【銀座新聞ニュース=2025年1月31日】書店やレンタル店、フランチャイズ事業などを展開するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(渋谷区南平台町16-17、渋谷ガーデンタワー)グループの銀座蔦屋書店(中央区銀座6-10-1、GINZA SIX、03-3575-7755)は2月1日から12日までイベントスペース「GINZA ATRIUM」で「美の刻印-過去・現在・未来を紡ぐアート展」を開く。
今回は「時」をテーマに、19世紀の印象派やエコール・ド・パリなどのヨーロッパ絵画、日本が誇る近代洋画や日本画、現代美術に至るまで100点以上の美術作品を展示販売する。美術史を形作ってきた過去の巨匠たちの作品から、未来を切り開く現代のアーティストによる作品まで幅広いジャンルを網羅し、油彩画、水彩画、ドローイング、版画など、多彩な表現技法で描かれた作品を出品する。
画廊では「ふだんは銀座 蔦屋書店で現代アートに親しんでいる方々にも気軽に美術史に残る名画を楽しんでいただく機会を提供します。過去ー現在ー未来へとアーティストたちが紡いできた美術史を振り返りながら、アート鑑賞の時間をお楽しみください」としている。
出品される画家はアンリ・ルソー(Henri J.F.Rousseau、1844-1910)、オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir、1841-1919)、カウズ(KAWS)さん(1974年生まれ)、梅原龍三郎(1888-1986)、草間彌生さん(1929年生まれ)。
熊谷守一(1880-1977)、高山辰雄(1912-2007)、篠田桃紅(1913-2021)、バンクシー(Banksy、生年月日未公表)、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso、1881-1973)、藤田嗣治(1886-1968)、ベルナール・ビュッフェ(Bernard Buffet、1928-1999)、マルク・シャガール(Marc Chagall、1887-1985)ら。
ウイキペディアによると、「印象派」は19世紀後半のフランスに発した絵画を中心とした芸術運動で、当時のパリで活動していた画家たちのグループが起源とされている。フランスの保守的な美術界からの激しい批判にさらされながらも、独立した展覧会を連続して開くことで、1870年代から1880年代には突出した存在になった。
19世紀中頃、フランスの美術界は「芸術アカデミー」が支配し、アカデミーは伝統的なフランス絵画のスタンダードを継承していた。歴史的な題材や宗教的なテーマ、肖像画が価値あるものとされ、風景画や静物画は軽んじられた。アカデミーには、その審査員が作品を選ぶ展覧会「サロン・ド・パリ」があり、ここに作品が展示されたアーティストには賞が与えられ、注文が集まり、名声が高まった。審査員の選考基準はアカデミーの価値判断を表わしていた。
1860年代を通じて、サロンの審査会はクロード・モネ(Oscar-Claude Monet、1840-1926)とその友人の作品の約半分を落選とした。従来の様式を順守するアーティストには、この判定は好評であった。1863年にサロンの審査会は、マネ(Edouard Manet、1832-1883)の「草上の昼食」を落選とし、主たる理由は、ピクニックで2人の着衣の男性とともにいる裸の女性を描いたことである。この年の異常に多い数の落選作品は、フランスのアーティストを動揺させた。
1863年の落選作品を観たナポレオン3世(Napoleon Ⅲ、1808-1873)は、人々が自分で作品を判断できるようにすると宣言し、落選展が組織され、落選展には通常のサロンよりも多くの見物客が訪れた。再度の落選展を求めるアーティストたちの請願は、1867年、1872年にも拒否された。
1873年の後半に、モネ、ルノワール(Pierre-Auguste Renoir、1841-1919)らは「画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社」(Societe anonyme des artistes peintres、sculpteurs et graveurs)を組織し、自分たちの作品の独自の展覧会を企画した。計30人のアーティストが、1874年4月に写真家ナダール(Nadar、1820-1910)のスタジオで開かれた最初の展覧会に出展した。
展覧会は、後に第1回印象派展と呼ばれるようになるが、当時、展覧会は社会にまったく受け入れられず、批判的な反応がいろいろあった。評論家で喜劇作家のルイ・ルロワ(Louis Leroy、1812-1885)は風刺新聞「ル・シャリヴァリ(Le Charivari)」に酷評を書き、その中ではモネの絵の「印象・日の出」というタイトルにかこつけて、この画家たちを「印象派」と呼び、このグループはこの名で知られるようになった。
嘲笑の意味も含めて「印象派の展覧会」とタイトルをつけた記事で、ルロワはモネの絵画はせいぜいスケッチであり、完成した作品とは言えないと断じた。ところが、「印象派」という言葉は人々からは好感をもって迎えられ、アーティストたち自身もこの言葉を受け入れた。スタイルや気性は異なるアーティスト同士も、独立と反抗の精神でまず合流し、メンバーはときどき入れ替わったが、1874年から1886年まで全8回の展覧会を開いた。自由で気ままな筆使いの印象派のスタイルは、モダンライフの同義語になった。
印象派の絵画の特徴としては、小さく薄い場合であっても目に見える筆のストローク、戸外制作、空間と時間による光の質の変化の正確な描写、描く対象の日常性、人間の知覚や体験に欠かせない要素としての動きの包摂、斬新な描画アングル、などがあげられる。
「エコール・ド・パリ(パリ派)」は20世紀前半、各地からパリのモンマルトルやモンパルナスに集まり、ボヘミアン的な生活をしていた画家たちをさす。厳密な定義ではないが、1920年代を中心にパリで活動し、出身国も画風もさまざまな画家たちを総称した表現で、1928年にパリのある画廊で開かれた「エコール・ド・パリ展」が語源といわれている。
印象派のようにグループ展を開いたり、キュビスムのようにある芸術理論を掲げて制作したわけではなく、「パリ派」とはいっても、一般に言う「流派」や「画派」ではない。狭義のエコール・ド・パリは、パリのセーヌ川左岸のモンパルナス(詩人の山)につくられた共同アトリエ「ラ・リューシュ(蜂の巣)」に集った画家たちをさす。
一方、セーヌ河右岸のモンマルトルには、ピカソが住んでいた「バトー・ラヴォワール(洗濯船)」があり、キュビスムの画家が多かった。狭義のエコール・ド・パリはキュビスムなどの理論に収まらない画家のことで、広義のエコール・ド・パリは、キュビストも含めてこの時代のパリで活躍した外国人画家(異邦人的なフランス人画家も含む)すべてをさす。
国籍は違えども、ユダヤ系の画家が多く、「エコール・ド・ジュイフ(ユダヤ人派)」と呼ばれることもある。
1月31日18時30分から19時までアートプロデュース、コンサルティングなどの事業を手掛ける藤原羽田合同会社代表の藤原さゆりさんをモデレーターに、協同組合美術商交友会の理事長で、ぎゃらりい秋華洞(中央区銀座6-4-8、曽根ビル、03-3569-3620)の田中千秋さん、常務理事で画廊鉄樹(中央区銀座7-12-4、銀座ウェイフェアビル、03-6264-7900)の小倉健一さんによる「美術商が伝えるアートの買い方」をテーマにしたトークイベントを開き、アートの買い方、楽しみ方について語る。
協同組合美術商交友会は2003年10月に国の認可団体として事業協同組合設立を認可され、12月に第1回交換会 (会員制ディーラーズオークション) を開いている。設立発起人は京橋画廊(中央区京橋3-9-4、新京橋ビル、03-5524-5470)の居原田健さん、蔵丘洞(ぞうきょうどう)画廊(京都府京都市中京区御池通河原町西入ル、ホテル本能寺、075-255-2232)の岡眞純さん、柳ケ瀬画廊(岐阜県岐阜市柳ケ瀬通3-21、058-262-3481)の市川博一さん、銀座柳画廊(中央区銀座5-1-7、数寄屋橋ビル、03-3573-7075)の野呂好彦さん、ギャラリー野田(愛知県名古屋市中区栄3-32-9、アークロック栄ビル、052-264-9336)の野田雄二(ギャラリー野田) の5人。
現在、会員画廊は69画廊で、毎月13日頃にコートヤード・マリオット銀座東武ホテルにて交換会を開いている。
開場時間は11時から20時(最終日は18時)。2月1日11時から販売する。オンラインでは販売しない。トークショーは事前の申し込み不要で、参加は自由。