丸善日本橋で小林加代子、酒井泉、齋藤昭彦が桃の節句展

【銀座新聞ニュース=2025年2月2日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は2月5日から11日まで3階特設会場で「桃の節句展」を開く。

丸善・日本橋店で2月5日から11日まで開かれる「桃の節句展」のフライヤー。

今回は、「桃の節句」をテーマに制作した、3人の作家による作品を展示販売する。出品するのは、染付けの小鉢作家の小林加代子さん、陶磁器の酒井泉さん、「アーリークラフト」(千葉県袖ケ浦市坂戸市場2382-1)を主宰する木工作家の齋藤昭彦さん。

ウイキペディアなどによると、「節句」とは、中国の陰陽五行説に由来して定着した日本の暦(こよみ)における、伝統的な年中行事を行う季節の節目(ふしめ)となる日をさす。この日には、日本の宮廷において節会(せちえ)と呼ばれる宴会が開かれた。

年間にわたりさまざまな節句があり、そのうちの5つを江戸時代に幕府が公的な行事・祝日として定めた。それが1月7日の「人日(じんじつ)の節句」、3月3日の「上巳(じょうし)の節句」、5月5日の「端午(たんご)の節句」、7月7日の「七夕(たなばた)の節句」、9月9日の「重陽の節句」の5節句(現在では3月3日、5月5日、7月7日は同じ曜日になる)という。

「上巳の節句」が桃の花の季節であることから「桃の節句」と呼ばれる。起源は古来中国の上巳節で、上巳の本来の定義は3月最初の巳の日のことであり、中国において魏(220年から265年)の時代に3月3日に固定化され、中国ではこの日に「はらえ」や「みそぎ」を行う風習がある。

日本でも雑令によってこの日に節会(天皇のもとに群臣を集めて行われた公式行事で饗宴を伴う)を開くこととして701(大宝元)年より公式に採用され、内裏(だいり、天皇の私的空間)において曲水の宴(きょくすいのうたげ、庭園で盃が流れてくる間、詩歌を詠む行事)が行われた。

平城天皇(へいぜい・てんのう、774-824)の時代に父・桓武天皇(かんむ・てんのう、737-806)の国忌と近いという理由で廃止されたが、弟の嵯峨天皇(さが・てんのう、786-842)は節会としてではなく、公的な色を薄めた儀式として再開した。

また、曲水の宴は貴族の娯楽としても行われ、民間においては、日本に古来よりあった贖物(あがもの)と呼ばれる人形(ひとがた)に自分の身体をこすり付けて「けがれ」を移し、川などの水辺に流すことで「はらい」を行うという「阿末加津/天児(あまかつ)」などと呼ばれる風習と結びつき、これが後世の流し雛(雛人形)に発展したといわれている。室町時代には「3月3日の儀式」として定着した。

「ひな祭り」ははじまりについては歴史的にはわからず、起源説は複数ある。平安時代の京都で平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていたとする記録がある。当時においても、小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられ、初めは儀式ではなく遊びであり、ひな祭りが「ひなあそび」とも呼ばれた。

一方、平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流しびな」があり、「上巳の節句」としてひな人形は「災厄よけ」の「守りびな」として祀られるようになった。

江戸時代になり、女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき、全国に広まり、飾られるようになった。3月の節句にひな祭りを行うようになったのは、天正(1573年から1593年)年間以降と推測されている。

やがて武家社会でも行われるようになり、江戸時代には庶民の人形遊びと節句が結び付けられ、行事となり発展した。その後、紙製の小さな人の形(形代)を作ってそれにけがれを移し、川や海に流して災厄をはらう祭礼になった。この風習は、現在でも「流しびな」として残っている。

江戸時代、ひな祭りは「五節句」のひとつとして「祝日として存在した」とされる。しかし、1873(明治6)年の新暦採用が「五節句(=ひな祭り)」の祝日廃止となって、さらに「国民の祝日」より「皇室の祝日」色が濃くなった。

このため、戦後になって新たに祝日を作ろうとする動きが見られた際に、祝日制定にあたり3月3日の案や、新年度の4月1日の案も出たが、最終的には5月5日の端午の節句を祝日(こどもの日)とする案が採用された。北海道・東北をはじめ寒冷で気候の悪い地域の多い時期を避け、全国的に温暖な時期の5月にしたというのが大きな理由のひとつとされている。

「じゃらんニュース」によると、ひな人形の種類や飾り方については、京都で作られる京雛(きょうびな)と関東で作られる関東雛(かんとうびな)があり、京雛は左側(向かって右)に男雛、右側に女雛が座り、目が細めのおっとりした目鼻立ちになっている。

一方、関東雛は右側(向かって左)に男雛、左側に女雛が座り、はっきりめの目鼻立ちになっている。かつて宮廷では左側が位が高いとされ(左大臣の方が右大臣より位が高い)、京雛では「みかど」が左、「お妃さま」が右の座り方で、関東雛は現代の国際基準に合わせて「右上位」の座り方で、右上位が浸透したのは、大正時代以降という。

飾り方については、もっとも豪華な飾り方の「7段飾り」では、1段目が男雛と女雛、2段目が3人官女、3段目が5人囃子(ごにんばやし)、4段目が随身(ずいじん、平安時代以降、貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人)、5段目が仕丁(しちょう、奈良時代の律令制における労役のひとつで、諸国から50戸に2人の割合で、正丁を京にのぼらせ、官司に分配して3年間労役に服させた)、6段目と7段目が化粧箱や御所車、駕籠などの嫁入り道具を並べる。全部で15人いるので「15人飾り」とも呼ばれる。

5段飾りは3段目までは7段飾りと同じで、4段目に随身と仕丁、5段目に嫁入り道具を並べるのが一般的。これも15人飾りのひとつ。

3段飾りは3段目の5人囃子までが同じで、嫁入り道具も付いていて、5人囃子の周囲に並べる。10人飾りとも呼ばれる。

親王飾り(2人飾り、2人雛)は男雛と女雛一対だけで、室町時代まではこれが普通だった。現代では飾るスペースの関係もあってニーズが高く、種類も豊富という。

ひな人形は立春(2月4日)がひとつの目安で、このころから飾ると、1カ月間飾ることができる。二十四節気の雨水(2月18日ごろ)に飾ると、良縁に恵まれるといわれている。水は命の象徴であり、豊穣や子孫繁栄につながるとされている。

遅くとも1週間前までには飾り、前日の3月2日に飾るのは「一夜飾り」といって縁起がよくないとされている。

しまうのは、3月中旬までの天気のいい湿気の少ない日が最適で、人形に湿気を残さないのがポイントという。啓蟄(3月5日ごろ)の日に片付けるのがいいという言い伝えもある。

ウイキペディアなどによると、「十五夜」は8月十五夜(旧暦8月15日から16日の夜)の「月見」をいう。「十五夜」(中秋の名月)は中国から伝わり、名月の日に月を鑑賞する風習の始まりは、唐代の頃からといわれ、宋代の「東京夢華録」には身分に関わらず街を挙げて夜通し騒ぐ様子が記録されている。

この風習が貞観年間(859年から877年)の頃、日本の貴族社会に入り、平安時代の月見は徐々に規模が大きくなり、919(延喜19)年に宇多法皇(867-931)が旧暦9月13日にも観月の宴を行い、これが日本独自の「十三夜」の月見のはじまりとされている。また、食べ頃の大豆(枝豆)や栗などを供えることから、この夜の月を「豆名月(まめめいげつ)」または「栗名月(くりめいげつ)」と呼ばれる。

当時の日本での月見は詩歌や管絃を楽しみつつ酒を酌む、といった雅味な催しで庶民とは縁のないもので、この頃の月見は中国、日本ともに願掛けや供え物といった宗教的な要素はなく、ただ月を眺めつつ楽しんでいた。

日本では室町時代(1336年から1573年まで)に入ってからも名月の日は続いたが、遊宴としては簡素になり、室町後期の名月の日には月を拝み、お供えをする風習が生じていた。「御湯殿上日記」には後陽成天皇(1571-1617)がナスに開けた穴から月を見て祈る「名月の祝」という祝儀の様子が記録されている。

月見が世俗化した江戸時代(1603年から1868年まで)前期の記録によれは、十五夜の日は芋煮を食べて夜遊びをするのが一般的だった。その頃の庶民の月見には月見団子などの供え物の記録は見られず、家庭で供え物が行われるようになったのは中期以降と見られている。江戸後期の風俗記録である「守貞漫稿」には十五夜の日は文机で祭壇をこしらえ、供え物として江戸では球形の、京阪ではサトイモの形をした月見団子を供えると記録されている。

小林加代子さんは組み合わせ方によりいろいろな場面で使え、見ても側に置いても楽しめる、シンプルな器を制作しており、技法については磁器土をロクロ成形し、呉須で下絵付をし、還元焼成をしている。染付の文様は野草(主に野いばら)をスケッチし、作り手と使い手の心が「ツナガル」という思いを込めて、重ねて並べて「ツナガル」ようなデザインを採用している。

酒井泉さんは1990年に武蔵野美術大学油絵科を卒業、1998年に愛知県立窯業高等技術専門校を修了、愛知県瀬戸市で修業を重ね、東京で主に瀬戸や信楽の土を使って使用陶器を制作している。化粧土や釉薬(ゆうやく)を薄く塗り重ねて、1240度の高温で焼成している。

斎藤昭彦さんは家造りの大工を7年間、日常の道具から家具づくりを5年間、学んで、2011年に「アーリークラフト」を設立し、2016年に第55回日本クラフト展で入選、2024年に千葉県に移転している。

開場時間は9時30分から20時30分(最終日は15時)まで。