アムネスティが「香港、裏切られた約束」上映、カオルがトーク

【銀座新聞ニュース=2025年11月22日】公益社団法人「アムネスティ・インターナショナル日本」(千代田区九段北1-5-9、九段誠和ビル、03-3518-6777)は12月12日に日本教育会館の一ツ橋ホール(千代田区一ツ橋2-6-2、道案内専用電話03-3230-2833)で映画「香港、裏切られた約束」の上映会を開く。

2024年8月30日から公開され、今回12月12日に上映される「香港、裏切られた約束」(中国語・因為愛所以革命、英語Love in the Time of Revolution、2022年製作)のフライヤー。

1997年7月1日に英国から香港の主権を移譲された際に、中国政府は香港における自由と法の支配、「一国二制度」のもとで香港市民の自由を少なくとも50年間(2047年まで)は維持すると約束した。しかし、政治的自由への圧力が強まる中で、2019年6月には中国本土への犯罪人引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」の改正をきっかけに、約200万人規模とも言われる香港市民による抗議行動が展開され、このデモに対して、中国政府は過度な武力行使や恣意的拘束など、国際人権基準に反する対応が行われ、世界的な批判が巻き起こった。

ドキュメンタリー映画「香港、裏切られた約束」は、監督を手掛けたトウィンクル・ンアン(Twinkle Ngan、顔志昇)さんが当時パティシエとして働いていたが、故郷の行方を案じてカメラを手に取り、催涙ガスや放水銃が飛び交う現場で、市民が自由と尊厳を守ろうとする姿を撮影し続け、激しく変動する政治環境の中で、権利の侵害に直面しながらも声を上げ続けた香港市民の闘いとその代償を克明に伝えた作品。

トウィンクル・ンアンさんは撮影後、逮捕を逃れるため英国ロンドンに亡命し、映画を完成させた。今回、12月10日の「世界人権デー」の2日後に、映画を上映する。

トウィンクル・ンアンさんは1987年中国福建省生まれ、1歳の時に香港、北角に移り住む。その後、パティシエとして貯めたお金でビデオカメラを購入し、映画の撮影や編集はすべてYouTubeのチュートリアルで学んだ。2019年6月4日にビクトリアパークでの天安門事件の集会へカメラを試しに歩いていた時から始まり、その後、何回にも渡りデモに遭遇、彼らがなぜ抗議をしているのか、その動機と情熱に興味を持ち、まず理解しようとカメラを回し始める。

同年7月21日に警察に撃たれ怪我をした時、映像を撮るのに真剣となり、香港理工大学に最後まで残り、撮影し続け、戦う人々の姿を世界に伝えなければと決意した。同年11月、大学の駐車場の裏口から逃げ出すことができ、2021年11月に英国ロンドンに入国した。しかし、亡命を申請するとパスポートを提出することになり、旅行ができなくなることから、2022年4月のスイスでのヴィジョン・デュ・レールでの「ニヨン国際ドキュメンタリー映画祭」に参加するため、6カ月間のビザなし期間がほぼ切れるまで亡命申請を保留した。

スイスからロンドンに再入国した際、英国の国境管理官から、次回は有効なビザがないと入国を拒否されると告げられ、その後、ロンドンにて亡命申請を提出した。2024年1月、正式に「難民」となる。これまでにオーストラリア、アメリカ、ポーランド、ドイツ、カナダなどの都市で上映され、日本でも2024年に上映されている。

当日は18時15分から事前解説、18時45分から映画上映、終了後の20時45分から質疑応答をする。

また、1階の一ツ橋画廊では12月6日から14日までフォトジャーナリストのクレ・カオル(Kaoru Ng)さんによる写真展「香港、消された声」と題して、当時の写真を展示する。また、14日14時から15時30分まで会場でクレ・カオルさんによるトークショーを開く。

クレ・カオルさんは1986年香港生まれ、英インペリアル・カレッジ・ロンドンで遺伝子情報学系修士課程を修了、理系の道を歩んでいたが、2019年の香港民主化運動をきっかけに趣味の写真を仕事に変え、フォトジャーナリストになる。

香港紙の「リンゴ日報」(アップルディリー、2021年廃刊)において、2020年、民主化運動に揺れたベラルーシからの現地情報を投稿し、2021年に香港の政治情勢悪化により英国に移住した。2022年にロシアとの戦争で緊張するウクライナへ渡航し、同年12月まで8カ月にわたって現地の情勢を写真で記録してきた。2023年に、東京で活動する中で、ウクライナ人女性と知り合い、結婚し、長男が誕生している。

「アムネスティ・インターナショナル(Amnesty International)」は1961年に発足した世界最大の国際人権NGOで、人権侵害のない世の中を願う市民の輪は年々広がり、今や世界200カ国で1000万人以上がアムネスティの運動に参加している。1976年にエラスムス賞(ヨーロッパの文化、社会、社会科学への貢献を評価して毎年授与される賞)、1977年にノーベル平和賞、1978年に国連人権賞を受賞している。本部はロンドンにある。アムネスティ・インターナショナル日本は、その日本支部として1970年に設立されている。

ウイキペディアによると、香港は1104平方キロの面積に700万人を超す人口を有する世界有数の人口密集地域で、1841年1月26日から1997年6月30日まで、イギリス統治下にあり、イギリスの設置した香港政庁による統治が行われた。ただし、1941年12月から1945年8月までの大東亜戦争中、香港は日本による占領を受けたため、イギリスの統治は中断された。

アヘン戦争(1840年から1842年まで)中の1841年1月26日にチャールズ・エリオット(Sir Charles Elliot、1801-1875)大佐率いるイギリス軍が香港島に上陸し、占領、イギリス領有を宣言し、エリオットが香港行政官に就き、1842年の南京条約により、香港島はイギリスに永久割譲された。

1843年6月に初代香港総督にサー・ヘンリー・ポッティンジャー(Sir Henry Pottinger、1789-1856)が就任、植民地としてのイギリス統治が開始された。1856年に勃発したアロー戦争(1856年から1860年まで清とイギリス・フランスの連合軍による戦争)の結果、1860年に北京条約が締結されて九龍半島もイギリスに割譲された。イギリスをはじめとしたヨーロッパ列強が中国進出の圧力を強め、1898年7月1日には九龍以北、深せん河以南の新界地域の租借に成功した。この地域の租借期限は99年間とされ、1997年6月30日をもって切れることになっていた。

経済面では1865年に創設されたイギリス資本の「香港上海銀行」が極東最大の銀行に発展し、地域通貨として初期には銀貨が使用され、1935年には香港ドルが発券された。1928年に南京国民政府が成立すると清英間で締結された不平等条約の改定をめざしたが、イギリス側は交渉に応じなかった。ただ、当時の中華民国と新界の国境線は開放され、中国人は自由な往来が可能であった。

1941年12月8日に大東亜戦争が勃発すると、酒井隆(1887-1946)中将指揮下の陸軍第23軍が香港のイギリス軍に対する侵攻を開始した(香港の戦い)。12月25日、マーク・ヤング総督(Sir Mark Aitchison Young、1886-1974)は日本軍に降伏した。1945年8月の日本の降伏まで3年8カ月間にわたる日本統治期を香港では「三年零八個月」と呼ぶ。

戦後、戦勝国の1国として国際連合安全保障理事会の常任理事国となった中華民国はイギリスに香港の主権移譲を要求したが、まもなく発生した第2次国共内戦のため交渉は不調に終わった。国共内戦の結果、中華民国の中国国民党政府は台湾に逃れ、1949年には中国共産党による中華人民共和国が成立した。

この頃、世界中のイギリスの植民地では独立運動が活発化し、イギリスは多くの植民地を放棄したが、1949年以降香港に隣接する中国大陸を支配するようになった中華人民共和国は、香港の主権を棚上げしたままイギリスとの国交樹立の交渉を進め、1950年にイギリスは中華人民共和国を国家承認して国交樹立に動き、中華民国とは台湾に駐在する領事館を残した。これは西側諸国としてはもっとも早い中華人民共和国の国家承認であった。

これを受けてイギリス政府は、将来の香港の主権移譲先を、香港から遠く海を隔てた台湾周辺を中心とした限られた地域のみを統治することになった中国国民党率いる中華民国から、香港に隣接する中国大陸を新たに支配することになった中華人民共和国へと変更した。

その後の冷戦下で発生した朝鮮戦争(1950年6月25日から1953年7月27日まで大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の間で勃発した、朝鮮半島の主権を巡る国際紛争)に中華人民共和国が介入して西側世界から孤立すると、香港が中華人民共和国にとって西側世界との唯一の窓口となった。このような状況は1967年に起きた文化大革命の終焉まで続くこととなった。文化大革命や大躍進政策などにより、多くの人が香港に逃れ、これらの人により香港の人口は急増した。これらの人を「逃港者」という。

文化大革命(中華人民共和国で1966年から1976年まで続き、1977年に終結宣言がなされた、中国最高指導者兼中国共産党主席の毛沢東=1893-1976=主導による「文化改革運動」を装った劉少奇=1898-1969=からの奪権運動、政治闘争)が起こると、香港においても住民を中心にした暴動が発生し、紅衛兵が深せん方面から越境し、イギリス軍や香港警察と国境付近で小規模な銃撃戦が起こることもあった。

暴動の鎮圧ではデモ隊に負傷者が発生し、中華人民共和国政府はこれに対して香港政庁に謝罪を要求した。また、人民解放軍部隊を国境付近に配置し圧力を強化した。しかしまもなく当時中華人民共和国の首相であった周恩来(1898-1976)が「長期的な利益から香港を回収しない方針」を明らかにし、香港暴動は沈静化した。

当時の経済格差や政治体制などを理由に中華人民共和国から移民や難民が流入し、彼らが安価な労働力となり香港の製造業を支えた。加えてベトナム戦争(1955年から1975年まで当時、南北に分断されていたベトナムで社会主義陣営の北ベトナム(ベトナム民主共和国)とアメリカの傀儡の南ベトナム(ベトナム共和国)打倒と祖国統一を目指す南ベトナム解放民族戦線とアメリカとの間で勃発した戦争)の終結後に南ベトナムからボートピープルが流入した。

増え続ける香港への流入人口を食い止めるために、1984年以降は、許可を持たない中華人民共和国からの密入国者はすべて送還する政策がとられた。香港政庁も大量に押し寄せた難民に対処する過程で、住宅供給や市街地の拡大に伴う開発プロジェクトを行うようになる。ただし政府規制を極力押さえ、低い税率を維持するなど過剰な経済への介入を避けた。これが「積極的不介入主義」である。

1960年代には水不足危機に陥り、中華人民共和国の東江から香港に送水するパイプライン(東深供水プロジェクト)も築かれた。1970年代からは繊維産業を中心とする輸出型の軽工業が発達し、後に香港最大の財閥(長江実業グループ)の創設者兼会長の李嘉誠(り・かせい、レイ・カーセン、1928年生まれ)さんのような企業家を輩出する。

さらに1960年代以降の旅客機のジェット化、大型化を受けて、航空機による人と貨物の輸送量が急増し、香港が東南アジアにおける流通のハブ的地位を確立した結果、1980年代から1990年代にかけて香港はシンガポール、台湾、韓国とともに経済発展を遂げた「アジア四小龍」あるいは「アジアNIEs」と呼ばれた。

1970年代に入ると、租借地新界の租借期限が次第に近づいてくるため、イギリス政府は新界租借の延長を中華人民共和国に求めたが、中華人民共和国は応じなかった。1980年代に入ると中華人民共和国の改革開放政策が進展し、香港の製造業は国境を越えて中華人民共和国側に進出、香港は金融、商業、観光都市となっていった。

マーガレット・サッチャー首相(Margaret Hilda Thatcher、1925-2013)はイギリスが引き続き香港を植民地支配下にするよう求めていたが、中華人民共和国は「港人治港(香港人が香港を統治する、という意味)」を要求して、これに応じず、鄧小平(1904-1997)はサッチャー首相に対し「イギリスがどうしても応じない場合は、武力行使や給水の停止などの実力行使もあり得る」と示唆した。

1984年12月19日、中英双方が署名した中英共同声明が発表され、イギリスは1997年7月1日に香港の主権を中華人民共和国に移譲し、香港は中華人民共和国の一特別行政区となることが決まった。この中で中華人民共和国政府は鄧小平が提示した「一国両制(一国二制度)」政策をもとに、社会主義政策を将来50年(2047年まで)にわたって香港で実施しないことを約束した。

この発表は中華人民共和国の支配を受けることを喜ばない一部の香港住民を不安に陥れ、イギリス連邦内のカナダやオーストラリアへの移民ブームが起こった。1989年に北京で「六四天安門事件」が発生すると、香港では民主派支持の大規模デモが行われ、再び移民ブームが巻き起こった。大部分の香港移民はイギリス連邦の構成国であるカナダ(トロントやバンクーバー)、オーストラリア(主にシドニー)、シンガポールなどに向かった。

1990年4月4日、「香港特別行政区基本法」が制定されると、香港人の不安は一応、沈静化した。しかし、1992年にクリストファー・パッテン(Christopher Francis Patten、1944年生まれ)さんが香港総督として着任すると、主権移譲を前に香港の政治的な民主化を加速させたため、中華人民共和国との関係が緊張した。このような政治的動揺や移民の流出にもかかわらず、経済的には中華人民共和国資本の流入によって主権移譲前の香港の不動産市場や株式市場は空前の活況を呈した。1997年7月1日に、香港は正式にイギリスから中華人民共和国に主権が移譲(返還)され、最後の総督となったパッテンさんは香港を去った。

パッテン時代に直接選挙を実施した立法局は、北京が成立させた「臨時立法会」を経て「立法会」に取って代わられ、中華人民共和国政府と深い関係にある富豪の董建華(とう・けんか、1937年生まれ)さんが初代香港特別行政区行政長官となった。香港は事実上イギリス最後の植民地だったため、その返還はイギリスをはじめとする欧米の報道では史上最大の帝国だった大英帝国の終焉であるとされた。

入場は無料だが、事前予約が必要。ネット(https://forms.gle/WKNbsLCdKNjZFByN9)から申し込む。