【モハンティ三智江のフィクションワールド=2022年1月4日】大事な会合があるから、開店1時間前に集合との号令が社長からかかったのは、その3日後のことだった。皆、薄々何の話か勘づいていた。
案の定、社長の口から重々しく切り出されたのは、来月末での閉店告知だった。距離を置いてバラバラにラウンジのソファーに腰掛けた11人のマスク顔は、一斉に黙り込み、重い沈黙が漂った。
誰一人として、質問しなかった。唯、奇妙にしいんと黙り込んでいた。いまさら理由は訊くまでもなかった。
「で、今後のことなんだが、ホストを続けたいという者たちには、僕が責任をもって、関西の知り合いの店を紹介する。すでに頼み込んで了承してもらっているから、希望者は遠慮なく申し出てほしい。まだ時間はあるから、じっくり考えてくれ。至らない経営者だったが、できるだけのことはしたいと思っている」
「社長はこれから、どうなさるんですか」
俯(うつむ)いていたミカエルが突然顔を上げて、怒りの滲(にじ)んだ声で問い詰めた。幹部として責任ある立場だけに、納得行かない思いが伝わってくる。
「僕は、オンラインで癒し系ビジネスを始めたいと思っている。まだ海のものとも山のものともつかないが、もしこの中で僕と一緒にやってみたいと思う奴がいるなら、ついてきてほしい。ただし、軌道に乗るまで給与は最低限の保証しかできないので、それでもよかったらの話だが」
誰一人として、名乗り出る者はなかった。また沈痛な空気が流れ、まるでお通夜のようだった。
「本当にすまない。僕としても、この3カ月、何とか店を畳まずに続けていく方法はないかと模索したんだが、万策尽きての苦渋の決断だよ。今なら給料も払えるし、少ないが、退職金も出せる」
テーブルに額を擦り付けて詫びる社長に、皆、怒りを忘れて落胆とも憐れみともつかぬものを覚えていた。
羽月のことをつい言いそびれてしまった。しかし、今の社長の精神状態を思うと、どうしても切り出せなかった。蓮はその週末、休みをもらい、上京し、羽月に再会することにした。
そして、その初めてのデートともいうべき会合の最中に、パニック障害の発作とはどのようなものか、身をもって知ったのである。心惹かれる女性が苦しんでいるのを見るのは辛かった。唯、手を握り、背中をさすってやるくらいしかできなかった。
長い長い時間が経ったような気がした。が、実際は20分と過ぎていなかった。
ミントキャンディを舐めたり、柑橘系の香りが染み込んだハンカチを鼻に当て、深呼吸を繰り返していた羽月の眉間のしわが徐々に緩みだし、緊張して固くなっていた肩や背中が凪(な)いで丸まった。どうやら収まったようだ。蓮はほっとして、握り締めていた指を離し、さすっていた背中の手の動きを止めた。
「大丈夫?」
「ごめんなさい。びっくりしたでしょう」
「もう収まったの」
「ええ」
頬を赤らめながらかすれる声でうなずき、
「なんだか恥ずかしいわ。ラファエルさんに、私の一番見られたくないところ、見られちゃった」と、辛そうに俯いた。自己嫌悪に陥っている風情が痛々しかった。
が、嵐が過ぎた後は、映画を見たり、食事をしたり、普通の恋人同士と変わらぬ楽しい1日となった。
別れる間際になって蓮はようやく、ぽつりと言った。
「実は、天使クラブ、来月いっぱいで閉店することになったんだ」
「そう、残念だけど、こんなご時勢だもの、しょうがないわね」
「君の助けになれなくてごめん」
「でも、ラファエルさんは今日、こうして私に会いに来てくれた。それだけで充分。今日は本当にありがとう、楽しかった」
それから、もじもじしていたが、おずおずと切り出した。
「あのう、ひとつお願いがあるんだけど」
「なんだい。遠慮しないでどうぞ」
促されて、俯きがちに小さな声で言った。
「あのね、もし発作を起こしたことで私が嫌いにならなかったら、また会ってくれる」
「もちろんだよ」
蓮は、羽月を軽く抱き寄せ、おでこにキスをした。
週明け、出勤すると、サタンが馴れ馴れしく寄ってきて、こっそり耳打ちした。
「土曜日、あの雨の日のミステリアスな美女が再登場したんですよ」
「へえ。で、またお前を名指ししてくれたってわけか。残念だな。せっかく指名客がついたというのに、閉店とは」
「いや、それが、彼女は社長のコレでした」
サタンは小指を立てる仕草をしている。
「へっ?」
怪訝に問い返すと、
「ほら、例のパニック姫、謎の美女の正体は」
思わず、はぁとため息が漏れた。
「社長、再会したんだあ」
「僕は見事に振られましたよ。しかし、いい女だなあ。社長が惚れ込むのもの無理はない。元関西一のレジェンドホストには、逆立ちしたって勝てっこないので、潔くあきらめましたよ」
サタンはかなり本気だったようで、気落ちした風情だ。そして、ぼやくように投げた。
「サタン、ルシファーって、元は天使の長だったんですよ。神に謀反を企て、堕天使となって下界に落とされた後、人間の女と契りを結んだんです」
「もう天使に戻れないんだったら、開き直って何度でも人間の女に恋すればいいじゃないか。姫は一人じゃないぞ。お前なかなか感受性鋭いから、すぐまたいい女が現れるよ」
「先輩、優しいですね。さすが癒しの天使、病める者の味方、ラファエル様だ」
こいつ、悪くないと、蓮は見直す思いで、サタンの額を揶揄するように軽くこづいてやった。
社長が始めたいというオンラインの癒し系サロンに、協力してもいいかなとふっと思う。初めて社長に面談したとき、「お前、ホストより、ヒーラーに向いていそうだな」と言われたことを思い出す。
続けて社長は言った。「京都でのホスト時代名乗っていた源氏名、ラファエルをお前に進呈するよ。病める者を癒す3大天使の1人だ。せいぜい悩める姫をヒーリングしてやってくれ。2代目ラファエルとしてな」
何かの閃きのように、羽月には音楽療法がいいかもしれないと思った。社長がバンド時代に作詞作曲したナンバーに、傷ついた魂が癒されるような名曲があった。確か題名は、天使のララバイ、だ。動画をチェックすれば、出てくるはずだ。後で、羽月に送ってやろう。
必ず、治してやりたい。社長が愛する姫を完治させたように。きっと治る、と信じていた、僕の愛の力で。
社長はやはり、僕の英雄だ、尊敬すべきメンター、だった。春風に乗って恋が運ばれてくるとともに、やっと将来の目指す方向に光が差してきたように思えた。
(「ミッドナイト・エンジェル」はモハンティ三智江さんがインドで隔離生活を送る中、創作活動にも広げており、「インド発コロナ観戦記」とは別に、短編など小説に限定してひとつのタイトルで掲載します。本人の希望で画像は使いません)