毛利臣男が死去、交番で転んで頚椎と頸髄を損傷(2)

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【銀座新聞ニュース=2022年10月16日】衣装デザイナーで、三宅一生(1938-2022年8月5日)を中心にファッションモデルの山口小夜子(1949-2007)とともに、1973年のパリコレクションに参加し、1986年から2008年までスーパー歌舞伎の全衣装をデザインした毛利臣男さんが10月9日午前に病院で亡くなったことが明らかになった。

毛利臣男さんが自らのfacebookに載せている在りし日の本人の画像。

関係者によると、毛利臣男(本名は十三男)さんは10月6日夜、家の近くに食事に出たところ、財布がなくなっているのに気づいて、近くの交番に「財布を奪われた」と届け出た。その際に、交番の入り口で転んで頸椎を激しく損傷し、交番が救急車を呼び、そのまま「国立国際医療研究センター病院」(新宿区戸山1-21-1)に入院した。

翌7日午後に、病院の関係者が毛利臣男さんの指図で友人に電話をかけ、毛利臣男が入院していることを確認した。

ところが9日朝の10時30分頃に症状が急変し、そのまま亡くなった。病院から妹に電話で知らされ、妹から関係者のところに連絡が来て、9日朝に亡くなったことを知ったという。病院の医師によると、死因は頚椎(けいつい)と頸髄(けいずい)損傷によるものとされている。享年79。

毛利臣男さんは1971年から三宅一生のアートディレクターを務め、1973年に三宅一生と一緒にパリコレに参加し、その際にモデルとして山口小夜子も同行した。ファッションは三宅一生が担当し、毛利臣男さんはアートディレクターとして、モデルの演出などを手がけた。その後も、3人でパリコレに参加し、時には、演出の一環として舞台上から観客席に向けて水を撒いたこともあったという。

その後、三宅一生がパリのほか、ミラノコレクション、ニューヨークコレクションなどに参加すると、毛利臣男が企画、ショーの演出、芸術監督を務めた。

毛利臣男さんが10月6日夜に転んで、脊椎を損傷した交番の段差。

1980年にバレエ「カスタ・ディーヴァ(Casta Diva)」の台本、演出、振付を担当し、フランスのバレエの振付家でダンサーのモーリス・ベジャール(Maurice Bejart、1927-2007)の衣裳デザインも手がけ、衣裳は三宅一生と共作した。

1983年から1985年まで東京とロンドンで開かれた「ISSEY MIYAKE BODY WORKS展」の空間演出と美術監督を務め、1984年にオペラ「金鶏(ル・コックドール、Le Coq d’Or)」の指揮を務めたガブリエル・フムラ(Gabriel Chmura)の衣裳デザインを手がけた。

1986年からの「スーパー歌舞伎」全作の舞台装置と衣裳デザインを手がけた。その第一弾が「ヤマトタケル」で、1989年に「リュウオー・龍王」、1991年に「オグリ・小栗判官」、1993年に「八犬伝」、1996年に「カグヤ」、1997年に「オオクニヌシ」、1999年に「新・三国志」、2001年に「新・三国志Ⅱ・孔明篇」、2003年に「新・三国志Ⅲ・完結篇」、2008年に「新・水滸伝」が舞台化され、全作の衣装を毛利臣男さんがデザインした。

この間、1992年からオペラ「トゥーランドット(TURANDOT)」(フランス・リヨン)の指揮者ケント・ナガノ(Kento Nagano)の衣裳デザインを手がけ、同年にバレエ「白鳥の湖(LE LAC DES CYGNES)」(フランス・パリ、主演:パトリック・デュポン=Patrick Dupond)の衣装デザインを担当した。1993年にはオペラ「影のない女」の指揮・ヴォルフガング・サヴァリッシュ(Wolfgang Sawallisch、1923-2013)の衣裳デザインを手がけた。

また、1970年から2014年まで文化服装学院の講師を務め、2000年から2009年まで京都造形芸術大学(現京都芸術大学)客員教授を務めた。