永谷商事、神田こなぎと「丸の内」を散歩

【銀座新聞ニュース=2019年1月29日】不動産会社で、都心で寄席を経営する永谷商事(武蔵野市吉祥寺本町1-20-1、0422-21-1796)が運営する「お江戸日本橋亭」(中央区日本橋本町3-1-6、日本橋永谷ビル1階、03-3245-1278)は2月5日に神田こなぎさんによる「講談師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」を開く。

2月5日に「講談師と歩く歴史と文化の散歩ラリー」で「歴史的建築物 東京駅周辺ぐるっと散歩」で丸の内を歩く神田こなぎさん。

永谷商事が毎月1回から2回程度、定期的に開いている「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩ラリー」シリーズのひとつで、講談師が名所旧跡などを解説しながら一緒に歩いて回る企画で、その後、お江戸日本橋亭で寄席を鑑賞する。

今回は二ツ目の講談師、神田(かんだ)こなぎさんが「歴史的建築物 東京駅周辺ぐるっと散歩」と題して、JR東京駅からJPタワー「キッテ(KITTE)」(千代田区丸の内2-7-2)から行幸通り、丸の内仲通り、「明治生命館(外観)」(千代田区丸の内2-1-1)、「三菱一号館美術館(外観)」(千代田区丸の内2-6-2、03-5777-8600)、「東京国際フォーラム(外観)」(千代田区丸の内3-5-1、03-5221-9000)を歩いて、昼前にお江戸日本橋亭に移動して、午後から「日本橋お江戸寄席」を鑑賞する。

JPタワー「キッテ(KITTE)」は郵便局株式会社(現日本郵便)とJR東日本、三菱地所の共同事業により、2012年5月31日に竣工し、7月17日に開業した旧東京中央郵便局敷地に建設された超高層ビルで、建築物としては、旧東京中央郵便局舎を一部保存した低層棟商業施設「キッテ(KITTE)」と最高軒高200メートルの高層棟から構成され、旧東京中央郵便局の保存部分は免震構造で構造躯体を保存している。

敷地面積が1万1600平方メートル(3509坪)で、地下4階・地上38階建て、高さ200mで、延床面積が21万2000平方メートル(6万4130坪)。設計は三菱地所設計、施工が大成建設、管理運営は三菱地所プロパティマネジメント、JPビルマネジメントが行っている。

高層棟には日射遮蔽ルーバー(ひさし)と高性能遮熱断熱ガラス(Low-Eガラス)によるエアフローウィンドを採用し、床から天井まで1枚ガラスの窓(フルハイト窓)を設置しており、事務所フロアではLED照明器具の全面採用と明るさセンサーによる照明制御、自然換気窓および外気冷房の採用により、高い快適性と環境負荷低減を両立している。これらにより、東京都環境局が開いた東京都環境建築フォーラムで「東京の低炭素ビルTOP30」に選定されている。

本来の容積率は1300%だが、建築基準法第57条の2(特例容積率適用地区内における建築物の容積率の特例)により、東京駅丸の内駅舎の容積を移転して、特例容積率1520%が適用されている。

旧東京中央郵便局舎は前身である「四日市郵便役所」が1871(明治4)年の日本の近代郵便制度発足時に、大阪郵便役所、西京郵便役所(京都)と共に設けられた日本最初の郵便役所のひとつで、大阪中央郵便局とともに日本初の中央郵便局でもある(四日市郵便役所の跡地には現在は日本橋郵便局がある)。日本国内に存在する全郵便局の中枢であり、局長は現場の最高職となっている。

1933(昭和8)年から、局舎建て替えの一時期を除いて東京駅の丸の内駅舎南口前に立地している。局舎完成前の1915(大正4)年には局舎と駅舎との間を結ぶ地下通路が開通しており、ここを通じて鉄道郵便物のトロッコ輸送が行われていた。トロッコ軌道は1941(昭和16)年に廃止・撤去されたが、以後も地下通路は局・駅間の郵便物搬送に使用され、三輪式の郵便物積載台車を蓄電池式牽引車(後のターレットトラクターに類する用途のもの)で牽引して運搬する方法が採られた。この地下通路は、東京駅での鉄道郵便受渡しの終了により1978年に廃止されたが、東京駅構内部分の地下通路は現在も利用されている。

旧局舎は1933(昭和8)年より2008年まで使用され、逓信省営繕課の吉田鉄郎(よしだ・てつろう)が設計し、銭高組と大倉土木(現大成建設)が施工した鉄骨鉄筋コンクリート造で、1933年12月25日に竣工した。

「行幸通り」はウイキペディアによると、「東京都道404号皇居前東京停車場線」が正式名称で、皇居前の和田倉門交差点から東京駅前の東京駅中央口交差点までを結ぶ特例都道で、路線延長が930メートル。帝都復興院の関東大震災後の震災復興再開発事業の一環として、皇居の和田倉門から東京駅に通じる幅員73メートルの東京市を代表する広規格道路道路として建設された。

当初は道路中央から高速車線、イチョウ並木、緩速車線、歩道の配置だったが、その後、中央車線は天皇の行幸と信任状捧呈式に向かう外国大使の送迎の車馬が通行する時にのみ使用される専用道となり一般車の通行は禁止された。その後、中央車線は再整備され、 2010年4月12日に歩道兼馬車道として交通開放された。ただし、行幸や信任状捧呈の車馬が通行する時のみは専用道として一般歩行者の通行が制限される。天皇が行幸するために利用する道路として、行幸通りとも呼ばれている。

「丸の内仲通り」は大正初期に整備され、三菱村のオフィス街として赤煉瓦建築が軒を連ねている。晴海通りから永代通りまでを結び、日比谷通りに並行しているが、晴海通りから行幸通りまでは北方向への一方通行となり、現在では行幸通りの中が廃道となり通り抜けられなくなっている。通りの両側に街路樹が施され、冬にはイルミネーションされる。沿道には三菱グループ各社のビルが立ち並び、「三菱村」と称されている。通りの幅が21メートル、ビルの高さが31メートルになっている。

明治生命館は1928(昭和3)年に当時の三菱第2号館に隣接して、新社屋を建設することが決まり、指名コンペ方式で岡田信一郎(おかだ・しんいちろう、1883-1932)の案が採用された。岡田信一郎の考えによって、旧社屋も取り壊しての建設となり、1930(昭和5)年9月に起工し、1934(昭和9)年3月31日に竣工した。設計は岡田信一郎と弟の岡田捷五郎(おかだ・しょうごろう、1894-1976)兄弟、構造設計が内藤多仲(ないとう・たちゅう、1886-1970)。重要文化財として「明治生命保険相互会社本社本館」で指定されている。

大東亜戦争後は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収され、アメリカ極東空軍司令部として使用され、対日理事会の第1回会議は明治生命館2階の会議室で行われた。1956年にアメリカ軍から返還され、1997年に昭和の建造物として初めて重要文化財に指定された。2001年から改修工事が行われ、隣接地に30階建ての明治安田生命ビルを建設して一体的に利用することで、歴史的建造物を活用しながらの全面保存が実現した。現在も明治安田生命保険の本社屋として現役利用されており、1階には同社の「丸の内お客様ご相談センター」が設けられている。

各国が日本へ派遣した特命全権大使、特命全権公使が天皇に対して信任状を提出する信任状捧呈式の際には、東京駅丸の内口から馬車か車で皇居内の宮殿まで移動する慣例となっているが、東京駅の改装などにより、2007年4月以降は明治生命館から出発していた。2017年に東京駅前の工事が完成したことにより、同年12月11日の駐日ベナン大使の信任状捧呈から、再び東京駅前からの出発に戻っている。

三菱一号館美術館は三菱地所が運営する企業博物館で、同館の建物は丸の内最初の洋風貸事務所建築として明治時代の1894(明治27)年に建てられた(旧)三菱一号館(1968年に解体)を同社が2009年にレプリカ再建した。

1918年に「東9号館」と改称されている。英国の建築家で、三菱の建築顧問だったジョサイア・コンドル(Josiah Conder、1852-1920)が英国クイーンアン様式の外観を持つ煉瓦造の建築物として設計され、建設工事には曽祢達蔵(そね・たつぞう、1853-1937)現場主任があたり、直営工事による施工がなされた。

竣工当初においては、三菱合資会社本社、第百十九国立銀行(後の三菱合資会社銀行部、現三菱UFJ銀行)本店、高田商会が設けられたほか、貸事務所として坪1円から1円50銭で貸し出されたとされる。このほか、郵便局「丸ノ内郵便電信局」が1902(明治35)年11月より三菱合資会社の無償提供で本建物内一室に設けられていた。

耐震性に難のある煉瓦建築は関東大震災(1923年)で甚大な被害を被り、耐震性や土地の利用効率に優れる明治生命館などの合理的なアメリカ式オフィスビルへの建て替えも進み、高度経済成長の1959年にスタートした三菱地所による再開発事業「丸ノ内総合改造計画」により、赤煉瓦街は急速に姿を消していった。

1960年代後半になると、「東9号館」は「一丁倫敦」の面影を残す数少ない建物となっていた。特に同館は東京の近代的都市計画の出発点、近代的事務所建築の第1号として歴史的価値があり、当初の形をよく保存した明治時代の洋風建築として文化的価値も高く、研究者の間では日本銀行本店、旧赤坂離宮(迎賓館)と並ぶ「明治の三大建築物」に挙げられていた。

1967年9月に文部省文化財保護委員会は三菱地所に対し「東9号館」の文化財指定の申し入れを行い、三菱地所は無断で取り壊すことはしない旨を示したため、文化財指定は見送られた。しかし、三菱地所は1968年3月21日に解体工事を開始する旨、文化財保護委員会宛てに通告した後、同年3月22日夜間に足場を架設し、3月23日を選んで解体工事を強行した。1971年に跡地には地下4階、地上15階建の「三菱商事ビルヂング」が竣工した。

2004年に三菱地所は「丸の内再構築」の第2ステージ第1弾として、「丸ノ内八重洲ビルヂング」(1928年竣工)、「古河ビルヂング」(1965年竣工)、「三菱商事ビルヂング」(1971年竣工)3棟の区画を再開発し、その一角に超高層ビル(丸の内パークビルディング)の建設とあわせて三菱一号館をレプリカ再建する「三菱商事ビル・古河ビル・丸ノ内八重洲ビル建替計画」を発表した。

2006年に3棟の解体工事が開始され、丸の内パークビルディングが2007年2月5日に着工され、同年10月に三菱一号館を着工、2009年4月30日に「丸ノ内八重洲ビルヂング」の外壁保存部分を持つ丸の内パークビルディングとともに竣工した。その後、三菱地所運営の企業博物館「三菱一号館美術館」は竣工記念展などが催された後、2010年4月6日に正式開館した。

東京国際フォーラムは旧東京都庁舎跡地の再開発として1992年10月に着工され、1996年5月に竣工し、1997年1月10日に開館された国際コンベンションセンターだ。中心となる設計は国際コンペの結果、ウルグアイ・モンテビデオ生まれ、アメリカ・ニューヨーク在住の建築家、ラファエル・ヴィニオリ・ベセイロ(Rafael Vinoly Beceiro)さんに決まり(ラファエル・ヴィニオリ建築士事務所)、株式会社椎名政夫(しいな・まさお)建築設計事務所、株式会社現代建築研究所との共同設計の形をとり、ガラスの吹き抜けホール(ガラス棟)は「船」を題材にし、その巨大な外観と共に、構造を露出した内部が象徴となっている。

土地は2万7000平方メートル、建物が地上11階、地下3階で、延べ床面積が14万5000平方メートル。総工費は用地費を除いて1647億円。7つのホール、展示ホール、33の会議室、店、レストラン、相田みつを美術館、太田道灌(おおた・どうかん、1432-1486)の像などを備えている。運営は株式会社東京国際フォーラムで、株主は東京都、JR東日本、三菱地所、サントリー、電通、東京電力、NTT東日本、東京ガスの8社。

神田こなぎさんは山梨県南アルプス市生まれ、2011年9月に神田すみれさんに入門、前座見習い、12月に講談協会見習い、2016年10月に二ツ目に昇進している。

時間は10時から16時で、10時にJR東京駅丸の内口に集合する。昼までにお江戸日本橋亭に移り、13時30分からお江戸日本橋亭で神田こなぎさんらの寄席となる。料金は弁当、飲み物、寄席代を含めて3500円で、交通費などがかかる場合は自己負担となる。申し込みは永谷商事まで。

お江戸寄席は前座の立川幸太(たてかわ・こうた)さん、二ツ目の立川寸志(たてかわ・すんし)さん、神田こなぎさん、真打の橘家竹蔵(たちばなや・たけぞう)さん、ギター漫談のあさひのぼるさん、真打の土橋亭里う馬(どきょうてい・りゅうば)さんが出演する。

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