【銀座新聞ニュース=2025年7月11日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・丸の内本店(千代田区丸の内1-6-4、丸の内オアゾ内、03-5288-8881)は7月12日まから8月1日まで3階児童書売り場壁面ギャラリーで、たてのひろしさんと近藤えりさんによる「うさぎのしま」原画展を開く。
絵本作家のたてのひろし(舘野鴻)さんと絵本作家でイラストレーターの近藤えりさんが6月12日に「うさぎのしま」(世界文化社、税込1980円)を刊行したのを記念して原画展を開く。
「うさぎのしま」はかつて毒ガスを製造し、「地図から消された島」とされた広島県・大久野島(おおくのじま)について取り上げている「過去と未来を結ぶ、忘れてはならない物語」であり、出版社は「『うさぎのしま』に眠る、知られざる真実。戦後80年によせて、今、子どもたちに届けたい物語」としている。
広島県大久野島で暮らす、たくさんのうさぎたち。この島には、第2次世界大戦中、毒ガスの実験動物として、うさぎが使われていた過去があった。戦争の記憶と島の環境問題が交差する。巻末には、解説「地図から消された島-大久野島と戦争とうさぎ」(“大久野島のうさぎはどこから来たのか”執筆/兼子伸吾・福島大学共生システム理工学類教授)と、あとがきを掲載している。
物語は「うさぎのしま」として親しまれるこの島で、一組の親子が白いうさぎに出会う。「あの子のおかあさんも、白い?」という何気ない一言が、封印された過去を呼び覚ます。
時は、第2次世界大戦。防毒マスクに身を包み、毒ガスを製造する人々。手渡されるかごの中には……。かつてこの島は、「地図から消された島」だった。無垢な存在が、浮かび上がらせる戦争の記憶と、現代の環境問題。過去と向き合い、未来を考える。忘れてはならない「記憶」の物語。
ウイキペディアによると、大久野島は瀬戸内海芸予諸島の一つであり、広島県竹原市に属する無人島(定住者なし、居住者あり)で、「ウサギの島」や「毒ガスの島」として知られる。面積は0.7平方キロメートルで、周囲4.3キロメートル、ほぼ全島域が環境省所有の国有地であり、一般財団法人休暇村協会が運営する「休暇村大久野島」や「毒ガス資料館」や「大久野島ビジターセンター」などがある。
2010年時点で人口は22人で、民家はなく、全員が休暇村の従業員。島内への一般車両は通行不可で、携帯電話・Wi-Fi(休暇村ホテル内のみ)の情報ネットワーク網は構築されている。上水道は本州と繋がっておらず、島外から船で運ばれている。人口・定期便航行距離および寄港回数から離島振興法未指定離島となっている。
昭和初期に国内で2カ所、大日本帝国陸軍では唯一の毒ガス製造工場があった島で、現在では「ウサギの島」として知られ、2025年時点で約500匹の野生のウサギが生息し、年間で約20万人の観光客が訪れる。
最初に近代的施設が建てられたのは、逓信省大久野島灯台で、四国と大島に挟まれた来島海峡は海の難所であったため、それを避けるよう副航路として北側を大きく迂回する三原瀬戸航路が用いられ、大久野島灯台はその航路上に置かれた9つの灯台のうちの一つで、1894(明治27)年5月に点灯した。現在の灯台は2代目。
その次にできたのが陸軍の大久野島砲台(芸予要塞)で、明治初期、瀬戸内海から京阪へのヨーロッパ列強の艦船の侵攻に備えるため、狭隘部である紀淡海峡、鳴門海峡、豊予海峡、下関海峡に沿岸要塞砲台を置くことになった。豊予だけは当時の要塞砲(海岸砲)の最大射程より海峡幅の方が広かったため、別案として立てられたのが芸予要塞である。
計画自体は1873(明治6)年の「海岸防禦法案」から始まったもので、最終的に忠海海峡のこの島と来島海峡の小島の2つに決定したのは日清戦争後の1897(明治30)年で、芸予要塞のすべての工事が1902(明治35)年に竣工した。資料によっては、日露戦争に向けて対ロシア海軍用に急ピッチで造られたと言われている。
国防方針変更、要塞砲射程の向上、第1次世界大戦(1914年7月28日から1918年11月11日)で航空機が登場したことにより、既存要塞の整理が行われて、新たに豊予要塞ができ、1924(大正13)年に芸予要塞は一度も用いられないまま廃止となった。施設はのち毒ガス保管所など改築されたものも含め、遺構として現在も残る。
明治・大正時代から芸予要塞司令部による検閲が入っており、地図では要塞秘匿のため来島海峡からこの島付近一帯まで赤く塗り潰されていた。1932(昭和7)年時点で軍事極秘の理由は「呉要塞近傍」であるが、呉要塞とは陸軍広島湾要塞の旧称で、この時点では廃止され、海軍呉鎮守府に移管されていることから海軍も検閲していたことになる。
大久野島では、1929(昭和4)年から1945(昭和20)年まで、大東亜戦争で使用するための毒性のガスが大日本帝国陸軍によって秘密裏に製造されていた。この時代まで島内には民家7戸・住人数十人がおり、農耕を営んでいたが、毒ガス製造が始まった時に強制退去となった。
作られていた毒ガスの種類は血液剤、催涙剤、びらん剤(化学兵器の一つであり、皮膚、気道、眼球などを爛れさせる効果を持つ)、嘔吐剤の4種で、戦争末期には風船爆弾の風船部分も作られていた。毒ガスやそれに関する機器は終戦直後、旧日本軍が証拠隠滅を図り海洋投棄し、その後、進駐軍が島全体を接収し、海洋投棄・埋設・焼夷剤で焼却するなどの無毒化処理が施された。
朝鮮戦争(1950年6月25日から1953年7月27日)が始まると再びアメリカ軍が接収し、島内の建物を弾薬庫として用いた。アメリカ軍は1950年から1955年まで接収し、後にほぼ全島域を大蔵省(現財務省)、灯台付近のみ運輸省(現国土交通省)が所管することになる。島内では、施設放棄から半世紀以上経った現在でも内部が空になった巨大なコンクリート製の毒ガス施設は残されており、いくつかが立入禁止区域に指定されている。
1960年に厚生省(当時)と広島県は大久野島への国民休暇村整備を公表し、1961年に財団法人「国民休暇村協会」が設立され、協会により建設は進み、島の99.7%、灯台以外の土地遺構は厚生省所管となり、1963年7月開場した。総事業費は7億7300万円(当時)。1971年に環境庁(現環境省)が設置されると、国民休暇村は厚生省から環境庁に移管され、2001年に国民休暇村は現在の「休暇村大久野島」に改称し、宿泊施設(1991年開業)、「ウサギ島大久野島キャンプ場」と「大久野島海水浴場」のほか、プール、テニスコート、芝生広場がある。
たてのひろしさんは1968年神奈川県横浜市生まれ、幼少期に近所に住んでいた絵本画家の熊田千佳慕(ちかぼ、1911-2009)の家へ絵を習いに行っていた母に連れられて通ううち、交流を深める。1986年に札幌学院大学に入学するも、野生生物の観察を行いながら、演劇や舞踏、音楽活動を行い、中退後は舞台美術、報道カメラマンの助手、 生花店などの仕事をしながら音楽活動や 生物観察を続け、1992年に横浜に戻り、土木作業員、 配送業の仕事をしながら現代美術に触れる。
1994年に熊田千佳慕に神奈川県立生命の星・地球博物館名誉館員の高桑正敏(1947-2016)を紹介され、高桑正敏に「アジア航測」を紹介され、同社で生物調査のアルバイトを始め、その後、現地調査の傍ら、同社が調査・編集する書籍類・報告書などで、生物画を始めとする各種イラストを手がける。2000年にアマチュアの昆虫研究家から、学研で図鑑に掲載する標本画、生態画、解剖図プレートの仕事を紹介され、2002年に初めての図鑑の仕事「原色ワイド図鑑 昆虫I・Ⅱ」が出版される。
その後、「学研の科学」でも解剖図を手掛け、監修の研究者が納得する絵を求めて、自分の手で観察対象の解剖を繰り返し、詳細に描き、この経験が、学術的事実に忠実な画風を生み出す背景となった。この後、「学研わくわく観察図鑑」シリーズで「ザリガニ」(2005年)、「メダカ」(2006年)が相次いで刊行された。学研の編集長に写真家・久保秀一さん(1941年生まれ)を紹介され、久保秀一さんから偕成社で絵本を出版することを勧められる。
偕成社の編集者から3作のシリーズを提案され、「しでむし」と「たかねひかげ」と「つちはんみょう」を企画した。当時は写真技術の向上により、リアルイラストの需要が大幅に減って、廃業も考え、辺境の虫を主役に絵本をかこうと構想し、熊田千佳慕に相談し、永野昌博博士の論文を手渡され、その論文が決定的なきっかけとなり、絵本「しでむし」の制作を始める。
2009年に初の絵本作品「しでむし」(偕成社)を出版、3月には新潟県十日町市立里山科学館で「絵本しでむし原画展」を開催、同市の松之山がギフチョウの多産地であることから、永野昌博さんから当地での取材を勧められ、5月より取材を開始した。一方で出版後、ノイローゼ状態になるが、その最中、世界文化社「ワンダーブック」での春の景観図を依頼される。「ぎふちょう」は2012年に、「つちはんみょう」は2016年にそれぞれ刊行され、「つちはんみょう」は2017年に第66回小学館児童出版文化賞を受賞した。
この絵本制作の副産物として、学会でも明らかになっていなかったヒメツチハンミョウの生態を観察から2015年に解明し、2016年に雑誌「月刊むし」(むし社)に「ヒメツチハンミョウの生態」と題した報告を2度に分けて寄稿した。この間の2010年、仕事の舞台だった「学研の科学」が休刊となる。
2021年に世界最大規模の絵本原画コンクールBIB(ブラチスラバ世界絵本原画展)の国内選考会で「がろあむし」(2020年、岩波書店)が選出され、2023年に「ねことことり」で第28回日本絵本賞、2024年に「どんぐり」で第29回日本絵本賞を受賞した。
近藤えりさんは1972年神奈川県生まれ、東洋美術学校でグラフィックデザインを学び、2000年ごろから保育雑誌、書籍などのイラストを描き始め、舘野鴻さんに師事しており、2022年に「なきごえが じまんの きつね」(仏教伝道協会)で「こころの絵本大賞」を受賞している。
絵本作品に「なんにだって なれる ぼく」(2014年)、「おかあさん おかあさん」(至光社こどものせかい)、2020年9月に「コロナウイルスのころなっちとぼく」、2022年4月に『ワクチンくんと いっしょ」(チャイルド社)などがある。絵描き教室「パステルランド」を主宰している。
開場時間は9時から21時(最終日は19時)。
