ライブラリー夜話 幽界デビュー

【モハンティ三智江のフィクションワールド=2023年3月3日】「あなたが死ぬのをずーっと待ってたんですよ」

田島正之は、ファンの1人からそう言われたとき、変な気持ちになった。まさか、死後の世界で新たに新進俳優としてデビューしようとは思ってもいなかった。向こうでは84歳で生を終えたが、晩年はかつて人気テレビ俳優としてもてはやされた影もなく、致命的なことには、声が出なくなっていた。かろうじて容貌は保っていたが、老いは隠せず、引退を余儀なくされていたのだ。

俳優としては、テレビ界でトップにまで上り詰めたし、画面の中で実にいろんな人生を演じて楽しかった。視聴率の高さでレジェンドドラマとして人気の高かった探偵ものではなく、ニューヨークを舞台にした恋愛もので演じた商社マン崩れのバーテンダー、昔の女が忘れられぬ性懲りもないロマンチスト、芸名と同じ田島の役柄が好きで、収録後もしばしば自宅のビデオで観返していたが、15年後には自らのたっての要望で、続編も作られた。老いた田島が恋に陥る若い女を演じたのが、竹中結花だった。

だから、彼女が自分より5年も早く、38歳の若さでこの世を去ったときは、ショックを受けたものだ。再婚した夫との間に生後間もない赤子がいた。何か自らの命を断たねばならぬ理由でもあったのだろうか。いい女優だった。めきめき頭角を現し、美貌と演技力で推しも押されぬトップ若手にのし上がっていた。

そういうわけで、その当の結花が突然目の前に現れ、
「お待ちしておりました。これでまた共演できますね」とうれしそうに投げたときは、妙な気分になったものだ。死んだはずなのに生きてたのかとぎくりとし、後ろめたげに目を逸らした。それから、自分も死んだのに生きているではないかと苦笑した。結花は輝くばかりの美しさで屈託がない。そういう田島も見違えるように若返り、脂が乗っていた頃の容貌と声を取り戻していた。

それにしても、この先、何を演じるというのだ。俳優という職業のおかげで、フィクションの中とはいえ、ありとあらゆる人生を体験してきた。人妻との大恋愛もしたし、名うての剣客で悪人もばさばさ斬り捨てた、機知に富んだ刑事探偵役で視聴者をあっと言わせる謎解きもやってみせた、やりたいと思った役はなんでもやった、恵まれた俳優人生だったと思う。有終の美を飾りピリオドを打ったはずなのに、また最初からやり直せというのか。

こちらのスポーツ紙に赤文字ででかでかと「人気俳優・田島正之幽界デビュー、待ち焦がれたファン熱狂!」と見出しが踊ったときは、びっくりしたものだ。先にあの世の住人となったファンが今か今かと、自分が死ぬのを待ち焦がれていたと思うと、妙に複雑な気持ちになった。

ファンばかりでない、ディレクター・プロデューサーをはじめ同業者までもが、自分の死を待ち望んでいた。先立った老優たちはみな若返り、嬉々と芝居に打ち込んでいた。境のない、同じ繰り返しに飽きないのだろうかと、田島は訝しんだ。

死後には、平安があるのではなかったか、長年の役者稼業で大勢の人を楽しませる奉仕、お役目を果たしたあとは、ゆっくり休みたかった。冥福とは、死後の安らぎ、と信じて疑わなかった。なのに、またしても振り出しに戻って馬車馬のように働かなくてはならないのか。

心底うんざりした。生と死は茶番だと思った。死はない、再生あるのみ、延々とやり直しが続く、拷問だと思った。

カチンコが鳴って、幽界ドラマがスタートする。

結花は戻ってきた田島を歓迎し、恋愛もので疑似恋愛に陥り、やがて本気になった。田島はこちらでは正真正銘の独身だから、不倫ではない。妻はあちらの世界で生きている。にもかかわらず、結花の気持ちは受け止めかねた。死んで自由になったのだから、何をしてもいいはずだし、美男俳優ともてはやされた頃の若さも取り戻し、活力に満ちている。

なのに、枯れて女を抱きたいという健康な性欲が戻ってこない。あちらで、妻帯しながら、こっそり浮気に明け暮れた放蕩時代が嘘のようだ。妻を何度も泣かせてきたが、自分が1番愛していたのは妻で、他の女は一過性の火遊びだった。ドラマで恋人役を演じた女優とはほぼ決まってそういう関係になるが、すべての収録が終わると、熱がすーっと冷めていくのだ。

ただ、結花とだけは、そういう関係にならなかった。結花の方ではそれとなく秋波を送ってきたが、わざと知らん振りを押し通した。還暦を過ぎた自分には、20代後半の結花は、疑似恋愛をするにしても若すぎたのかもしれない。

だから、引退して3年後に結花が自ら命を絶ったときは、胸にちくりと痛みが走った。結花は歌舞伎俳優との離婚の辛酸をなめた後、同業の年下の新進男優と再婚し、第1子が誕生したばかりだった。正確に言えば、前夫との間に一子設けていたので、2人目の子どもだ。産まれたばかりの赤子を残して、自死する気持ちがわからなかった。育児ノイローゼとのもっぱらの風評だったが、納得しなかった。

その夜、気乗りがしないまま結花に誘われて、ベッドを共にした。事が終わったあとの寝物語に、田島は、女の死の謎を解明したい気分になった。死んでしまった今となっては、その実どういうことだったのか、何が彼女を自死に追いやらせたのか、フランクに話してくれそうな気がした。
「なんでまた自ら命を絶つようなことをしたんだい。キャリアも絶頂、これからというときだったのに。再婚したばかりで子どもも産まれ、最高に幸せなはずだったのじゃないか」
「今さら、探偵役の真似事をしたいの」
結花はからかうように投げて、一拍置いた後、ぽつりと言った。

「自殺に見せかけられたのよ。ほんとは私、殺されたの」
と伏し目がちの暗い顔で、突拍子もないことを打ち明けた。さすがに田島は驚き、ギクリとした。いったい、誰が?田島はあちらのテレビで大人気を博した探偵、古屋金三郎に乗り移って、頭を捻って謎解きに集中する。

もしかして、芸能界の黒幕が絡んでいるのではないか。チャリティを隠れ蓑に、ゲストに有名スターを呼んで脱税を目論む団体の存在は薄々嗅ぎつけている。秘密を知った者は消されるとの噂だ。

実際、若手の人気俳優だった三崎春彦も、芸能界の黒幕が絡む児童売春組織の秘密を知ったから、自殺と見せかけて殺されたとのもっぱらの風評だった。

田島の推理を先取りするように、結花が投げた。
「ほら、昭和のアイドル歌手の娘で、ミュージカルスターの神谷さわかが最近、開かないかはずのホテルの窓から、飛び降り自殺したでしょ。あれと同じ手口でやられたとでも言いたいの?彼女は突き落とされたけど、私は背後から首を締められたとでも?ご明察と言いたいとこだけど、残念ながら、その推理は当たってないわ。名探偵さんがいったい、どうしたことかしら」

結花は冷笑し、揶揄するように投げた。
「しかし、君も共演したことのある三崎春彦が、君よりちょっと先に、そっくり同じ手口でやられているではないか」
「そう。クロゼットでの首吊り自殺、ね。あれはショックだったわ。三崎君とは気も合って割と仲良くしてただけに。といっても、男と女の関係じゃないわよ。彼は巻き込まれたのよ、組織的犯罪に。知ってはいけない秘密を知ってしまったから消されたのよ」

そこで、「カット!」の合図が入り、カチンコが鳴った。

はっと我に返った田島は、役にのめり込むあまり、芝居でない現実と思い込み、結花と本当にベッド・インしたような気になっていた夢から醒めた。

しかし、現実とはなんだろう。虚実の境が不明瞭だった。あちらにいたときは、あちらが現実と思い込んでいたが、こちらに戻ると、夢を見ていたのだとわかり、あちらの世界は仮想現実、限りなく本物に近い虚構だと気づいた。死後の世界が真実だと知ったのだ。

人生は一場の夢、だ。過ぎてしまえば、遊園地で目一杯遊んだように、楽しく面白かった。そんな風に思える自分は恵まれている、俳優として成功し、晩年はともかくも、華やかな生涯を送った。人気稼業でちやほやされ続け、華麗なキャリアを終えたのだ。

が、大多数の人は、屈託がある人生を送っていたし、自分ほどの成功を得た人も少ない。平凡な無名の人生、つまり観客側、あるいは少しましなら脇役、でなかったら、人生の表舞台には立てない裏方だ。

歌舞伎役者の息子に産まれ、美貌と演技の才に恵まれたこと、これに運が加担した。映画では鳴かず飛ばずだったが、ちょうどテレビ全盛期でテレビ界にシフトしたことが功を奏した。初のドラマがヒットすると、みるみるうちに人気が出て、テレビ界のスターにのし上がった。

絶頂期にはドラマを5本掛け持ちしていたほどだ。視聴率稼ぎナンバー1の男優として引っ張りだこ、女優は誰もが自分と共演したがった。だから、お茶の間を席巻したレジェンド俳優が逝去したとのニュースは、国民をショックに陥らせ、女性ファンは死を惜しみ、号泣し、告別式には何千人と供花に詰めかけた。

まさしく、詐欺のようなものだ。田島はまだ生きている、見えないだけで、こちらの世界で呆れることにしゃあしゃあと、若返って性懲りもなく俳優人生の第2場を開幕しようとしている。

ただ、幽界テレビのドラマのテーマは一風変わっていた。与えられた天寿をまっとうしなかった結花は、ターゲットになって、トラウマの再体験の中で追い詰められ、答を見出していくのだ。

田島はその手助けをし、その過程で生死についての命題を学ばされる。人生はロンド、回り舞台だ。生死の輪舞を繰り返す。田島は、結花とこちらで再び遭遇し、あちらで共演したえにし、ベテラン俳優として関わった若手女優、折に触れ演技についてのアドバイスも垂れることがあった縁で、結花のトラウマを癒す役を振り当てられた。結花は遺してきた子どものことをいまだ忘れられず、深く悔いていた。

ドラマが進むにつれ、事の真相が暴かれていくだろう。果たして、結花の言うように、本当に殺されたのか、それとも、単なる弁明、言い逃れに過ぎないのか。

家路を急ぐ。誰も待つ者のない無機質な白いマンション、食事も睡眠も、性欲すら不要の、ただ茫漠として在るだけの空間。あちらの世界の老妻がむしょうに懐かしかった。生き返って、彼女の元に戻りたかった。結花を救ったあと、安らぎが訪れるのだろうか、収録まであと10本、そうしたら、天界に上がって、自らの欲する冥福が与えられるのだと信じたかった。

ふと、結花を殺したのは夫ではないかとの突拍子もない疑惑が湧きあげて、荒唐無稽な推理に苦笑した。あちらの世界の探偵ドラマの主人公の謎解き癖がついて、ああでもない、こうでもないと脳裏で推理をこね回す。挙句の果てに名案を思いついた。結花本人にカマをかければいいのだと。どうやって?ドラマの中で演じる振りをして、アドリブを投げ、どういう反応を示すか、見ればいいのだ。

次の収録で、田島は早速、相手役に謎をかけた。脚本にないアドリブをさりげなく振ったのだ。
「殺されたと言ったけど、もしかして身内が犯人じゃないか」
結花はわざとらしい高笑いをあげて、こちらのアドリブに乗ってきた。
「夫を疑っているの」
「さあて、どちらの夫かな、前の、それとも今の」
「まぁ、私に近い人という意味なら、当たっていないこともないけど」

犯人当てクイズが始まった。互いが互いをばかしたように、核心はするりと抜けていく。
狐と狸の化かし合いに苛々したように、結花が放った。
「無辜(むこ)の夫に罪をなすりつけるなんて、あなたも相当な悪党ね」

田島はへらへら笑った。業を煮やしたように、結花が投げつけた。
「夫じゃなくて、愛人よ。誰って、ほかでもないあなたがよくご存知の・・・」

田島はにやにやしながら、あくまでとぼけ続ける。すべてはドラマの中の話にしてしまえる。僕は、殺ってない、断じて殺ってない!仮想現実で犯した殺人は所詮、夢幻でしかないと、正当化する。

今日の収録はここまでだ。半裸のまま睦み合っていたベッドから、抜け出す。結花も、付き人が投げたタオルをはだけた上半身に巻いて、後に続いた。上気した頬のままちらりとこちらを見やる目がやけに艶っぽかった。

その手には乗るもんか、田島の気持ちは頑なに動かず、後暗さのあまりすーっと目を逸らした。自分が手をかけたはずの女が生きてピンピンしているのを目の当たりにするのは、あまり気持ちのいいものではなかった。今さらながら、罪の意識に苛まれ、今にも折れそうな白くてか細い首を締めたときのぐにゃりと折れる不快な感触が蘇った。

ー結花は、長年続いた不倫関係を再婚を機に解消しようとしていた。老妻に愛想を尽かされ、老いて仕事からも干されていた僕は、若い結花を手放したくなかった。いまや国民的女優ともてはやされる愛人越しに、共演の機会がもたらされるかもしれなかったからだ。

が、結花は断固として縁を切ると突きつけ、僕を追い詰めた。産まれたばかりの子どもが僕の子だったとしたら、どうするつもりなんだと詰め寄り威嚇すると、鼻でせせら笑い、たといDNA鑑定で他の男の子どもと判明しても、今の夫なら育ててくれるとうそぶいた。実際、前夫との第1子も彼が引き取っていたのだ。

「もううんざりなのよ、仕事のないジジイ俳優の口ききをするのは」
結花は歯に衣着せず、僕を侮辱した。

「前の夫と別れたのはあなたと再婚するためだったのに、あなたは約束を反故にして、のらりくらりとかわし続けた。今、私のことを心から大切に想って愛してくれる若い人が現れた以上、腐れ縁はきれいに断ち切って、彼と一からやり直したいのよ。あなたはもう、充分に名声も得たし、何人もの女優と浮名を流し、愛人にも事欠かなかった、いい加減大人しく隠居老人に成り下がったら、どうなの。性欲が減退して、もう私を満足させることもできないくせに」

頭にかーっと血が上った。彼女の減らず口を黙らせようと、手を伸ばし塞ごうとした刹那、敵が暴れ、歯を剥き出した。思い切り噛み付かれ、逆上した僕は首を締め付けていた。殺すつもりはなかった、ほんの懲らしめのつもりだったんだ。が、勢い余って力が入り、彼女は事切れた。

それからの偽装は半ば放心状態で機械的に行った。幸いにも、現場は女が仕事用に借りていた麻布のマンションだった。以前、出た人気探偵ドラマの殺人事件がヒントになり、自殺と見せかけるのには、さほど苦労しなかった。結花との関係は内密裏に進められ、携帯による連絡の痕跡はそのつどきれいに削除していたが、捜査の過程で2人の関係が明るみに出ないとも限らないから、抜かりのないアリバイ工作を行った。結花の事件は自殺として処理され、法の網をかいくぐった僕は、誰にも、妻にすら怪しまれずに、以後隠遁生活に入った。ー

何食わぬ顔をして、余生を送ったが、神の目はごまかせなかった。死後、裁きを受けることになろうとは。観念して、今は幽界での遅すぎた断罪を受け入れるしかなかった。
「カット」の声とともに、カチンコが鳴るのをじりじりと待ったが、ついにその合図はなかった(「フィクションワールド」はモハンティ三智江さんがインドで隔離生活を送る中、創作活動にも広げている続きで、「インドからの帰国記」とは別に、短編など小説に限定して掲載します。本人の希望で画像は使いません)。