新渡戸稲造の生涯―世界を結ぶ「志」

明治から大正、昭和初期に活躍した国際人、教育者の生涯を取り上げた「新渡戸稲造の生涯―世界を結ぶ「志」(http://hirameki.tv/012nitobe/nitobe1.html)。新渡戸稲造

新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)
1862年9月1日(文久2年8月8日)岩手県盛岡市生まれ、幼名が稲之助で、1871年に叔父の太田時敏(おおた・ときとし)の養子となり、1873(明治6)年に東京外国語学校英語科(のちの東京英語学校、大学予備門)に入学、1877(明治10)年に札幌農学校(現北海道大学)の2期生として入学、卒業後、北海道庁に入庁するも、帝国大学(現東京大学)に進学した。

東大を途中退学し、1882(明治15)年に農商務省御用係、同年に札幌農学校予科教授、1884(明治17)年に渡米してジョンズ・ホプキンス大学に入学、1886(明治19)年にクェーカー派の集会に通い、モリス茶会でメアリー・エルキントンと出逢う。1887(明治20)年に札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学して官費でドイツへ留学、ボン大学で農政、農業経済学を研究し、ハレ大学(現マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク)より農業経済学博士号を取得した。

1891(明治24)年に日本への帰途、アメリカでメアリー・エルキントン(1857-1938)と結婚、帰国して札幌農学校教授に就任した。最初の著書「日米通交史」がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より名誉学士号を取得した。1894(明治27)年に札幌に「遠友夜学校」を設立、しかし、夫婦とも体調を崩し、農学校を休職してカリフォルニア州で転地療養し、この間に「武士道」を英文で書きあげ、1897(明治30)年に札幌農学校を退官し、群馬県で静養中に「農業本論」を出版した。

1900(明治33)年に 英文「武士道」(BUSHIDO: The Soul of Japan)を出版、ヨーロッパを視察、パリ万国博覧会の審査員を務め、台湾総督府の民政長官となった後藤新平からの招聘により、1901(明治34)年に台湾総督府民政部殖産局長心得に就任、1903(明治36)年に京都帝国大学法科大学教授を兼ね、1906(明治39)年に第一高等学校長に就任、東京帝国大学農学部教授を兼任した。

1909(明治42)年に実業之日本編集顧問、1916(大正5)年に東京貿易殖民学校校長に就任、1917(大正6)年に拓殖大学学監に就任、1918(大正7)年に東京女子大学初代学長に就任、1920(大正9)年に国際連盟事務次長に就任した。

1926(大正15)年に国際連盟事務次長を退任、貴族院議員に選ばれ、1928(昭和3)年に東京女子経済専門学校(のち新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任、1929(昭和4)年に太平洋調査会理事長に就任、拓殖大学名誉教授に就任、1931(昭和6)年に第4回太平洋会議に出席(上海)、1933(昭和8)年にカナダ・バンフで開催された第5回太平洋会議に出席、その後、カナダ・ビクトリア市で客死した。