椅子と骨(短編小説編7)

【モハンティ三智江のフィクションワールド=2024年3月26日】頻度は、彼ほど多くなかったが、私は亡き母とも夢で繋がり続けていた。危篤のさなかにあったとき、パンデミック(世界的大流行)の都市封鎖で帰国が叶わず、枕辺(まくらべ)に駆けつけることのできない私の夢に母は現れて、体が痛いと訴えてきたのだ。

褥瘡(じょくそう、床ずれ)が悪化していたことを、後になって知らされた。医師の弟が自身が管轄する病院に引き取って、手厚い看護を施し、床ずれは治ったが、既に難治の腫瘍を抱えていた母は、余命いくばくもなかった。

しばらくして、再度夢に現れたとき、母は真紅の花が咲き乱れる花園にいた。私は少し先の原野に佇(たたず)んで、山の端に沈む夕日に淡い紅紫(こうし)に染まる尾根の美しさに魅入られ、母をこちらに呼び寄せようとした。

が、母は真っ赤な花に埋もれたまま動こうとしなかった。鮮やかな緋のサルビアのような華麗な花群は、美しかった母によく似合った。私は母がそこから動きたくない気持ちを尊重し、しばらく無言で見守っていた。やがて、手を差し伸べ、母と指を結びあって、燃え盛る太陽に向かって歩き出した。が、母はとっさに手を離し、また真紅の花畑へと戻っていった。そこはまさしく、天国の花園だった。私は母の死期が近いことを悟った。

夢のお告げどおり、まもなく母は息を引き取り、パンデミック下、私は葬儀への参列も叶わず、悲嘆と絶望に掻きくれていた。やっと帰国できたときには、季節は秋から春へと移ろうていた。

私は母がいまだどこへとも知れずさまよっているような気がして、毎日成仏しますようにと天に祈り続けていたが、ある夜、ついに母が天国に旅発ったことを知った。

夢の中で母は高々と髷を結い上げ、脇の髪はおかっぱと世にも不思議な髪型をしていて、見違えるように若返り、はっと息を呑む神々しい美に輝き渡っていた。私は畏れ多さのあまり近づけず、少し離れた位置で見守るしかなかった。

世離れした聖なる美顔、天女に化身した母は、俗人の私には近づきがたい、既に私の母ではなく、女神に昇華していた。私はただただ畏れ多さのあまり、この世のものならぬ美の力に声もなく圧倒されていた。

それからしばらくして現われた夢の中で、母は突拍子もないことを言い出した。
「実はね、天国に旅発つ前、Kさんと再会したのよ」

にわかには信じがたい話だが、2年早く逝った私の夫とあちらで再会したというのだ。2人は、私が結婚して2年目に、彼を同伴帰国し、実家に連れ帰り、母に引き合わせたことで、面識があったのだ。

彼は私の国の言語が話せず、終始無言で腰を低くして母に対しただけだが、私は母が彼に好感を抱いたことを瞬時に悟った。物静かで控えめ、礼儀正しい彼は、母だけでなく、こちらの親族にも評判がよかったのだ。

「薄暗い中を彷徨い続けて、もう一歩も歩けなくなった先に、旅籠屋らしき居心地よさそうな休憩所が現れたの。喉がからからだったので、水を一杯飲ませてもらおうと、恐る恐る忍び込んで、観音開きのドアを開けると、なんだか浅黒い肌の懐かしい人が立っていたの」

「その人は私の欲求を先取りしたように、手に清らかな真水を湛えた銀器を持って、差し出してくれた。甘くかぐわしい聖水をひと息に飲み干した途端、疲れがどっと出て、その場にくずおれた。気がつくと、ふかふかの寝具に寝かされていた」

以後、母はそこで手厚くもてなされ、俗界で傷ついた魂と心と体を癒されたあと、天界へ送り届けられたといぅ。浅黒い人の正体を知ったのは、最後の瞬間だった。
「あなたはひょっとして、あの、お婿さん、娘が嫁いだ異国の・・・」

はっと気づいて声をあげたとき、大きな手に背中をそっと押され、体がふわりと宙に舞い上がった。下界で手を振ってほのかに微笑んでいるかに見える浅黒い人はどんどん遠ざかったという。彼の助けで昇天した母は、見違えるように若々しく美しくなり、今はこの世では叶わなかった国文学の勉強を進学先で続けていると言った。

その後、夢に現れた彼に、母を天界に送り届けてくれたことの礼を言うと、彼は自分の役目だから、と答えた。傷ついた魂を癒し、天界に送り届ける使命を、あちらで担ったのだと。

幽界ホテルには、俗界のホテルでお客さんだった懐かしい人もいるそうで、面倒見のいい彼とのあちらでの再会に感激し、喜んでいるという。「君の国からの元お客さんも訪ねてくれてね、癒しを求めて昇天できるようにと、身を委ねてくるんだ」。

だから、南の浜での充電を終えたら、また幽界ホテルに戻り、引き続き使命を担うのだと言った。

義理の母は、若い頃一面識があった彼にとって、異人というだけでなく、スペシャルゲストだったろう。手厚くもてなされたことで、母は俗界での罪や穢れが浄化され、心身の傷が癒えて、純度の高い輝かしい魂に磨かれたあと、幽界ホテルのオーナーからそっと背を押され、ひと飛びで高次元に上昇したのだった。私は、幽界で崇高な役目を担った彼のために、本宅で厚い埃を被っている黒革の椅子を送ってやりたいと思った。

* * *

本宅から、彼の椅子が忽然と消えたとの連絡が入ったのは、それからまもなくのことだった。私はその途端、幽界ホテルに瞬間移動した椅子を思い浮かべた。

彼は悦に入って、自分のもとに戻ってきた愛用の椅子を愛おしそうに撫でさすり、腰を下ろして悠然と背もたれに体を預けている。肘掛けに置いた腕の先、手指には愛用のタバコがつままれ、紫煙をくゆらせている。椅子の下には、飼い主よりずっと先に亡くなった愛犬や愛猫が気持ちよさそうに寝そべっていた。

私はつむった網膜の裏の微笑ましいイメージに心から安堵した。黒革の椅子は、戻るべき本来の主に戻ったのだ。もういたずらに埃を降り積もらせ、廃れ果てていく、廃残物と化さずに済む。椅子はそこにあって、そこだけ確かな存在感でどっしりと、輝かしい実在感を放っていた。

(「フィクションワールド」はモハンティ三智江さんがインドで隔離生活を送る中、創作活動にも広げている続きで、「インドからの帰国記」とは別に、短編など小説に限定して掲載します。本人の希望で画像は使いません)