【銀座新聞ニュース=2025年12月29日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・丸の内本店(千代田区丸の内1-6-4、丸の内オアゾ、03-5288-8881)は2026年1月2日から13日まで4階ギャラリーで「『丸善』を創った男 早矢仕有的資料展ー福澤諭吉とともに日本の近代化に尽くした医師」を開く。
江戸時代から明治時代を駆け抜けた医師で、「丸善」を創業した早矢仕有的(はやし・ゆうてき、1837-1901)の生涯を正面から取り上げ、功績や失敗、挑戦を続けた足跡について、滅多に披露されることのない資料から辿るほか、早矢仕有的が生きた時代の人々、商業などに関する講演会を開く。
江戸末期、1人の医師が福澤諭吉(1835-1901)との出会いにより、その人生を大きく変え、医師でありながら実業家として「丸善」を創業したほか、貿易、教育、保険、商取引などさまざまな日本の近代化の礎を築いた挑戦者でありながら、世にあまり知られていない功労者・早矢仕有的の軌跡を辿る。
主な資料としては旧暦1869(明治2)年1月1日(新暦1869年2月11日)の「丸屋商社之記」(日本初の会社設立趣意書、1873年=明治6年=復刻版)、「帳合之法(ちょうあいのほう)」(原題:Common school book-keeping、1861年)、「改正増補和英英和語林集成 第三版」(1887年(1886年?)に丸善が出版した英語で書かれた日本語辞典)、「九鬼隆義宛書簡」(慶應義塾図書館所蔵)などが展示される。
「丸屋商社之記」は商社組織を株主「元金(もときん)社中」と社員「働(はたらく)社中」に分けた趣意書で、株式会社組織の初めとして高く評価されている。誰が起草したかは「福澤説」、「有的説」、「有的が起草し福澤添削説」などがあり、確定していない。
「帳合之法(ちょうあいのほう)」は福澤諭吉が1873(明治6)年、アメリカのH・B・ブライアント(Henry Beadman Bryant、1824-1892)、H・D・ストラットン(Henry Dwight Stratton、1824-1867)共著の商業簿記の教科書(Embracing single and double entry. New York,1871)の翻訳本として出版されたもので、日本初の簿記学(西洋式複式簿記)のテキストで、これを用いた「新しい記帳法」の有料講習会が、1873年7月に丸屋商社の店内で開かれている。
「改正増補和英英和語林集成 第三版」は初版、第2版が上海の出版社によって印刷されたが、第2版を倍増させたこの第3版から丸善が出版した。編著者のヘボン(ジェームス・カーティス・ヘボン=James Curtis Hepburn=、1815-1911)は医師で、早矢仕有的もヘボンの治療を手伝ったこともあるという。ヘボンは第3版の版権を丸善に譲渡し、出版に至った。当時の丸善は丸家銀行の破綻による再建中であったが、版権買取に踏み切り、ヒット商品に繋げたとしている。
「九鬼隆義宛書簡」は1870年(明治3)年5月、福澤諭吉が腸チフスに掛かり重体となるが、福澤諭吉は摂津三田藩の第13代(最後)の藩主、九鬼隆義(1837-1891)宛の書簡で「醫師はアメリカ人セメンズ(D.B.シモンズ=D.B. Simons、1832-1889)、英人ウエルス(ウィリアム・ウィリス=William Willis、1837-1894)両人を頼み、治療法頗る新奇、日本の醫師伊東玄伯(1832-1898)、石井謙道(1840-1882)、島村鼎甫(ていほ、1830-1881)、隅川宗悦(生没年不詳)此外に横濱の友醫早矢仕有的専ら苦心いたし呉先づ日本では最上の治療」と書いている。
ウイキペディアなどによると、早矢仕有的は1827年9月8日(旧暦天保8年8月9日)美濃国(現岐阜県)武儀郡笹賀村に岩村藩医師・山田柳長(26歳で死去)の子として生まれ、父の死後、同村の名主、早矢仕才兵衛(生没年不詳)の養子となり、大垣、名古屋に出て医学を学び、1854(安政元)年に、郷里の笹賀村に戻り、医院を開業する。
医師としての評判がよく、その才能を評価した笹賀村(中洞村)の庄屋・高折善六(生没年不詳)から江戸に出ることを勧められ、1859(安政6)年に江戸に上り、按摩の仕事で稼ぎつつ医学の修業を続け、1860(万延元)年6月に橘町で開業した。その間、蘭医の坪井信道(1795-1848)に学んだ後、1867(慶應3)年に慶應義塾に入塾して福澤諭吉(1835-1901)らに蘭学、英学を学び貿易に関心を持つ。
明治維新後の1868(明治元)年に横浜黴毒(ばいどく)病院の院長となり、11月10日(新暦12月23日)に「書店丸屋」を開業する。当時は仮店舗程度で、1869(明治2)年1月1日(1869年2月11日で、この旧暦1月1日が後に丸善の創業日とされる)付けで「丸屋商社之記」を制定し、横浜新浜町(現・尾上町)に「書店丸屋(丸屋善八)」を開業した。当初は洋書と薬品医療器の輸入販売を目標として掲げ、同年には相生町に「玉屋薬局」を書店と併設して移転した。また、1871(明治4)年に慶應義塾で共に学んだ医師の松山棟庵(とうあん、1839-1919)とともに横浜の共立病院(後の十全病院)に勤務した。
丸屋商社は元金(もときん)社中(出資者)と働(はたらき)社中(少額出資の従業員)の両者によって構成される近代的会社組織であった。福沢諭吉は当初から元金社中として多額の出資を行い、周囲にも出資を勧め、有望な人物を丸屋に紹介した。1872(明治5)年10月に、後に横浜正金銀行頭取となる豊橋出身で算盤の達人、中村道太(1836-1921)が入社し、共同経営者として西洋簿記法を導入することで合理的な経営をめざした。
1870(明治3)年、東京・日本橋に店舗を開き、1871(明治4)年には東京店(屋号は「丸屋善七」)の隣に唐物店、大阪店(丸屋善蔵)を開業し、1872(明治5)年には京都店(丸屋善吉)を開業した。また、貿易商会としてロシア・ウラジオストク、アメリカ・ニューヨークに支店を、イギリス・ロンドン、フランス・リヨンに出張所を開設した。1873(明治6)年に故郷の恩人である庄屋・高折善六に謝意を表すべく店名を「丸善」に改称した。また、内務省衛生局御用係となり、横浜司薬場設置長となった。
1880(明治13)年3月に「株式会社」とし、「有限責任丸屋商社(その後丸善商社)」となり、1875(明治8)年に早矢仕有的の東京移転後、事実上の本店になっていた東京支店を正式に本店とした。その際に会社定款で書籍、薬品、舶来雑貨の3科を本業とし、裁縫、家具製造の2科を余業とした。また、1880年に福澤諭吉と大隈重信(1838-1922)の間で横浜正金銀行設立の話が出た際、早矢仕有的はその実現に奔走し、中村道太を横浜正金銀行初代頭取に推薦した。
「丸屋商社(丸善)」は輸入書籍や文具を取り扱う大型書店とする一方、1879(明治12)年10月に「丸家銀行」を創設し、金融にも進出した。同年の横浜正金銀行の創立願書には、総代中村道太と共に発起人の一人として名を連ねた。丸家銀行は書店業から顧客の信頼を得、産業振興をめざすも、1884(明治17)年に「松方デフレ」の影響と頭取の近藤孝行(生没年不詳)の乱脈経営によって破綻し、早矢仕有的は再建を目指して丸善社長を辞して銀行頭取に就任するも、結局、再建できず責任を取り退陣した。その後、丸善は文房具、書籍販売の本業に経営の力点を焦点化することで経営を再建した。
早矢仕有的は横浜正金銀行のほかに、慶應義塾門下生が設立した日本最初の生命保険会社、明治生命保険会社設立にも関与し、1871(明治4)年に「細流会社」(保険、積立預金)、1876(明治9)年に「自力社会」(法律業務を行う共済組織)、1880(明治13)年に「貿易商会」の設立に関わり、それまで日本に存在しなかった組織を次々と生み出した。1879(明治12)年から1880(明治13)年にかけて神奈川県の県議会議員も務め、1881(明治14)年の横浜生糸荷預所の設立出願にも加わり、横浜商人の名士の1人でもあった。
「ハヤシライス」については、早矢仕有的の作った牛肉と野菜のごった煮に由来するとする説があり、「丸善百年史」(1980年)ではこの説を掲載している。
3日14時から30分、9日18時から30分ずつ元丸善勤務の原田幸四郎さんが会場内を回遊しながら展示品を解説するギャラリートークを開く。
10日16時から1時間ほど慶應義塾福澤研究センター教授の都倉武之さんが「早矢仕有的と福澤諭吉の間」と題して講演する。「福澤諭吉との邂逅によって早矢仕有的の人生が劇的に変化したのは間違いないが、その生涯は未解明な部分が多い」。福澤諭吉研究の立場から、2人の複雑な関係を考察するとしている。
都倉武之さんは1979年生まれ、2002年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業、2004年に同大学大学院法学研究科政治学専攻修士課程を修了、同年4月に武蔵野学院大学国際コミュニケーション学部助手、講師(2007年9月まで)、2007年3月に慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程単位取得退学、2007年10月に慶應義塾福澤研究センター専任講師、2011年に同センター准教授、その後教授。
11日14時から1時間ほど近代出版研究所所長、慶應義塾大学講師の小林昌樹さんが「本屋、立ち読み、丸善の二階ー江戸から明治へ」と題して講演する。江戸時代から明治・大正期へ至る書店の歴史・読者の歴史とそれに伴う「立ち読み」の歴史を紐解きながら、近代日本の書物文化のひとつの拠点であった「丸善」の成り立ち・エピソードについて語る。
小林昌樹さんは1967年東京都生まれ、1992年に慶應義塾大学文学部を卒業、同年に国立国会図書館に入館、2005年からレファレンス業務に従事し、2021年に退官し、慶應義塾大学でレファレンスサービス論を講じる傍ら、近代出版研究所を設立して同所長に就任。2022年に同研究所から年刊研究誌「近代出版研究」を創刊、同年末に刊行した初の単著「調べる技術」(皓星社)は8刷3万部のベストセラーとなった。専門は図書館史、近代出版史、読書史。
12日14時から約1時間、明治大学専任教授の佐々木聡(さとし)さんと元丸善の原田幸四郎さんが「早矢仕有的と同時代あるいは同郷の創業企業家との接点や共通点を探る」と題して対談する。内容は幕末・維新期に幅広い産業に及ぶ今日の長寿大企業の礎を築いた企業家の多くは、早矢仕有的と同じ天保年間の生まれで、早矢仕の郷里の美濃出身で、長寿企業を創った企業家も多くおり、そうした企業家と早矢仕との関わりや共通項を探るとしている。
佐々木聡さんは1981年学習院大学経済学部経済学科を卒業、1988年に明治大学大学院経営学研究科博士後期課程を修了、同年4月に静岡県立大学経営情報学部助手(1989年に講師、1994年に助教授)1997年に明治大学経営学部助教授、1999年に同教授。
原田幸四郎さんは1945年茨城県生まれ、上智大学法学部落語科を卒業、丸善に入社、洋書の在庫管理や大学・研究者への外商営業などに携わり、退職後は、蔵書している2000冊の書籍をネットで販売している。2020年に「丸善創業者 早矢仕有的の知の環 有的外傳」(喜追書房、2000円)を刊行している。
ギャラリートークも講演会も事前予約制で、希望者は4階ギャラリー受付にて直接予約するか、電話(03-5288-8881)で申し込む。
開場時間は9時から21時(最終日は15時、2日初日は19時閉場)。

