2020年(18.エピローグ/白ガラス・マンジの神託)

【モハンティ三智江のフィクションワールド=2021年7月13日】わしは、太陽神の使いの白ガラスだ。20年前までは、篠崎万治という名を持つ日本人で、北陸の小さな町で妻と2人暮らしだった。

2000年に、わしが属していた地球で未知の疫病が蔓延した。最初、わしはたかが感染症と、歯牙にもかけなかった。インフルエンザに毛が生えた程度の新種の風邪で大騒ぎする世間が滑稽だった。

が、それから2カ月と経たないうちに、政府は初の緊急事態宣言を発出、まるで第3次世界大戦に等しいかのような大袈裟な反応に呆れ返った。

先の大戦時、まだ思春期の少年だった私は、フィリピンのルソン島に出征した兄を喪くしていた。市街が空襲で赤く燃える惨状も、田舎の藁葺き屋根の上から目撃し、明日のない非常時下、恐怖と不安にあおられた体験は、傷つきやすい少年の心にトラウマとなって刻印された。

終戦7年後、わしは竹馬の友と組んで、自動車整備工場を立ち上げた。さらに3年後、見合い結婚し、ノブという没落した旧家の美しい娘を娶った。不釣り合いの良縁が持ち込まれたのは、共同経営者からだった。

戦争に適齢期の男どもを奪われたことで、ノブはゆき遅れ、わしのような駆け出しの明日もわからぬ不細工な男にも、チャンスが回ってきたのだ。富裕な元田地主という親父さんは、戦後工場創立に乗り出したわしの心意気を買ってくれたのである。

婚約者時代はよく、整備の終わったバスをちゃっかり拝借して、丸ごと1台のバス貸切りデートと洒落込んだものだ。車が珍しい時代でお目当てのノブのみならず、弟妹同乗のコブ付き、それでも、日頃しとやかで感情をあまり表に表さぬノブがはしゃいでいるのを見るのは、嬉しかった。

夫婦仲はすこぶるよく、工場経営も順調だったが、ただひとつ、子宝に恵まれなかった。が、5年後には小さな平屋の家が新築できるまでに商売は成功し、子がいないのは寂しかったが、夫婦仲睦まじく、45年間苦楽を共にした。

古希を迎える前に工場は手離し、老後の資金で、夫婦揃って海外旅行、クルーズツアーを楽しむのも悪くないと、リタイア後のプランを練っていた矢先、予想だにしなかったパンデミックに巻き込まれたのだ。先の大戦経験があるだけに、最初はものともしなかった。大騒ぎしすぎだ、いずれ収まるとたかをくくっていた。

が、未知のウイルスの勢いは凄まじかった。長年の喫煙癖で肺が弱っていたわしは、もっと警戒すべきだったのに、会食で感染、幸いにも、ノブは陰性だったが、急遽悪化してICU入り、無念にも帰らぬ人となった。

子どもがいなかったため、ノブのことが心配でわしの霊魂はこの世にとどまり続けた。死後、わしの前に現れた幽界の白いカラスに魂を宿らせ、この世の妻との交信を試みたのだ。妻は本能で白ガラスにマンジ、亡き夫の名をつけて、稀で美しい聖烏を愛でてくれた。

わしは死してのちもこうして20年、妻を守り続けてきた。20年前ウイルスによる呼吸器不全で突然夫に先立たれ、感染症ゆえ、対面は愚か葬式も満足に出せなかった妻は、深い悔いを持っていた。

どうして自分も感染して、夫とともに黄泉に旅立たなかったんだろうと、悔やんでも悔やみきれない思いで、長年悲哀と孤独の沼にどっぶり浸っていたのだ。わしには、そんな相方がどうしても放っておけなかった。生きる希望を何とかして、与えてやりたかった。でなければ、妻は自ら、命を絶っていたろう。

こうして陰に日向に守り続けて20年、妻の命の灯が消える日がついにやって来た。わしは、最期に妻に数奇な冒険をさせてやりたかった。

死んでのち、わしはやっと、宇宙のからくりがわかった。この世とあの世、どちらがリアルかも。仮想現実に生きていると気づかぬ妻は、夢を現実と信じ込み、翻弄されていた。あんなに身綺麗だった妻が格好を構わなくなり、どんどん年老いて醜く変貌していくのは耐えがたかった。悪童のいじめの対象の乞食ばばあに成下がってしまったのだ。

もう、潮時だった。産まれる前の真実の世界に戻してやろう。本能で妻も、マヤ、幻想に振り回されることを、やめたがっていた。眠ったまま仮のドラマに振り回されるよりも、目覚めてドラマの外に脱け出し、わしと合流したがっていた。今こそ、夢から覚めるときだった。

すべては、自分が書いたシナリオどおりに進んでいる。妻がわしと同じ感染症で息絶えるには、パラレルワールドに行くしかない。無数のパラレルの中に、ちょうど20年前のパンデミックの再現のようなウイルス戦真っ只中の異次元があった。

妻を飛ばす前に、向こうから1人の女を任意選出し、こちらに飛ばし、できた向こうの欠員を埋めるため、妻が飛んだ。20年後の悪夢が再現された別世界へ。

また、入れ替わりに元に戻った妻は、希望どおり亡夫と同じ感染症に罹患し、2週間とたたぬうちに、呼吸不全で自宅死した。わしと20年ぶりに合流した妻は、雌の白ガラスに霊魂を宿らせ、わしたちは晴れて20年ぶりに夫婦復活した。わしたちの愛は、つがいの美しいホワイトレイブンとなって、永遠に続く。

みな、あなたが仕組んだ罠だったのね、妻は若い頃と同じ澄んだ響きの乙女の笑い声をあげる。

わしはとてつもなく、幸せだ。

パンデミックって、なんだったのかしら。

みんな、人類が創り出した幻想だよ。何も起こっちゃいない。カルマの解消に大きなアンチドラマを創ったんだよ。一見どんなに悲惨に見えても、ネガティブな感情の昂まりを存分に味わうことで、堪能しているんだ。豊かな人生経験、次の世のための肥やし、来世のドラマ創りのための。

死んで、やっとからくりがわかったわ。なんであんなに泣いたり叫んだり、怒ったりしたのかしら。自分が書いたシナリオに、一喜一憂してただけだったのね。馬鹿げた猿芝居。でも、面白かったわ。また生まれ変わって冒険したい。

次の世も必ず、夫婦でいよう。さしずめ、お前か若い頃、憧れていたインドが舞台なんて、どうだい。

あぁ、あそこなら、エキサイティングだわ、飽きることないクライマックスが繰り広げられそうね。

わしたちはパラレルインドへ飛んだ。地上では、壮絶極まりない地獄が繰り広げられていた。人が酸素不足でばたばた倒れ死んでていく。阿鼻叫喚の修羅に、死んでまもない妻は、感情を消し切れず、黒くつぶらな瞳から、大粒の涙をこぼした。死後20年経っているわしは、感情の揺れはなく、冷静に下界の大混乱を見下ろしていた。

地上のパニックが伝染して、目にいっぱいの涙を溜めている女烏(めがらす)、まだ人間の感情の名残りがある妻の化身が愛おしくてならなかった。妻への愛情だけは、20年が過ぎて悟りに近い神格を得ても、強く残されていた。

愛だけが永遠のパワーだ、ウイルスの魔力を溶かす……わしは崇高な愛のエネルギーとともに、強力な祈りのパワーも地獄絵巻が繰り広げられている下界に降り注いでやっだ。

わしたちが未来に生まれ変わる土壌が希望の新世界として、息を吹き返し、再生するように。もうまもなく、暴嵐は収まり、台風の目に入るだろう。

来世のインドでは、わしたち夫婦には、念願の子が授かるだろう。心優しい娘は、わしがいじめられている妻の助けに送った、真鍋翔子の生まれ変わり、だ。すべては、偶然ではない。さきほど、任意で選出したと言ったが、無意識の本能で選んだのた。

妻はしみじみ述懐する。ほんとにいい娘(こ)だったわ。2度も助けられたの。当たり前だろう。わしたちの未来の子供なのだから。

翔子は力強く、パンデミックを生き抜くだろう。未来の両親の密かな守護のもとに。わしたちが、翔子の前に姿を現すことはもうない、来世の楽しみだ。

地上の大混乱を見下ろしながら、あらゆる苦痛から解放され、白い烏に生まれ変わったわしたち2人は悠々と、自由に楽しく軽やかに天上を駆け巡った(完)(「2020年」はモハンティ三智江さんがインドで隔離生活を送る中、創作活動にも広げており、「インド発コロナ観戦記」とは別に、短編など小説に限定してひとつのタイトルで掲載します。本人の希望で画像は使いません)