(著者の希望で、今回は初詣について書きます)
【モハンティ三智江のインドからの帰国記=2026年1月16日】昨年中は本コラムをご愛読いただき、誠にありがとうございました。本年も引き続き、連載をご愛読のほどよろしくお願いいたします。
さて、新年1月6日、横浜での所用ついでに、明治神宮(末尾参照)と川崎大師(末尾参照)に初詣に行った。石川県金沢市在住の私は前夜、高速バスに乗り込み、翌朝「バスタ新宿」で下車、西口地下街の「ガスト」でワンコイン朝食(スープ、ドリンクバー付き各種、私はホットドックにした)を食べた。早朝着いても、ガストは7時オープンと早いし、飲み放題のスープ、ドリンクバー付きなので、長居もてきてありがたい。
新宿西口地下広場は補修中で、ガストには何回か行ったにもかかわらず、迷ってしまったが、中央公園行きタクシー乗り場の右手奥、エルタワー(この地下にサイゼリヤ、タリーズなどもある)をめざすとわかりやすい。
ガストで2時間ほど粘って洗面や、夜行の疲れを癒したあと、電車でひと駅の代々木へ向かった。同駅西口から歩10分ほどで明治神宮(1920年11月1日創建)の第1の木の鳥居にぶつかり、高い木々のトンネル(青年団の整備奉仕による10万本と言われる)をくぐり抜けての第2、第3鳥居へ。本殿までは緑の杜の中を20分ほど散策、若い頃東京には14年もいたにもかかわらず、一度も明治天皇(1852-1912、天皇在位は1867年から1912年)と昭憲皇太后(1849-1914)が祀られた明治神宮にお参りしたことがなかった私は、あまりの広大な敷地に驚いた。
南神門の頂きには、赤い花が散る白馬の絵馬と、破魔矢がかかっていた。私はうま年の年女、白い馬はユニコーンを思わせる縁起物、新年早々幸運が舞い込みそうで、来てよかったと思った。お賽銭をあげて、2礼2拍手1礼の参拝礼、家族親戚友人一同の無病息災と、世界平和を祈った。
代々木駅に戻って、川崎駅まで品川経由で向かい、京急川崎駅から川崎大師駅に行った。通過した川崎駅は、工場街のイメージと裏腹に小綺麗かつモダンな駅舎、駅前にもビルが立ち並び、目を見張った。品川からひと駅で行けるのにも驚いた。
川崎大師駅では、初詣らしい人の波に従って歩き、ほどなく両側に店の並ぶ通りへ出て直進、しばらく行って右折すると、本殿に通ずる賑やかな参道で両脇にぎっしりと土産物屋が軒を並べていた。
突き当たりが川崎大師(正式名称は「平間寺(へいけんじ)」で1128年建立)の境内の入口で、山門を抜けて拝殿へ。新年も6日を過ぎて、人出はそれなりにあったが、混雑するほどでなく、お参りも列に並ぶことなく済ませられた。
「厄払いのお大師様(御本尊弘法大師空海)」として名高い真言密教のお寺なので、装飾がきらびやかで、境内の中央では護摩焚きも。紫煙がもうもうと舞い上がる中、群がる善男善女から1歩下がったところで、両手で煙を我が身にかき寄せ、厄落としをした。
昨年の垢を払う浄化の儀式、いい厄祓いになったと満悦した。近くに龍や天女(飛天)の舞い戯れる美しい御堂(経蔵)があったので、中に入り、輝くような黄金の小仏(釈尊金銅仏)が祀られた祭壇に掌を合わせた。
脇道にびっしり並ぶ露店を冷やかしながら、まれな八角形の色鮮やかな五重塔まで行って参拝、帰途1杯100円なりの甘酒が初詣で冷えきった体を温めてくれ、おいしかった。名物の飴もたくさん売っていて、痰切り飴は厄払いにも通じ、参拝客に人気だった。
なお、居住地の金沢では、年が明けて犀川の初日の出を拝んたあと、午後近くの藤棚白山神社(ふじたな・しらやま・じんじゃ、1352年から1356年の建立)と、歩いて30分ほどの神明神社(しんめいじんじゃ、創立は不詳)にお参りしたが、街中の尾山神社(おやまじんじゃ、1873年創建)は例年通り階段の下に列ができていたので、断念した。
〇明治神宮
明治神宮は、東京都渋谷区にある神社。祭神は明治天皇と昭憲皇太后で、明治天皇崩御後の1920(大正9)年11月1日に創建された。旧社格は官幣大社で、勅祭社。そのほとんどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備されたもので、 現在の深い杜の木々は、1916(大正5)年に全国から10万本の献木が行われて植樹されたものである。新年には毎年のように国内外から観光客が集まり、初詣では例年の参拝者数が全国1位となっている(ウィキペディアから1部抜粋)。
〇川崎大師平間寺
平間寺は、神奈川県川崎市川崎区にある、真言宗智山派の大本山。1128(大治3)年に建立。川崎大師という通称で知られる。山号は金剛山。院号は金乗院(きんじょういん)。尊賢(そんけん)を開山、平間兼乗(ひらま・かねのり)を開基とする。2022年時点の貫首は第45世・中興第2世藤田隆乗(ふじた・りゅうじょう、1955年生まれ)が務める。
平間兼乗は海中へ網を投げ入れたところ、弘法大師の木像を引き揚げた。兼乗は木像を洗い清め、厄年である数えの42歳であったため厄除けを願って、花を捧げて供養していた。やがて、近くに小堂を構えた。諸国遊化の途中に訪れた高野山の尊賢上人は、弘法大師の木像にまつわる話を聞き、兼乗と力をあわせ、1128(大治3)年に平間寺を建立した。

境内にある経蔵(周囲の壁棚一面に中国の乾隆版大蔵経=けんりゅうばん・だいぞうきょう=が7240冊収蔵)、小さなお堂に入り、天井を見上げると、絢爛豪華な六飛天(音楽を奏でる天女)が舞い戯れる美画が。奥には、こがねに輝く金銅釈尊仏が祀られていた。
そのため、寺院の本尊として弘法大師を祀る珍しい形となっている。1813(文化10)年には、徳川幕府第11代将軍の徳川家斉(いえなり、1773-1841)が数え41歳の前厄で訪れた。これもきっかけに寺に向かう大師道は川崎宿のそばで東海道から分岐し間近いこともあって、江戸時代から参詣客で賑わった(ウィキペディアから1部抜粋)。
(「インド発コロナ観戦記」は、92回から「インドからの帰国記」にしています。インドに在住する作家で「ホテル・ラブ&ライフ」を経営しているモハンティ三智江さんが現地の新型コロナウイルスの実情について書いてきましたが、92回からはインドからの「帰国記」として随時、掲載しています。
モハンティ三智江さんは福井県福井市生まれ、1987年にインドに移住し、翌1988年に現地男性(2019年秋に病死)と結婚、その後ホテルをオープン、文筆業との二足のわらじで、著書に「お気をつけてよい旅を!」(双葉社)、「インド人には、ご用心!」(三五館)などを刊行している。編集注は筆者と関係ありません)。



