永谷商事が神田山緑と甘酒横丁など人形町を散策

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【銀座新聞ニュース=2013年10月16日】永谷商事(武蔵野市吉祥寺本町1-20-1、0422-21-1796)が運営する「お江戸上野広小路亭」(台東区上野1-20-10、上野永谷ビル、03-3833-1789)は10月20日に神田山緑さんによる「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」を開催する。

永谷商事が「お江戸上野広小路亭」で10月20日に開催する「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」で人形町を案内する神田山緑さん。

永谷商事が「お江戸上野広小路亭」で10月20日に開催する「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」で人形町を案内する神田山緑さん。

永谷商事が毎月1回から2回程度、定期的に開催している「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」シリーズのひとつで、講談師が名所旧跡などを解説しながら一緒に歩いて回り、その後、寄席で講談や落語などを鑑賞する。

今回は二ツ目の講談師、神田山緑(かんだ・さんりょく)さんが「人形町散策とべったら市」と題して、中央区日本橋人形町を散策し、その後お江戸上野広小路亭に移動し、夕方から神田山緑さんらによる「しのばず寄席」を鑑賞する。

コースは「浜町(はまちょう)公園」(中央区日本橋浜町2-59-4)、「甘酒横丁(あまざけよこちょう)」(中央区日本橋人形町2丁目)、「人形町末広跡(にんぎょうちょうすえひろあと)」(日本橋人形町3-9-1)、「三光稲荷神社(さんこういなりじんじゃ)」(中央区日本橋堀留町2-1-13)、「宝田恵比寿神社(たからだ・えびすじんじゃ)」(中央区日本橋本町3-10-11)を歩いて、その後、お江戸上野広小路亭に移動し、しのばず寄席を鑑賞する。

浜町公園は1923年の関東大震災によって壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として、隅田公園(台東区と墨田区)、錦糸公園(墨田区)と並んで計画された公園だ。

江戸時代は熊本藩主・細川氏の下屋敷があり、明治期以降も細川家の邸宅があったが、復興事業の一環として整備され、1929年に公園として開園した。公園内には広場のほか、1861年に熊本藩主・細川斉護(ほそかわ・なりもり、1804-1860)によった建てられた、加藤清正(かとう・きよまさ、1561-1611)をまつる清正公寺がある。

清正公寺はまだ細川家のものであった頃から一般に公開されていた。現在では園内にデイキャンプ場や運動広場の他、中央区立総合スポーツセンターがある。

甘酒横丁は地下鉄「人形町駅」を出たところにある「甘酒横丁」交差点から明治座までの約400メートルの小さな通りを呼ぶ。明治の初め頃にこの横丁の入り口の南側に「尾張屋」という甘酒屋があったことから昔は「甘酒屋横丁」と呼ばれていた。当時の横丁は今より南に位置しており、道幅もせまい小路であった。

明治の頃この界隈には水天宮をはじめ、久松町には明治座が櫓をあげており、近くには「末広亭」や「喜扇亭(浪曲席)」、「鈴本亭」の寄席が客を集めていた。また、穀物取引所の米屋町、日本橋の川岸一帯の魚河岸、兜町の証券取引所が隣接していることからもこの界隈が賑わっていた。

関東大震災後の区画整理で現在のような道幅になり、呼び名も「甘酒横丁」と人々に呼びつがれている。

「人形町末広跡」は1867年に創業され、歌舞伎「与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし、俗にお富与三郎)」の舞台「源氏店」のモデルの「玄冶店(げんやだな)」の路地の向かい、入り口角に立地していた寄席だ。

1970年1月に中席(10日から20日まで)をもって閉場したが、同年4月に2代目桂文朝(かつら・ぶんちょう、1942-2005)の真打昇進披露興行のために借り上げられた。江戸時代以降、客席がすべて畳敷きの落語定席(常設の寄席)で、電気設備などの音響設備が使われていなかったなど「伝説の寄席」と称されている。

人形町周辺は1657年に吉原遊郭が浅草田んぼに移転して以降、繁華街と歓楽街であると同時に商業地として発展した。1872年に水天宮が当地に移転して来た時に周辺は商業地として完成しており、裏の芳町の花街は外来の大衆を牽引して来る力とはなり得ず、いわゆる繁華街や歓楽街としては発展しなかった。

明治期以降の人形町周辺の寄席は外来の客目当てと言うよりは、土地の住人のための娯楽だったが、戦後は人形町周辺の商店が会社組織になり、経営者や従業員が住み込みではなく、通勤して来るようになり、夜間人口が激減し、夜、寄席に来る生活の形態が失われた。大正時代には東京市内に100軒を越えた寄席(落語定席以外も含む)は激減し、1965年には5軒のみ(落語定席のみ)となった。

最後は落語芸術協会の公演で、5代目古今亭今輔(ここんてい・いますけ、1898-1976)が主任となり、会長の6代目春風亭柳橋(しゅんぷうてい・りゅうきょう、1899-1979)が落語一席を語ってから踊りを披露し、石原幸吉(いしはら・こうきち)席亭と出演者一同が高座へ上がってあいさつし、古今亭今輔の口上で終えた。

その後は隣の家の敷地とセットで次田株式会社東京支店のビルが建っていたが、解体され、現在は株式会社読売インフォメーションサービスのビルが建っており、入り口足元に「寄席人形町末広跡」の石碑が埋め込まれている。

三光稲荷神社は、中村座に出演していた大阪の歌舞伎役者、関三十郎(せき・さんじゅうろう、1747-1808)が伏見より勧請したと伝わり、「江戸惣鹿子」(1689年)に記載があることから、1689年以前に創建されたとみられている。古くから娘、子ども、芸妓などの参詣するものが多く、とくに猫を見失ったときに立願すれば霊験ありといわれた。

1924年の区画整理で三光稲荷神社のある「旧長谷川町」と「旧田所町」が合併して「堀留町2丁目」になり、旧田所町の「田所大明神」も三光稲荷神社に奉祀された。また、拝殿右上の額「日本橋区長谷川町守護神三光稲荷神社」は神田神社宮司の平田盛胤(ひらた・もりたね、1863-1946)の揮ごうといわれている。

宝田恵比寿神社は江戸城外の呉服橋御門内にあたる宝田村の鎮守社だったが、徳川家康(とくがわ・いえやす、1543-1616)が江戸城拡張により宝田、祝田、千代田の3カ村(現在皇居内楓山付近)の転居を命じたので、伝馬役、名主役の馬込勘解由(まごめ・かげゆ、初代馬込平左衛門、生没年不詳)が1606年に大伝馬町・小伝馬町・中伝馬町を成立させ、宝田村を大伝馬町・南伝馬町へ移転し、自ら大伝馬町2丁目に移住し、同町の名主を務めた。

これにより、徳川家繁栄祈念として御神体の恵比寿神を授けられ、作者は鎌倉時代の仏師、運慶(うんけい、生年不詳-1224)の作と伝えらている。商売繁昌、家族繁栄、火防の守護神とされ、毎年10月19日に「べったら市」、20日に恵比寿神祭が行われる。べったら市は若者が浅漬け大根(べったら)を混雑を利用し、参詣の婦人に「べったらだー、べったらだー」と呼びながら着物の袖につけ、婦人たちをからかったことから、「べったら」の呼び名になったと伝えられている。

神田山緑さんは東京都中央区日本橋生まれ、敬愛大学経済学部経済学科を卒業、2005年に神田(かんだ)すみれさんに入門、2006年に講談協会「前座」、2009年9月に「二ツ目」に昇進している。

時間は午後からで、16時ころにお江戸上野広小路亭に移り、16時45分からしのばず寄席となる。料金は弁当、飲み物、寄席代を含めて3000円で、交通費や別途入館料などがかかる場合は自己負担となる。申し込みは永谷商事まで。

しのばず寄席は前座の三遊亭遊松(さんゆうてい・ゆうまつ)さん、二ツ目の三遊亭好の助(さんゆうてい・こうのすけ)さん、神田山緑さん、真打の立川雲水(たてかわ・うんすい)さん、真打の土橋亭里う馬(どきょうてい・りゅうば)さんが出演する。