【銀座新聞ニュース=2025年11月13日】ナカジマアート(中央区銀座5-5-9、アベビル、03-3574-6008)は11月13日から26日まで「堀文子の仕事 イタリア・トスカーナ」を開いている。
ナカジマアートは1997年(堀文子78歳)から2016年(同98歳)まで毎年「堀文子 現在(いま)」展を開いており、今も「堀文子の仕事」をテーマに、秋に堀文子展を開いている。
画廊によると、1987年3月に68歳の堀文子はイタリア・トスカーナ地方、アレッツォ郊外にアトリエを構えた。当時の日本はバブル経済の最中で、浮かれた風潮に背を向け、堀文子が拠点に選んだのは、観光化とは無縁の田園地帯にある貴族所有のヴィラだった。初めて目にしたトスカーナ地方の村や城、糸杉の道、中世の面影を残す美しい田園は、どこを切り取っても絵画のように映り、堀文子は心を奪われた。
以後、日本とイタリアを行き来しながら、1年の半分を当地で過ごし、ぶどう畑やオリーブの丘に腰を下ろし、ひとりスケッチに没頭し、後に堀文子は、この時の心情を「無垢の感動を取り戻すことができた」と語っている。
1992年には、ルネサンスの巨匠ピエロ・デッラ・フランチェスカ(Piero della Francesca、1412-1492)没後500年を記念し、アレッツォ市(Arezzo)に招聘され、「堀文子日本画展」が開かれた。今回は堀文子がイタリアで過ごした5年間に描いたスケッチや日本画、水彩画約20点を展示している。
ウイキペディアと一般財団法人「堀文子記念館」(代表理事・黒柳徹子さん)によると、堀文子は1918年東京都千代田区麹町生まれ、1940年に女子美術専門学校師範科日本画部(現女子美術大学芸術学部美術学科日本画専攻)を卒業、府立第五高等女学校(現都立富士高等学校)時代に自宅近くで「二・二六事件」(1936年)に遭遇、在学中の1939年に第2回新美術人協会展で入選、1952年に第2回上村松園賞を受賞した。
1946年に28歳で外交官の箕輪三郎(?-1960)と結婚するも、1960年に42歳の時に死別、夫の死後、1961年から1964年にかけ世界放浪の旅へ出て、エジプト、ギリシャ、ヨーロッパ、アメリカ、メキシコを旅し、旅の中でアンフォルメル、シュルレアリスムの影響を離れ、日本画の持つ色彩や顔料の美しさに回帰する。1967年に神奈川県大磯に転居、1972年に絵本「くるみ割り人形」で第9回国際絵本原画展のグラフィック賞、1974年に「創画会」の結成に参画、同年、多摩美術大学日本画科教授、その後、多摩美術大学客員教授として1999年まで日本画を指導した。
1981年に軽井沢にアトリエを構え、1987年にバブル期真っ只中の日本から逃れようとイタリア・アレッツォにアトリエを構え(1992年まで日本とイタリアを往来)、同年に第36回神奈川文化賞、1992年にアレッツオ市(Arezzo)でイタリアルネッサンスを代表する画家、ピエロ・デッラ・フランチェスカ(Piero della Francesca、1412-1492)没後500年記念で「堀文子日本画展」を開催、1995年にアマゾン川、マヤ遺跡、インカ遺跡へスケッチ旅行、1999年に創画会を退会した。
2000年に82歳の時に幻の高山植物ブルーポピーを求め、ヒマラヤ山脈の高地を踏破し、「幻の花 ブルーポピー」を発表、2001年に解離性動脈瘤で倒れ、以降、長期間の取材旅行に出かけられなくなり、微生物に着目し、海中に生きる命をモチーフとする「極微の宇宙」を発表する。晩年のテーマは、動植物のみならず古代文化の意匠など多岐に及ぶ。それらは「自然・歴史」への畏敬と命あるものに注がれる温かい眼差しを通して、堀文子独自の表現世界へと生まれ変わる。一つの場所に安住せず、絶えず新しい感動を求めて旅をし、居を変える「一所不住」を自身の信条としていた。
庭の片隅に咲く雑草達を「名もなきもの」というテーマにし、主役にはならないが逞しく生きる小さな生命を讃え、その姿を表舞台に残そうと制作を続けた。2011年に女子美術大学より名誉博士の称号を取得、2014年に福島空港旅客ターミナルビル陶板レリーフ「ユートピア」を完成、2016年と2018年にナカジマアートで個展、2019年2月5日に100歳で没。
会場では、1992年にピエロ・デッラ・フランチェスカ没後500年を記念して「堀文子日本画展」が開かれ、アレッツォ市が堀文子の作家活動に敬意を表し、特別に企画した展覧会で、その時にイタリアで作成されたポスターを税込1万1000円で数量限定にて特別販売する。ポスターの売上金の一部は、一般財団法人「堀文子記念館」の運営に活用される。
開場時間は11時から18時30分、会期中は無休。入場は無料。

