差別を体験した女性監督が暴動事件を経て描いた「サンシャイン」(253)

【ケイシーの映画冗報=2018年12月27日】1992年の4月末から5月の初旬にかけてアメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルスで大規模な暴動が発生しました。黒人への人種差別や陪審員制度による量刑判断の問題から、市内全土が騒乱に包まれ、ロサンゼルス市長は「非常事態宣言」を出し、国内の治安を維持する州軍だけでなく、アメリカ陸軍や海兵隊が投入されるといった、内戦状態にまで状況は悪化し、死者は50人以上、逮捕者は1万人を越える大事件となっています。

現在、一般公開中の「マイ・サンシャイン」((C)2017 CC CINEMA INTERNATIONAL–SCOPE PICTURES–FRANCE 2 CINEMA-AD VITAM-SUFFRAGETTES)。アメリカでは4月に公開されたが、興行収入は約83万ドル(約8300万円)にとどまっている。

本作「マイ・サンシャイン」(Kings、2017年)はこの事件を、当事者の目線で描いた作品です。黒人女性ミリー(演じるのはハル・ベリー=Halle Berry) は、ロサンゼルス市街のサウスセントラルで、身寄りのない子どもを何人も引き取って育てていました。

ミリーの隣家に住むオビー(演じるのはダニエル・クレイグ=Daniel Craig)は白人男性でありながら黒人地区にひとりで暮らす変わり者で、ミリーの家で遊ぶ子どもたちに怒鳴り散らすようなエキセントリックな人物です。

そのサウスセントラルが不穏な空気に包まれていきます。万引きを働いた黒人の少女を韓国系の店員が射殺してしまったことで、黒人たちが韓国系の住民を敵視するようになったのです。

それに黒人男性ロドニー・キング(Rodney King、1965-2012)が白人警官に「リンチのような」集団暴行を受けたことがテレビで大きく取り上げられるようになると、サウスセントラルの黒人たちは一気にヒート・アップします。そして、黒人少女を射殺した女性が罰金刑でおわり、キングを暴行した警官たちも事実上の「おとがめなし」となったとき、黒人たちの不満は沸点に達したのでした。

ミリーの自宅周辺も騒がしくなります。姿が見えなくなった子どもを探していたミリーも、黒人というだけで警官に手錠をかけられり、銃口を向けられたりします。手錠のまま逃げたミリーを助けたのは、言い争いばかりだった隣人のオビーでした。いたるところで銃声がひびき、略奪と放火が横行する夜の街を、ミリーとオビーは子どもたちを探すための危険なドライブに出かけるのです。

本稿では、今年の2月にも、アメリカの黒人に対する人種差別が原因となった「デトロイト暴動」(1967年7月)をあつかった「デトロイト」(Detroit、2017年)をとりあげています。

アメリカで実際に起きた騒乱を映画化したというだけででなく、「デトロイト」と「マイ・サンシャイン」には女性監督という共通点があります。「デトロイト」を監督したキャスリン・ビグロー(Kathryn Bigelow)は、2009年に「ハート・ロッカー」(The Hurt Locker)で女性としてはじめてアカデミー監督賞を受けた人物です。

映画人としてのキャリアが30年以上あり、アカデミー賞受賞者であるビグローとくらべると、本作の監督・脚本はこれが長編2作目というデニズ・ガムゼ・エルギュヴェン(Deniz Gamze Erguven)は、映画界のニュー・フェイスといえるでしょう。

ビグロー監督が「デトロイト」の着想を得たのは、2014年に白人警官が武器を持たない黒人青年を射殺しながら不起訴となった事件だったのですが、エルギュヴェン監督も2005年に起きた「パリ郊外暴動事件」が、本作のアイディアの源泉だったそうです。

北アフリカ出身の若者が警官に追われて逃げ込んだ変電所で感電し、2名死亡、1名重症という事件で、ロドニー・キングへの暴行事件とおなじように、警察=政府への不信感からフランス全土に暴動が広がりました。

「この事件の最中に私自身も尋問を受けました。(中略)国籍申請は2度却下され、パスポートを申請する度に通るか不安になります」(パンフレットより)と語るエルギュヴェン監督は、トルコで生まれ、生後半年でフランスに渡りながら、「フランス人として受け入れてもらえない」という感情を抱いていたそうです。

ビグロー監督は2014年の事件を知り、「アメリカは50年前とかわらない」と実感したそうですが、自身が事件に巻き込まれたエルギュヴェン監督にとってはもっと切実な想いがあったのではないでしょうか。

移民の国アメリカでも、移民受け入れについてネガティブな発言が目立つようになりました。英国は経済的にアラブ系の影響力は無視できません。ドイツにはトルコ系移民が労働力として数十年間、インフラを支えています。パリのエッフェル塔付近には「黒人とアラブ系しかいなかった」という話も最近、聞きました。

鑑賞後、「国家とは何か?国民とは何か?同じ人間なのになぜ蔑視するのか?」、いずれも解決は困難ですが、現在進行形の問題であることを再認識させてくれました。次回は「シュガー・ラッシュ:オンライン」の予定です(敬称略。【ケイシーの映画冗報】は映画通のケイシーさんが映画をテーマにして自由に書きます。時には最新作の紹介になることや、過去の作品に言及することもあります。当分の間、隔週木曜日に掲載します。また、画像の説明、編集注は著者と関係ありません)。

編集注:ウイキペディアによると、1992年4月末から5月初旬にかけて起こった「ロサンゼルス暴動」はその1年前の1991年3月3日、アフリカ系男性ロドニー・キングがレイクビューテラス付近でスピード違反を犯し、LA市警によって逮捕された。

その際、20人にものぼる白人警察官が彼を車から引きずり出して、装備のトンファーバトンやマグライトで殴打、足蹴にするなどの暴行を加えた。たまたま近隣住民が持っていたビデオカメラでこの様子を撮影しており、この映像が全米で報道されアフリカ系民族の怒りを膨らませた。

この事件でビデオに映り身元が分かる白人警官3人とヒスパニック系警官1人の計4人が起訴されたが、裁判の結果、警官達の「キングは巨漢で、酔っていた上に激しく抵抗したため、素手では押さえつけられなかった」との主張が全面的に認められ(実際はおとなしく両手をあげて地面に伏せたキングが無抵抗のまま殴打され、医療記録によるとあごを砕かれ、足を骨折、片方の眼球は潰されていたとされるが、裁判では認められなかった)、事件発生から1年経過した1992年4月29日に陪審員は無罪評決を下した。

ロドニー・キング事件のわずか13日後となる1991年3月16日、持参したバックパックに1ドル79セントのオレンジジュースを入れ、手に支払いのための小銭を握っていたアフリカ系少女(当時15歳)であるラターシャ・ハーリンズ(Latasha Harlins、1975-1991)を韓国系アメリカ人の女性店主が射殺した。

事件の様子は防犯ビデオに収められており、2人は揉み合いになったのちに少女が店主の顔面を4度殴打、店主は床面に激しく転倒させられた。店主は少女に椅子を投げつけ、その後、オレンジジュースをカウンターに置いて店から歩いて出て行こうとする少女に対して、韓国人店主は背後から銃を向け、その頭部を撃ち抜いた。

女性店主は逮捕され、事件の判決は同年11月15日に出された。陪審員は16年の懲役を要求していたにもかかわらず、判決は5年間の保護観察処分、およびボランティア活動400時間、罰金500ドルという殺人罪としては異例に軽いものであった。この判決はアフリカ系社会の怒りを再び煽ることとなり、無実のアフリカ系少女を射殺するというこの事件により、アフリカ系社会と韓国人社会間の軋轢は頂点に達した。

1992年4月29日、LA市警の警官への無罪評決が下されたこの日、評決に怒ったアフリカ系たちが暴徒と化し、ロサンゼルス市街で暴動を起こして商店を襲い、放火や略奪をはじめた。また、小規模な暴動及び抗議の動きはロサンゼルスだけではなくラスベガス、アトランタ、サンフランシスコをはじめとしたアメリカ各地、およびカナダの一部にまで波及したようである。

主な襲撃目標となったLA市警は自らを守るだけで手一杯の状況となり、暴動を取り締まることはまったくできなくなっていた。この時、LA市警は現場にアフリカ系警官のみを行かせるよう編成をしており、現場近くにいた白人制服警官には「現場に近づくな」との命令がディスパッチャー(通信司令)を通して発せられていた。4月30日、当時の市長は非常事態宣言を発令した。

もうひとつの主たる襲撃目標が韓国人商店で、襲撃による被害額の半分弱が韓国人商店のものであるともされる。韓国人店主らの多くはベトナム戦争の帰還兵で、ベトナム戦争に参加した韓国人帰還兵にアメリカ政府が移住許可を与えたため、1970年代に韓国系移民が4倍も増えた。

彼らは主に競合相手のいないアフリカ系街で商売を始め、従業員にはヒスパニック系を雇い、閉店すると店を厳重にガードし、韓国人街へ帰るというスタイルで商売していた。アフリカ系の間では「自分達を差別しながら商売する連中」というイメージが定着し、そうしたアフリカ系による日頃からの韓国系への鬱憤が、暴動時の韓国人商店襲撃へと結びついたといわれている。

暴動鎮圧のために州兵は元より、4000人を超える連邦軍(陸軍、および海兵隊)部隊までが投入され、さらには司法省が、ロドニー・キング事件について、公民権法違反容疑でのFBIによる再捜査をアナウンスするなどの努力によって、6日間にわたった暴動はようやく収束を見た。

暴動による被害は死者53人、負傷者約2000人を出し、放火件数は3600件、崩壊した建物は1100件にも達した。被害総額は8億ドル(約800億円)とも10億ドル(約1000億円)ともいわれる。韓国人街は市警が暴動鎮圧に消極的だったと厳しく非難した。また彼らは「無実の我々が犠牲を強いられた責任は市当局にある」と述べた。この事件での逮捕者は約1万人にものぼり、そのうち42%がアフリカ系、44%がヒスパニック系、9%の白人と2%のその他の人種が含まれていた。

FBIが公民権法違反で再捜査を行い、再審理の結果、指揮を執る立場にあった巡査部長と直接関与した巡査の2人が有罪評決を受けた。LA郡の連邦地裁陪審団は同市に対しキングに約382万ドル(当時のレートで約3億9700万円)の賠償金を支払うよう評決を下した。