を残し、20世紀前後のパリの建築物、室内家具など失われる古きパリのイメージを撮影した。パリ市歴史図書館などの購入者が決まっており、テーマを決めて計画的に撮影した。
今回の写真展「Ⅵシュルレアリスム」は、フランス国家が管理しているウジェーヌ・アジェが撮影したガラス乾板からフランス国家が指定したプリンターで紙焼きした作品で、他ではみることのできない作品約30点を展示販売する。20世紀前後のパリの建築物や風景など失われる古きパリのイメージを撮影したものという。
ウジェーヌ・アジェは33歳の頃に画家をめざすも断念し、その後、職業写真家を志し、芸術家や装飾家の制作の資料となる写真やパリの街並みや職人の姿、郊外の風景を撮影した。歴史的建造物、古い街並、店先、庭園、そこに住まう人々など、変わりゆく「古きパリ」を丹念に撮影し、それらの写真は、パリの貴重な記録として、図書館や博物館に収められた。
貴族の館から下層社会の人々の生活まで撮影し、率直で素朴な目で現実を捉え、現実を超えた世界を引き出した芸術家とみなされた。この事態のきっかけは、アジェとアメリカの写真家、マン・レイ(Man Ray、1890-1976)との偶然の出逢いで、アジェの近所に居を構えていたマン・レイは、その写真の魅力を見抜いて機関紙「シュルレアリスム革命」に掲載し、前衛芸術家の仲間たちへ写真を広めた。
この頃から、アジェの作家性にスポットライトが当たりはじめ、 この後、マン・レイのアシスタントを務めていたアメリカの写真家、ベレニス・アボット(Berenice Abbott、1898-1991)によりアジェの存在は世界に波及していく。
また、アジェの死後、散逸の危機にあったプリントやガラス乾板を、もうひとりの貢献者であるニューヨークのギャラリスト、ジュリアン・レヴィ(Julien Levy、1906-1981)の助けを借りて買い取り、アメリカでアジェの芸術性を広めていき、「近代写真の父」と称された。
今回の代表作品は、パリ5区ソルボンヌ地区にあるブテブリ通りで撮影した「Rue Boutebrie(ル・ブテブリ)」で、建物の水平垂直に拘り、レンズのケラレ(写真の四隅、周辺部が暗く、黒い影のように写り込んでしまう現象)でプリントの上下が黒くなり、極端にアオリを効かせていることが判る作品という。オリジナルプリント「Rue Boutebrie, Paris, 1900」が2010年にクリスティーズで、最高額68万6500米ドル(約1億700万円)で落札されている。
M84では「アジェの写真の純粋さ、強烈さに匹敵する写真家はほかにいない。アジェの作品は、古代から現在に至る長く複雑な伝統を理解し、解釈するという目的を担っていた為、ドキュメンタリーとか自己表現というアプローチのレベルを超越して、一見するとシンプルで、地味に見える彼の写真は、実は非常に豊かで、ミステリアスであると同時に真実をしっかりと捉えている」としている。
ウイキペディアによると、「シュルレアリスム(surrealisme)」はフランスの詩人アンドレ・ブルトン(Andre Breton、1896-1966)が提唱した思想活動で、一般的には芸術の形態、主張の一つとして理解されている。日本語で「超現実主義」と訳されている。シュルレアリスムの芸術家を「シュルレアリスト(surrealiste)」と呼ぶ。
芸術運動の「シュルレアリスム」では、その多くが現実を無視したかのような世界を絵画や文学で描き、まるで夢の中をのぞいているような独特の非現実感は見る者に混乱、不可思議さをもたらす。シュルレアリスムのはじまりは、シュルレアリスム宣言が発せられた1924年だが、その終わりには諸説ある。
シュルレアリスムは、思想的にはジークムント・フロイト(Sigmund Freud、1856-1939)の精神分析の強い影響下に、視覚的にはジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico、1888-1978)の形而上絵画作品の影響下にあり、個人の意識よりも、無意識や集団の意識、夢、偶然などを重視した。このことは、シュルレアリスムで取られるオートマティスム(自動筆記)やデペイズマン、コラージュなど偶然性を利用し、主観を排除した技法や手法と、深い関係にあると考えられることが多い。
洗濯船(Bateau-Lavoir、バトー・ラヴォワール)は、パリのモンマルトルにある安アパートの名前で、ラビナン通り13番(13 Rue Ravignan)に位置しており、1970年に木造家屋が焼失し、その後、現在のビルが建てられている。
1904年から1909年までパブロ・ピカソが恋人のフェルナンド・オリビエ(Fernand Olivier、1881-1966)と共に住み、アメデオ・モディリアーニ(Amedeo Clemente Modigliani、1884-11920)ら他の貧乏な画家もここに住み、アトリエを構え、制作活動を行った。
イタリア出身のポーランド人の詩人、小説家ギヨーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire、1880-1918)、フランスの詩人ジャン・コクトー(Jean Cocteau、1889-1963)、フランスの画家アンリ・マティス(Henri Matisse、1869-1954)らも出入りし、活発な芸術活動の拠点となったが、1914年以後は多くはモンパルナスなどへ移転した。
洗濯船と名づけたのは詩人のマックス・ジャコブ(Max Jacob、1876-1944)で、細長い長屋風な建物で、歩くとギシギシ音がして、セーヌ川に浮かんでいる洗濯用の船とそっくりであることから名づけたとされている。
ウジェーヌ・アジェは1857年フランス南西部ボルドー近くの町リブルヌ生まれ、1863年に両親が亡くなり、叔父に引きとられてパリに移り住み、神学校に通うものの中退し、商船の給仕となってヨーロッパ各地、北アフリカ、南アメリカを旅した。1879年にフランス国立高等演劇学校に合格するも、兵役のため中退した。
1881年に地方回りの役者になり、1886年に伴侶となる女優ヴァランティーヌ・ドラフォス(Valentine Delafosse、1847-1926)に出会い、2人はいっしょに旅回りを続け、グルノーブル、ディジョン、パリ郊外で公演、1897年から1902年の間、ヴァランティーヌはラ・ロッシュで公演した。1898年にウジェーヌ・アジェは劇団を解雇され、1人パリに戻り、41歳で画家になろうとし、風景画を描き、印象派風の木を描いた油絵画が残されている。
しばらくして画家の道を断念し、この少し前から写真を撮り始め、18×24センチのガラス乾板を使う木製の暗箱カメラでレンズボードを上下にあおれるものを使用、最初に手がけたシリーズは路上で商いをする人々の写真だった。
1899年10月にモンパルナスのカンパーニュ・プルミエール街17番地に引っ越し(死ぬまで住む)、アパートのドアに手書きの「芸術家の資料(documents pour artistes)」という看板を掲げ、芸術家に写真を売る生活をはじめた。画家を志した際に多くの画家が作品の資料となる写真を求めていることを知り、生活のために写真をはじめ、初期の路上の物売りシリーズを除いて、建物を正確に撮ろうとすると、人や馬車がじゃまになるため朝に撮影した。
アルバムは次の7つがある。1898年から1900年がパリの生活と仕事(146枚)、1910年にパリの乗り物(57枚)とパリの屋内:芸術的、絵画的、中産階級(54枚)、1912年にパリの仕事、店、ショーウィンドウ(59枚)、1913年に古きパリの看板、古い店(58枚)、1913年にパリを囲む城壁跡(56枚)、1913年から1914年にパリの旧軍用地帯の住人の様子とその典型(62枚)。
1927年にシュルレアリスムの若い前衛芸術家の強い関心を惹きつけ、素朴派の画家、アンリ・ルソー(Henri Julien Felix Rousseau、1844-1910)とともにシュルレアリスムの先駆者に数えられ、「写真家の税関吏ルソー」と呼ばれ、1927年8月にパリにて死去した。
開場時間は10時30分から18時30分(最終日は17時)まで。入場料は800円。日曜日は休館。作品はすべて販売する。