早川の編集者がトークで在りし日の藤田宜永を回顧(172-2)

(著者の希望で、今回も「台湾」に関するコラムではなく、前回に続いて「藤田宜永展」について書きます)
【モハンティ三智江のインドからの帰国記=2026年1月9日】前回、福井県立図書館内のふるさと文学館で1月18日まで開催中の「没後5年 藤田宜永展」の紹介をさせていただいた(https://ginzanews.net/?page_id=74131)。

福井県立図書館内のふるさと文学館で2025年11月1日から2026年1月18日まで開かれている「没後5年、藤田宜永展」のポスターが展示入口に飾られていた。自伝を読んでも、若い頃からおしゃれだったことが窺えるが、私が2017年に面談した故人も、ブルーのジャケットを粋に着こなし、胸にペンダントと、飛び切りダンディで、しかも美声と魅惑的だった。

今回は2025年11月30日に催された関連イベント、「編集者が語る藤田宜永(ふじた・よしなが、1950-2020)の魅力」(語り手は早川書房編集者の小塚麻衣子さん)を拝聴したご報告である。

当日14時から1時間の予定のトークイベントは、2017年に故人が講演したときと同じ多目的ルームで行われた。ぎりぎりまで展示を見ていた私は間際に、会場に急いだ。既に叔父夫婦は着席していたが、私は2017年時もそうだったように、真ん前の席に陣取った。

ほどなく早川書房の、後年、藤田宜永担当者だったという小塚麻衣子さんが現れた。齢40代頃の堂々たる体躯の女性で、序盤のお話で故人が恋愛小説作家に転じてから、疎遠になっていた同社との関係を、新たにミステリーを依頼したり(「喝采」ほか)、ミステリーマガジンの責任編集をお願いしたりして、復活させるに貢献したことがわかった。

小塚さんが漏らしたエピソードで、いくつか印象に残ったものを列挙すると、
ギターと弾き語りがうまく(シャンソンの名手でもあった)、一時期フランスに滞在していたこともありフランス語が堪能で、レイモンド・チャンドラー(Raymond T.Chandler、1888-1959)の「長いお別れ」(原題:The Long Goodbye、1953年)も仏語版で読みこなしたこと、気さくな人柄で、銀座のバーでなく、立ち飲み屋を好み、こういうところが気が張らずにいいと寛いでいたこと、取材法が緻密で、1970年代の歌舞伎町が舞台の探偵小説(「喝采」)では、事務所のあった界隈の地図を入手し、主人公がどのようにして街中を歩き回ったかを、古地図を見ながら練ったこと、各取材先ではビデオを離さなかったこと等々。

晩年の肺がん告知時は、知人友人にはほとんど明かさず、元気な振りを通していたが、仕事面では迷惑をかけられず、各社の担当編集者に電話して、早川書房のミステリー賞選者を除いては仕事の整理をして、治療に専念したこと、治療にあたっては、ノーベル賞ものの特効薬にトライし、一時腫瘍が消えかけたが、再発、よくなったら夫婦でフランスに行こうと計画していた夢がついえたこと、「大雪物語」(講談社、2016年)が吉川英治文学賞を射止めて、作家にとって最後の総仕上げの賞をもらっったこととミステリーマガジンの責任編集をやれたことが、作家人生で心に残る2大事だったと漏らしたことなど。

心温まるエピソードとしては、吉川英治文学賞の賞金(300万円)で妻に着物をプレゼント、授賞式会場で夫からの贈り物である淡い紫色の和服をまとった小池真理子さんがひときわ美しかっことなども明かされた。

死後の葬式やお別れ会は行わないとの本人の遺志を尊重して、親しい編集者数名のみが火葬場の控え室に集まり、最期のお別れをしたが、死に顔か美しかったことなどもしめやかな声で明かされた。

図書館で、藤田宜永のミステリーを借りてきた。日本推理作家協会賞に輝いた「鋼鉄の騎士」(新潮社、単行本刊1992年、文庫刊1998年)と、早川書房編集者の小塚麻衣子さんのトークイベントで言及のあった「喝采」(早川書房、単行本刊2014年、文庫刊2017年)。いずれも文庫なら上下の長編で、読み応えがありそうだ。

小塚さんにとっては、「ミステリーマガジン」で藤田宜永追悼特集号(2020年7月号)を組めたことか、編集者冥利に尽きる大きな出来事だったようだ。

背後のスクリーンには、藤田宜永の執筆時のお供「おいしいお茶」とハイライトも映し出されたが、1日に3箱の煙草が命取りになったことはいうまでもない。が、愛用の煙草を吹かしながら、創作の案を練るのが常だったようで、なくてはならぬ嗜好品だった。1日60本のハイライトが多作を産み出したのである。チェーンスモーキングがじわじわ肺を蝕んでいたとも知らずに、早稲田高校時代からの煙草三昧、作家デビューを果たしてからは紫煙をくゆらせつつ長編を書き飛ばす、突っ走る作家人生だった。

感慨も新たに、部屋を去り、再び展示室へ後戻りした。叔父夫婦にわがままを言って、あと1時間だけ残した展示を見終えたいと頼んだのである。叔母は買い物があるから、1時間半後また迎えにくると言い置いて、私の要望に応えてくれた。おかげで、心残りなく「藤田ワールド」の著作や遺品を堪能、郷里の図書館を後にできた。

〇故人が遺した、生涯1度の渾身の自伝長編を再読して
藤田宜永の自伝的長編(400字詰め1370枚)「愛さずにはいられない」(新潮文庫、2021年、初版は2003年集英社刊)を再読して、新たな感動を受けた。が、母との確執については、部外者の私には今ひとつ理解できず、釈然としないものが残った。藤田宜永の母親は、保守的な福井ではよくあるタイプで、ねっとりした福井弁で嫌味を言うところなど、我が母に通ずるものもあるし、結局のところ、身内の生理的嫌悪感、そりが合わなかったという一事に尽きるのではないかと思った。

母親なりにひとり息子には、愛情を持っていたようだし(作中には、母が上京進学した息子が手紙1本よこさず、心配だと知人に漏らすことに言及した箇所もある)、他の子供と比べたり、長髪を不潔がったり、跡継ぎであることへのプレッシャーを強いたり、保守的な田舎町の母親の典型だ。

息子に向かうとぶすっとした顔つきになる母が、夫に対しては、よく話し笑い・・・と作中にあるのも、配偶者と息子に対する思いが全く違うのは、自身の経験からもわかるし、かえって赤の他人の伴侶の方が、依存して無防備に甘えられるのに比して、子供には親としての思い入れや責任があるから、頑なになってしまうのだろうと思う。

福井県立図書館(1950年創立、2003年に現在の下馬町に移転)の夕方の周囲の風景。図書館を出る頃には、日が沈みかけていた。郷里の図書館は、街の外れにあり、周辺環境は自然豊か。

あくまで第3者の客観的な見解で、渦中にあった本人には厳格で仏頂面の母親は、ただひたすら逃げたい怖い存在だったのだろう。故人は後に母に傷があったことを知るのだが(おそらく夫の女性関係ではなかったかと推測する)、苛立ちから子供に八つ当たりするのは、ほかにはけ口がなく、孤独で不器用、未熟な女性ならでは、私には藤田宜永の母はとても不幸な女性だったような気がするのである。

が、晩年の闘病生活にあっても、故人の母への苦い思いは変わらなかったようで、実母との葛藤を書いた渾身の自伝小説の反応が今ひとつだったことを嘆いていたという。それが、同業の作家妻をして、死後同書の2次文庫刊行へと尽力させる契機になったようだ。

あらすじに軽く触れておこう。難関の早稲田高校に合格して上京、母から逃げおおせた主人公は反動で、酒、煙草、麻雀、ディスコでナンパと遊び狂い、留年を余儀なくされる。早熟の青春期、ディスコ「ムゲン」(赤坂)や洋楽メドレーなど、1960年代の世相、風俗が活写された、母に愛されない少年の行き場のない鬱憤晴らし、母に求めても得られない愛情を父嫌いの鏡のような存在の同郷の恋人に求めるも、烈しい喧嘩を繰り返し決裂、ひりひりした赤剥けの魂が剥き出しの、胸を打つ力作長編である。

妻の小池真理子のあとがきによれば、夫の藤田が高校時代同棲したひとつ上の恋人(作中には加賀まりこ似の美人とある)は、50歳になるかならないかの若さで早世、藤田は仕事絡みの帰省時、元恋人の墓参りに行ったようだ。多分、彼女の早すぎる死が契機となって、この小説は生まれたのではないか。孤独で未熟な魂同士の傷つけ合いの中でも、愛さずにはいられなかった元恋人のことを、書き遺しておきたかったのではなかろうかと憶測を逞しくしてしまった。

最後にもう1冊、「奈緒と私の楽園」(文藝春秋、2017年)も併せてお薦めしておきたい。中年男の若い女との関係における幼児帰り、この作品が谷崎潤一郎賞をなぜ獲れなかったのか、不思議でならない。

(「インド発コロナ観戦記」は、92回から「インドからの帰国記」にしています。インドに在住する作家で「ホテル・ラブ&ライフ」を経営しているモハンティ三智江さんが現地の新型コロナウイルスの実情について書いてきましたが、92回からはインドからの「帰国記」として随時、掲載しています。

モハンティ三智江さんは福井県福井市生まれ、1987年にインドに移住し、翌1988年に現地男性(2019年秋に病死)と結婚、その後ホテルをオープン、文筆業との二足のわらじで、著書に「お気をつけてよい旅を!」(双葉社)、「インド人には、ご用心!」(三五館)などを刊行している。編集注は筆者と関係ありません)。