【モハンティ三智江の異国の地から母に捧げる記=2021年11月9日】私は子どもの頃、『みっちゃん』との愛称で呼ばれていたが、幼児期はわがままなかんしゃく持ちで母も手を焼いたと思う。家庭破綻で夫婦仲がよくなく、ただですらストレスが溜まる中、ぐずぐずと駄々をこねていつまでも泣き止まぬ長女をさぞかし持て余したことだろう。
女の子ということもあって、弟たちと違って家事の手伝いもさせられたし、なんで私ばっかりと不満に思い、女に産まれたことを恨むこともあったが、それはそっくり母がたどってきた少女期の思いでもあったろう。
子どもの頃の私は野生丸出しのお転婆娘で、3人の弟の上に君臨する女帝、男勝りで母にもよく叱られたものだ。喘息持ちの虚弱な長弟が、入退院を繰り返しているのを尻目に、すこぶる丈夫で、近辺を駆けずり回ってよく怪我もしたものだった。
母の愛情はひとえに体の弱い長男に向けられ、特別扱い、不公平に思うこともあったが、並の愛情は注いでもらった記憶がある。少女期は、髪を結ってもらったり、洋服を手縫いで作ってもらったり、誕生日には友達を招んでのパーティーでご馳走を作ってもらったり、長じてからも、デパートに一緒に行って服を買ってもらったり、たった1人の女の子ということでそれなりに可愛がられた。
父母の不仲はさておき、幼児期には父にも溺愛されたから、私は人並みに親の愛情は受けて育っている。むしろ、弟たちの方が父の愛に恵まれず、特に末弟は、父は戸籍簿上だけのこと、実質母子家庭で育ったようなものだったから、同情に値する。
4人目ともなると、母の方でも放任気味となり、思春期形成上、不利だったと思う。それでも、母は夏休みに子どもたちを連れて、旅に出るのを楽しみにしていた。本来は出ずっぱりの人だったのだ。機転の利く次弟がこまめに時刻表を調べ計画書を作成していたが、中高時代の私は独りで留守番することを好んだ。複雑な家庭に育ったことが影を落とし、大学ノートにもの思いを綴る、孤独な少女になっていた。
ほかに、母と過ごした少女期で記憶に残っているのは、娘のとっている少女漫画誌『りぼん』や『なかよし』、ジュニア小説書を、私が読み終わったあと読むのを楽しみにしていたということだ。いかにも文学肌の母らしく、40代の頃は源氏物語講座にも通っていたし、新聞が好きで気になった記事は切り抜きをとっておいたりしたものだ。
娘に負けず劣らず、少女漫画や少女小説に夢中になって読み耽る母は、戦中こっそり親に隠れて文学書に耽溺した少女期そのもの、微笑ましい想い出だ。読み物への共感を母と分かち合えたのは、実に幸福で貴重な記憶だ。
東京に出てからは、母との関係にもやや距離ができたが、帰省の折は一緒に買い物に出たり、母が東京の私のアパートを訪ねることもあった。情緒不安定の母は電話で訴えることもしょっちゅうだったが、娘の私はつい邪険に扱ってしまうこともあり、悔やまれる。
若い頃の私は母の問題をどう扱っていいかわからず、ともすれば重荷に思うこともあったのだ。子どもの頃、熱が出たとき寝ずの看病をしてもらったり、おぶって医院に連れて行ってもらったことを思えば、母の不調を少しでも思いやれなかったとは、なんと親不孝な娘だったことだろう。
長弟は、産まれたときから体が弱く、母に迷惑をかけたことを日頃気にしていたが、立派な医者になって母の最期を看取ったのだから恩義は返せたと思う。母は、我が子の診断世話で手厚く看護され、旅立ったのだから、幸せだったろう。
長女の私の方が、インドくんだりで勝手に国際結婚という親不孝の限りを尽くし、なんの恩も返せていないのだから、罪悪感が募るばかりだ。しかも、やむにやまれぬ事情があったとはいえ、危篤時駆けつけることができず、最後の対面は叶わなかった。ただただごめんなさいと、ひれ伏して許しを請うばかりた。
●母を探し求めて
10月11日がお通夜、12日が葬儀・告別式と、長女の私不在のごく少数の近親者のみで執り行われた儀式がつつがなく終了、喪主を務めた長弟や、東京の叔父から報告のメールが届いた。
死に顔は穏やかで、天寿を全うした証拠に顔色はつやつやだったそうだ。42年前、壮絶ガン死した父の死に顔も、生前の苦しみが嘘のように肉が戻り福々しかったが、同様に母も安らかで美しい死に顔だったことに、ほっと救われる思いだった。
ある意味、事業で成功し、夭折(ようせつ)した父よりすごい人だったと思う。社会的価値ではない、生身の人間として、七転び八起きで逞しく生き抜いたということ、想像を絶する苦難の中で耐え忍び、よく生き抜いたものだと感服するばかりだ。今のやわな人たちなら、自ら命を絶っていたろう。そういう意味では、ほんとに生命力の逞しい、タフでしたたかな女性だった。母親ならではの強さということもあったかもしれない。
何もできなくていい、ただそこにいるだけでよかった、存在そのものがふつつかな娘の拠り所、支柱だった。自分を産み育ててくれた人の存在に守られ支えられていたのだと思う。かけがえない尊い存在、だった。もう福井に帰っても、本人に面会は叶わず、お墓参りに行くだけだと思うと、寂寥(せきりょう)がしんしんと立ち上ってくる。
母さん、91年間こちらの世界にとどまって下さり、ありがとうございました。無償の愛で包み、守って下さり、支えとなってくれたことに、心から感謝いたします。長年ご苦労さまでした。ゆっくり娑婆(しゃば)の疲れを癒し、休養なさってください。苦節を乗り越え4人の子どもを育て上げ、逞しく生き抜いて、天寿を全うしたことに、心から敬服いたします。立派に今世の勤めを果たされたことに、娘として頭が下がる思いです。波乱万丈の生涯をよく生き抜いたことに、惜しみない拍手を送ります。
でも、母ちゃん、やっぱり生きていて欲しかった。いくつになっても、みっちゃんは母ちゃんの子どもだよ、私を置いて行いかないで。
まるで迷子になった幼児のように、私は母の姿を追い求める、泣きべそをかきながら。この世のどこを探しても、母はいない。魂は今、どの辺りをさまよっているのだろう。
泣き疲れたまどろみの挙句に、やっと母にまみえた、ついに焦がれてやまない人をまぶしい赤い光の中に見つけた。
真っ赤な花に埋もれて、夏の烈光を弾き返す強烈な赤、真緋(まひ)のゆらぎの中にまるで大輪の花を打ち負かすように、若々しく情熱的な笑顔全開の女神が。合掌しながら、私は菩薩と化した母のまばゆさに目潰しをくらって、立ちくらみを覚える。涙が滝のようにどっと噴きこぼれた。哀しさと喜びの入り交じった、泣き笑いのような絶妙な味、私はただただ慟哭(どうこく)し続けた(「緋色の花神」はインドにいて帰国もできない状況の中で、著者が最近亡くなった母に対する想いを書いています)。