永谷商事、神田すずと吉良邸跡、勝海舟生誕地、回向院などを歩く

【銀座新聞ニュース=2019年11月28日】不動産会社で、都心で寄席を経営する永谷商事(武蔵野市吉祥寺本町1-20-1、0422-21-1796)が運営する「お江戸日本橋亭」(中央区日本橋本町3-1-6、日本橋永谷ビル1階、03-3245-1278)は12月2日に神田すずさんによる「講談師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」を開く。

12月2日に開かれる「講談師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」で、「忠臣蔵 吉良邸討ち入りコース」を案内する神田すずさん。

永谷商事が毎月1回から2回程度、定期的に開いている「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」シリーズのひとつで、講談師が名所旧跡などを解説しながら一緒に歩いて回る企画で、その後、お江戸日本橋亭で寄席を鑑賞する。

今回は「忠臣蔵 吉良邸討ち入りコース」と題して、二ツ目の講談師、神田(かんだ)すずさんと一緒に「旧安田庭園」(墨田区横網1-12-1)、「東京都立横綱町公園」(墨田区横網2-3-25、03-3622-1208)・「吉良邸跡(本所松坂町公園)」(墨田区両国3-13-29)、「勝海舟(かつ・かいしゅう、1823-1899)生誕の地(両国公園内)」(墨田区両国4-25-3、03-5608-6291)と吉良邸の周囲を歩く。

その後、「絵島杉山神社」(墨田区千歳1-8-2、03-3634-1055)、「本所回向院(ほんじょえこういん)」(墨田区両国2-8-10、03-3634-7776)を回って、お江戸日本橋亭に移り、昼食後、寄席を観賞する。

「旧安田庭園」は江戸時代に本庄松平氏(常陸笠間藩、のち丹後宮津藩)の下屋敷で、元禄年間(1688年から1703年)にもと常陸国笠間藩主本庄因幡守宗資(ほんじょう・いなばのかみ・むねすけ、1629頃-1699)により築造されたと伝えられている。

かつては隅田川の水を引いた汐入回遊式庭園として整備され、明治以降は旧備前岡山藩主池田章政(いけだ・あきまさ、1836-1903)の邸宅となり、次いで安田善次郎(やすだ・ぜんじろう、1838-1921)の所有となり、1922年に東京市に寄贈された。

1923年の関東大震災によりほとんど旧態を失い、東京市により復元され、1927年に庭園として開園し、1967年に東京都から墨田区に移管され、現在は墨田区が管理し、全面的に改修され、ポンプにて人工的に潮入が再現されている。

横綱町公園は元々、陸軍被服廠があったところで、1922年に赤羽(現在の東京都北区)に移転した後に、東京市が買収し、公園として整備した。工事は1923年7月から始まったが、9月1日に関東大震災がおき、直後、周辺の下町一帯から多くの人が、造成中の公園を避難場所とみなして集まった。

しかし、16時ごろに地震で発生した火災による熱風が人々を襲い、避難の際に持ち出した家財道具に火が移り、巨大な火災旋風が発生し、人、荷物、馬車までも巻き上げ、炎の中に飲み込んでいった。結果、公園に避難した人だけで3万8000人が犠牲になったという。

震災後、その3万8000人の遺体はその場で火葬され、その場に急遽作られた仮設の慰霊堂に収容された。やがて東京の復興が進む中、公園に関東大震災による遭難死者約5万8000人の遺骨を納める納骨堂(三重塔)や慰霊堂が建てられ、1930年に完成し、1930年9月1日に公園も開園した。1931年に公園内に関東大震災の惨劇とそこからの復興を後世に伝えるため、復興記念館が完成した。

1945年3月10日の東京大空襲で多くの犠牲者が出たため、戦争による身元不明の遺骨などを、公園内の納骨堂を拡張して「震災記念堂」に合祀され、1951年に「東京都慰霊堂」と改称された。

他に関東大震災の際に、朝鮮系の住民が震災に乗じて略奪や襲撃を起こしているという情報が流れたため、一部の朝鮮人(朝鮮人と間違えられた日本人も)が混乱下の避難民により殺害され、それを追悼する石碑や、東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑などがある。

公園の面積は1万9579平方メートルで、東京都慰霊堂、東京都復興記念館、関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑、東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑、震災遭難児童弔魂群像などがある。

「吉良邸跡(本所松坂町公園)」は播州赤穂(現兵庫県赤穂市)藩主の浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみ・ながのり、1667-1701)が、吉良上野介義央(きら・こうずのすけ・よしひさ、1641-1703)に対して殿中刃傷事件を起こした後の1701年9月3日に当地を拝領して建設された吉良家の上屋敷で、広さは坪数2550坪(約8415平方メートル)もあった。

1703年の赤穂浪士による仇討ち事件の後、江戸幕府により没収されてしまい、吉良家の上屋敷だったのはわずか1年半程度だった。

両国3丁目町会有志会が発起人となって、邸内のいわゆる「吉良の首洗い井戸」を中心に土地を購入し、1934年3月に東京市に寄付し、1935年に公園とされ、1950年9月に墨田区へ移管された。公園の周囲にある高家を表すなまこ壁の、長屋門を模した高さ2メートルのコンクリート壁と門が当時の模様を偲ばせている。

本所松坂町公園は約98平方メートル(29.5坪)の敷地に稲荷社や井戸、桜の木などがある。毎年12月14日義士討入りの日に、地元義士会によって義士祭が、午後には吉良祭が行われている。

勝海舟生誕の地は勝海舟が1823年1月30日に父の勝子吉(かつ・こきち、1802-1850)方の実家、男谷家(おたにけ)で生まれた場所で、幼名および通称は麟太郎(りんたろう)、あざなは義邦(よしくに)と名付けられた。

青年期まで墨田の地で過ごし、学問や剣術の修行に励んだ。現在、生誕地である男谷家跡は、両国公園となっており、園内には生誕地碑が建てられている。両国公園は1927年に関東大震災の復興小学校として建設された両国小学校と一緒に建てられた公園(当時は江東公園)だ。

江島杉山神社は盲目の鍼灸師、杉山和一検校(すぎやま・わいち・けんぎょう、1610-1694)が1693年に当地に屋敷地を拝領、彼が修業した江の島の弁天岩窟を模して屋敷内に創建したといわれている。

神社によると、徳川綱吉(とくがわ・つなよし、1646-1709)が杉山和一に「何か欲しいものはないか」と尋ねると、杉山和一は「唯一つ目が欲しゅうございます」と答えた。そこで、「本所一つ目」と呼ばれていた当地に宅地を与えたとされている。高齢の杉山和一が、江戸から江ノ島弁財天まで月参りをしていることを不憫に思ったこともある。

徳川綱吉が与えたのは3000坪余り(約9900平方メートル)の土地で、杉山和一は弁財天を分社して祀らせた。以降、この屋敷を「惣禄屋敷」と呼び、関八州の盲人は江戸において盲人官位の取得が出来るようになった。

明治時代に、江の島弁財天を祀った江島神社と杉山検校を祀った杉山神社とを合祀して江島杉山神社とした。

回向院は1657年に開かれた浄土宗の寺院で、「振袖火事」(明暦の大火)により、市街の6割以上が焼土と化し、10万8000人が亡くなり、徳川家綱(とくがわ・いえつな、1641-1680)は無縁の人たちの亡骸を手厚く葬るようにと、隅田川の東岸、現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、増上寺の遵誉上人(じゅんよしょうにん)に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行った。このとき、念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりとされている。

のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者、刑死者など横死者の無縁仏も埋葬し、あらゆる宗派だけでなく人、動物すべての生あるものを供養するという理念から、軍用犬、軍馬慰霊碑や犬猫供養等塔、ペットの墓も多数ある。江戸三十三カ所観音参りの第4番札所である。

山東京伝(さんとうきょうでん、1761-1816)、竹本義太夫(たけもと・ぎだゆう、1651-1714)、鼠小僧次郎吉(ねずみこぞう・じろきち、1797-1832)らの墓がある。また、参拝客のために1659年から1661年ころに両国橋が架けられた。

1781年以降には、境内で勧進相撲が興行され、これが今日の大相撲の起源とされ、1909年に旧両国国技館が建てられた。国技館建設までの時代の相撲を指して「回向院相撲」と呼ぶこともある。1936年1月には大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立した。

神田すずさんは東京都東村山市生まれ、2006年に神田(かんだ)すみれさんに入門し、前座見習となり、2010年9月に「二つ目」に昇進した。

時間は10時から16時で、10時にJR総武線両国駅に集合する。昼までにお江戸日本橋亭に戻り、13時30分からお江戸日本橋亭で神田すずさんらの寄席となる。料金は弁当、飲み物、寄席代を含めて3500円で、交通費などがかかる場合は自己負担となる。申し込みは永谷商事まで。