椅子と骨(短編小説編5)

【モハンティ三智江のフィクションワールド=2024年2月13日】彼は私と何とかコンタクトを取ろうと努めていた。訃報から3日後、泣き疲れてうとうと浅いまどろみに落ちたとき、世外の存在とのコンタクトがもたらされた。

大きな黒い手が、私の一回り小さい手をきつく引っ張り、強い意志を持ってどこかへ連れ去ろうとしたのだ。私はその瞬間、はっと目覚め、幻影は消えたが、あの手は彼にちがいないと思い、もし目覚めなかったら、あの世に行っていたということだろうかと、覚めてしまったことが口惜しくてならなかった。

あのまま引かれるままに、彼岸に行きたかった、彼と同じ世界に旅発ちたかったと、じれた。一瞬後にこの世に戻ってきてしまったこと、こちらの現実世界にはもう彼はいないのだと思うと、涙が止まらずぼろぼろ流れた

次にシグナルが来たとき、彼はか細い声で、「クリケット」と呟いた。最初のときの手だけと同様、全体は現れず、声だけだった。私は、自分がこんなに悲しんでいるのに、クリケットとは何事かと、憤然とし、彼のあまりの呑気さ、死んだのにあっけらかんとしている様に驚き呆れた。

が、あとで調べると、本国ではちょうどクリケット対抗試合が催されていたのだ。仮想敵国でもある隣国との世紀の決戦を彼が観たがり、勝敗を知りたかったのだとわかり、無料アプリのメッセージで結果を知らせた。

本人がこの世から消えて2度と使われなくなったメッセージアプリから返事が来るとは到底思えなかったが、数日後、奇跡に遭遇する。彼からの不在コールが届いたのだ。やはり、生きていると小躍り、驚喜し、どうしたら彼とチャネリングができるだろうかと、関連動画をチェックし、やり方をかじったりした。

が、以後目覚ましいコンタクトはなく、ワクワクと小躍りした死後の世界からのコールも後日、彼の携帯が甥の家族に渡っていたことがわかり、子どもがうっかり間違えて発信した可能性も出てきて、私をいたく落胆させた。

自国では、何とか睡眠薬なしで、短時間の浅いまどろみに落ちていた私も、移住地に戻ると睡眠薬なしでは眠れなくなった。クスリで強いたどろりと酔った睡魔の中で、彼は顔形が歪んだ、ぞっとするようないびつな面相で現れた。

あるいは、現れても、横たわったまま決して目を開けようとしなかった。一度、私が瞑目したまま仰向けに寝ている彼の体を激しく揺さぶりながら、死なないで、死んじゃ嫌だと悲痛な叫び声をあげたとき、彼のつむったままのまぶたからすーっと透明なしずくがこぼれ落ちた。

私は後にも先にも、あれほどにも美しく浄らかな涙を見たことがない。目覚めたあとも、私はぼうーっとしていた。そして、彼は本当に死にたくなかったのだとわかった。

切ない夢だった。珠玉のような涙の粒を私は一生、忘れないだろう。透き通った玉には、私に対するピュアな愛情が込められていた。初期の歪んだイメージから救われるような、心洗われるコンタクトで、私はカタルシスを覚えた。

彼と一緒に旅している夢もよく見た。私は傍らに肉体をもった完璧な彼がいることに、あぁ、よかった、生きている、とほっと安堵している。元気で変わりない彼と旅できることがうれしくてたまらない。

が、どこかの駅のだだっ広い構内で、私は急に尿意を催し、ちょっとトイレに行ってくるねと言い置いて、なんの不審も抱かず、私を送り出す彼をその場に残して走り去る、そこで目が覚めて悔やむのだ。

駅でいつまでたってもトイレから帰ってこない私を、途方に暮れて待ちわびる伴侶の侘しい立ち姿を思い浮かべ、切なくなる。もう一度、あの夢の中の駅に戻りたいと切望するが、現実に目覚めてしまった私には、どうすることもできない。

どうあってもあそこに舞い戻り、夢の続きを見ることは不可能なのだ。でも、彼が完全な形で夢の中に現れ、旅に同行、そのたびに私はほっと安堵し、彼がちゃんと生きていることがうれしくてならず、安心感に浸される。

旅だけではない。2階の寝室や1階のソファーに死んだはずの彼が生前そのままの姿でいると、私は心底安堵し、よかった、生きていると胸を撫で下ろすのであった。

夢から覚めると、彼の不在の現実、死に立ち向かわねばならなかったが、夢のひとときでも彼が生きて私に安心感を与えてくれることは、癒しであり束の間の慰藉(いしゃ)だった。彼がちゃんとそばにいてくれて、私はいつもの私らしい私、伸び伸びと放縦なチャイルドウーマンでいられるのだ。彼は私がありのままでいられる、一緒にいてとても楽な、貴重な唯一の存在だった。

ある夜は、彼が私の眠るベッドの傍らに忍び込み、ブランケットを奪おうとしたこともあった。半睡状態で悪寒を覚えた私が毛布を奪い返そうとする、夫婦でひとつの毛布を取り合うという他愛もない夢だったが、生前の私たちの夫婦関係を象徴しているようで、悔恨に胸が痛んだ。

息子の夢にも彼は何度か現れた。土地を売るなと警告したり、遺族がゲストハウスを放任していると叱りつけることもあった。某夜、夢に現れた父に、息子が感極まって死なないでと懇願すると、憮然とした顔で立ち去ったという。

息子は、なぜ父が怒ったのだろうと気にしていたが、私にはすぐわかった。彼だって、死にたくなかったのだ。どうしようもない運命、天寿に逆らえなかっただけのことだ。あまりにも突然すぎる死に方だった。

本人も意図せずに、一瞬で天に命を奪われたのだ。人は、苦しまずに逝けてよかったというが、本人にとっては、なんの前触れもない突然降りかかった死で、準備ができていなかっただけに、肉体が奪われたあとのパニック、理不尽さ、口惜しさには、測り知れないものがあったろう。

(「フィクションワールド」はモハンティ三智江さんがインドで隔離生活を送る中、創作活動にも広げている続きで、「インドからの帰国記」とは別に、短編など小説に限定して掲載します。本人の希望で画像は使いません)