40年ぶりの再会後、亡くなった友を偲んで北海道の旅へ(162-1)

(インドへの一時帰国から日本に戻ってきましたので、タイトルはそのままです)
【モハンティ三智江のインドからの帰国記=2025年4月4日】在住地、石川県金沢で、北陸の寒波にぶるぶる震えていたさなか、突如、血迷ったごとく、北海道に流氷を見に行こうと思い立った。真冬の北海道をあえて選んだのには、理由があった。去る1月8日、中学時代の同級生だったKが他界したのだ。

2024年5月、岐阜市美濃太田駅に級友Kを訪ね、車で20分ほどの道の駅「平成」に案内された。40数年ぶりに再会したKとは、これが最期の対面で、平成駅前で撮った彼女の写真は私にとって、遺影になってしまった。

岐阜県加茂郡富加町(最寄り駅は美濃太田)在住のKとは、昨年5月、40数年ぶりの再会を果たしていた。ステージ4の大腸癌という彼女はその時点では、闘病中とは思えないくらい元気で、自家用車で美濃太田駅まで迎えに来てくれたほどだった。

激痩せしているのではないかと心配していた私は、中学時代とさほど変わらぬ風貌に驚かされると共に、ほっとした。髪型もほとんど変わらぬショートカット、バレーボールで鍛えた大柄な体格はがっしりして、見た目にはとても末期ガンを患っているとは思えなかった。快活な笑顔で迎えてくれた元同級生に、私は憂慮が吹き払われ、安堵したものだ。

Kがいざなう軽自動車の助手席に乗り込んだ私は、颯爽と軽快にハンドルを握る彼女に、いの一番に平成道の駅へと案内された。車中、長いブランクのあった友の波乱万丈の人生についても吐露された。

20代初めに結婚した夫との間に4子をもうけたものの、家庭内暴力が原因で後年離婚、2児を引き取って、朝から晩まで働きづくめで扶養したことや、現在に至るまで携わっている卵の梱包業務が生きがいで闘病の支えになっていること云々。

36年前、平成年号(平成元年=1989年)と同名ということで話題を呼んだらしい道の駅「平成」に降り立って、中を一巡した後、建物前で記念撮影した。それから、Kの暮らすアパートに案内された。2DKの公団のゆとりある室内は小綺麗に片付けられ、余分なものが一切なく、がらんとしていた。
「ほんとに何もないでしょ、全部処分したのよ」

ベランダに面するガラス戸越しにのどかな田園風景が見渡せる。
「いいところだねぇ」

景色がよくて空気もおいしい田舎町に住むことは、病身にも幸いだと私はほっとした。

「花が好きで、ベランダにたくさん鉢も置いていたんだけど、余命半年と宣告された時点で、全部処分したのよ。あと処分するのは冷蔵庫くらいかな」
Kはこともなげに言うが、私は圧倒されて一言も返せない。来るべきものを覚悟している凛とした友の口ぶりに、返す言葉もなかった。

キッチンと地続きになっている居間の低いテーブルに座った私は、背後にでんと控えるツードアの冷蔵庫を肩越しにちらと振り返った。家具らしきものといえば、この大型冷蔵庫と中型テレビくらいだったが、主がいなくなれば、賃貸契約も自ずと解除され、冷蔵庫も処分されるということだった。

やがて、Kはアルバムを引っ張り出してきて、似通った面立ちの娘さんやお孫さんの写真を見せてくれる。お孫さんはおばあちゃんが大好きなのだろう、祖母の脱ぎ捨てたカーディガンをセキュリティ毛布のように肌身離さず身にまとい、微笑ましい。

2024年5月8日、美濃太田駅に降り立った私は、改札口でKと、40数年ぶりの懐かしい再会を果たした。彼女の笑顔は、亡き後も今も忘れられない。体が大変な時に、歓待してくれてありがとう!(画像はウイキペディアより)

「この子のためにもまだまだ死ねない、がんばらなくちゃ」
とKは気丈に言い放った。

アルバムには、職場仲間と旅したタイの寺院前の記念写真も貼られていて、「それはね、棺に入れてもらうつもり」

棺桶に納めてもらう写真まで決めている級友に、私は内心のショックを禁じ得なかった。

「葬儀の費用もちゃんと用意してあるし、あとは子どもたちに少しお金も残せたらと思うんだけど」

30分余り雑談した後、Kは行きつけの喫茶店のランチが安くておいしいからと、私を外の車にいざない、アパートを後にした。

車中、山口百恵の「いい日旅立ち」が流れだし、しっとりと哀愁のこもったメロディに満たされる。

「私の気に入りの曲よ。緩和ケアに移ったら、この曲をかけて痛みを和らげるつもり」
人生の仕舞い支度がすっかりできているようで、私は言葉を失った。

既に覚悟の定まっているKが、立派に大きく見えた。中学時代は本人も言うように、過保護に育てられたわがままなお嬢さんだったが、人生の荒波に揉まれて、自立した大人の女性へと成長を遂げていた。まだまだ甘ちゃんの私には、生の最終局面を前に毅然とした姿勢を崩さないKに、生き様の何たるかを学ばさせてもらった。。

以後、ひと月に1度くらいの割でLINEや携帯メール、時に電話で連絡を取り合っていたが、夏頃から体調がすぐれず、骨折も加わって、連絡も控え気味になった。

楽天家の私は、5月の再会時Kが予想外に元気だったので、生き延びるような気がしていたし、本人も、占いが好きで見てもらったら、72歳まで生きると言われたとかで、満更でもなく、欲を言えば75歳まで生きたいとの一縷の希望に繋いでいる節があった。

しかし、夏になって、5月の再会時点で服用していた比較的体に合っていた抗がん剤の効き目が切れ出し、新たに処方された薬の副作用がひどく、苦しんでいたのだった。私は抗がん剤の効き目が半年ほどで薄れるとは知らず、Kが言うには、切れても新しい薬が見つかって繋いでいけばなんとかなるとのことだったので、なるたけ長期に見つかり続ければいいなと思っていた呑気さだった。

副作用の辛さに関しては、いかんともしがたく、部外者で家族でもない私には迂闊に止めればいいなどとのアドバイスもできずにいた。無力感とともに、なすすべもなく、ただ見守るしかなかったわけだ。

年も迫り、年末の挨拶がてら久々に連絡を取ってみた。1日置いて届いた返事は、次のようなものだった。
「緩和ケアに移ることになりました、今までありがとう」
生き延びると楽観していた私は、体調の急変に愕然とした。その直前、抗がん剤の副作用に酵素浴がいいとの情報を得ていた私は、今更遅すぎるが、美濃太田にある同施設のウェブサイトページも送っていた。

電話しても差し支えないかとメールを送ったが、返事はなかった。既に電話を取る気力はないのかもしれない。最悪の体調だったらと思うと、ダイレクトな声の伝達は躊躇われた。

以後、返事は途絶えたままで、もう1人Kと親しくしていた級友に連絡を取り、電話か携帯メールしてくれるよう頼んだ。しかし、電話はつながらず、メールの返答もなかった。

年が明け、依然気を揉み続けていた私には、正月を祝うどころでなかった。もしかしてと不吉な予感が走るのをこらえて、ほかのクラスメートにも相談してみた。Kの動向がまったく掴めないまま10日以上が過ぎ、中学時代の級友グループLINEに、Kの娘さんから突然、訃報が舞い込んだ。

札幌の時計台は、多くの観光客が訪れる名所(札幌市中央区北一条西2丁目)。三角屋根の上に大時計を載せた特徴的な外観の歴史的建築物で(1970年に重要文化財に指定)、時計台としては日本最古。札幌農学校(現北海道大学)の演武場として1878年に建設された。

1月8日に逝去していたのだとわかった。覚悟していたとはいえ、ショックは大きかった。抗がん剤の副作用のことなど、もう少し早めにネットで調べてあげてもっとどうにかしてあげられなかったものかと、悔やんだ。あまりにも無力で、なんの力にもなれなかった自分が歯がゆかった。結局は、当人の痛みは当人にしかわからない、身内だろうと同じことだとわかっていて、近年夫や母を亡くした私には、打撃だった。

新年早々の友の訃報は私を打ちのめした。どうにも意気が上がらない。体が重く、メンタル面で今ひとつ、鬱々として、どうにもしゃきっとしない。

某夜、悪夢を見た。Kが私の背中にぎゅうっとしがみついてきて、意表をつかれてぞっと戦慄した私が必死に背中の手を振りほどくと、絡みついていた体は粉々に砕け散った。夢見の悪さに、成仏できずにKの魂がさまよっているような気がして、数珠を繰って、南無阿弥陀仏と3回唱えた。以後、霊に付き纏われることはなかったが、かといって憂えが吹き払われるわけでもなかった。ふと、どこかに旅に出ようと思った。

訃報が届く前は、避寒に石垣島辺りに旅したいと考えていたのだが、今はそんな遊楽気分は吹き飛んでいた。暖かいところは、弔い旅にふさわしくないと思った。きりっと精神が引き締まるような寒冷地がいい。たまたま耳にしたラジオで、リスナーからの便りで知床に流氷を見に行くというのがあった。あぁ、これだ、と思った。 オホーツク海の流氷を見て、友を偲ぼう、センチメンタルジャーニーに、これほど似つかわしい旅はない、私は早速ネットを当たり出した。

(「インド発コロナ観戦記」は、92回から「インドからの帰国記」にしています。インドに在住する作家で「ホテル・ラブ&ライフ」を経営しているモハンティ三智江さんが現地の新型コロナウイルスの実情について書いてきましたが、92回からはインドからの「帰国記」として随時、掲載しています。

モハンティ三智江さんは福井県福井市生まれ、1987年にインドに移住し、翌1988年に現地男性(2019年秋に病死)と結婚、その後ホテルをオープン、文筆業との二足のわらじで、著書に「お気をつけてよい旅を!」(双葉社)、「インド人には、ご用心!」(三五館)などを刊行している。編集注は筆者と関係ありません)