【銀座新聞ニュース=2024年2月8日】大手書籍販売グループの丸善CHIホールディングス(新宿区市谷左内町31-2)傘下の丸善ジュンク堂書店(中央区日本橋2-3-10)が運営する丸善・日本橋店(中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は2月13日まで3階ギャラリー特設会場で「桃の節句展」を開いている。
今回は、「桃の節句」をテーマに制作した、3人の作家による作品を展示販売する。出品するのは、染付けの小鉢作家の小林加代子さん、陶磁器の酒井泉さん、「アーリークラフト」(大田区東六郷1-13-10)を主宰する木工作家の齋藤昭彦さん。
ウイキペディアなどによると、「節句」とは、中国の陰陽五行説に由来して定着した日本の暦(こよみ)における、伝統的な年中行事を行う季節の節目(ふしめ)となる日をさす。この日には、日本の宮廷において節会(せちえ)と呼ばれる宴会が開かれた。
年間にわたりさまざまな節句があり、そのうちの5つを江戸時代に幕府が公的な行事・祝日として定めた。それが1月7日の「人日(じんじつ)の節句」、3月3日の「上巳(じょうし)の節句」、5月5日の「端午(たんご)の節句」、7月7日の「七夕(たなばた)の節句」、9月9日の「重陽の節句」の5節句(現在では3月3日、5月5日、7月7日は同じ曜日になる)という。
「上巳の節句」が桃の花の季節であることから「桃の節句」と呼ばれる。起源は古来中国の上巳節で、上巳の本来の定義は3月最初の巳の日のことであり、中国において魏(220年から265年)の時代に3月3日に固定化され、中国ではこの日に「はらえ」や「みそぎ」を行う風習がある。
日本でも雑令によってこの日に節会(天皇のもとに群臣を集めて行われた公式行事で饗宴を伴う)を開くこととして701(大宝元)年より公式に採用され、内裏(だいり、天皇の私的空間)において曲水の宴(きょくすいのうたげ、庭園で盃が流れてくる間、詩歌を詠む行事)が行われた。
平城天皇(へいぜい・てんのう、774-824)の時代に父・桓武天皇(かんむ・てんのう、737-806)の国忌と近いという理由で廃止されたが、弟の嵯峨天皇(さが・てんのう、786-842)は節会としてではなく、公的な色を薄めた儀式として再開した。
また、曲水の宴は貴族の娯楽としても行われ、民間においては、日本に古来よりあった贖物(あがもの)と呼ばれる人形(ひとがた)に自分の身体をこすり付けて「けがれ」を移し、川などの水辺に流すことで「はらい」を行うという「阿末加津/天児(あまかつ)」などと呼ばれる風習と結びつき、これが後世の流し雛(雛人形)に発展したといわれている。室町時代には「3月3日の儀式」として定着した。
「ひな祭り」ははじまりについては歴史的にはわからず、起源説は複数ある。平安時代の京都で平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていたとする記録がある。当時においても、小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられ、初めは儀式ではなく遊びであり、ひな祭りが「ひなあそび」とも呼ばれた。
一方、平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流しびな」があり、「上巳の節句」としてひな人形は「災厄よけ」の「守りびな」として祀られるようになった。
江戸時代になり、女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき、全国に広まり、飾られるようになった。3月の節句にひな祭りを行うようになったのは、天正(1573年から1593年)年間以降と推測されている。
やがて武家社会でも行われるようになり、江戸時代には庶民の人形遊びと節句が結び付けられ、行事となり発展した。その後、紙製の小さな人の形(形代)を作ってそれにけがれを移し、川や海に流して災厄をはらう祭礼になった。この風習は、現在でも「流しびな」として残っている。
江戸時代、ひな祭りは「五節句」のひとつとして「祝日として存在した」とされる。しかし、1873(明治6)年の新暦採用が「五節句(=ひな祭り)」の祝日廃止となって、さらに「国民の祝日」より「皇室の祝日」色が濃くなった。
このため、戦後になって新たに祝日を作ろうとする動きが見られた際に、祝日制定にあたり3月3日の案や、新年度の4月1日の案も出たが、最終的には5月5日の端午の節句を祝日(こどもの日)とする案が採用された。北海道・東北をはじめ寒冷で気候の悪い地域の多い時期を避け、全国的に温暖な時期の5月にしたというのが大きな理由のひとつとされている。
「じゃらんニュース」によると、ひな人形の種類や飾り方については、京都で作られる京雛(きょうびな)と関東で作られる関東雛(かんとうびな)があり、京雛は左側(向かって右)に男雛、右側に女雛が座り、目が細めのおっとりした目鼻立ちになっている。
一方、関東雛は右側(向かって左)に男雛、左側に女雛が座り、はっきりめの目鼻立ちになっている。かつて宮廷では左側が位が高いとされ(左大臣の方が右大臣より位が高い)、京雛では「みかど」が左、「お妃さま」が右の座り方で、関東雛は現代の国際基準に合わせて「右上位」の座り方で、右上位が浸透したのは、大正時代以降という。
飾り方については、もっとも豪華な飾り方の「7段飾り」では、1段目が男雛と女雛、2段目が3人官女、3段目が5人囃子(ごにんばやし)、4段目が随身(ずいじん、平安時代以降、貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人)、5段目が仕丁(しちょう、奈良時代の律令制における労役のひとつで、諸国から50戸に2人の割合で、正丁を京にのぼらせ、官司に分配して3年間労役に服させた)、6段目と7段目が化粧箱や御所車、駕籠などの嫁入り道具を並べる。全部で15人いるので「15人飾り」とも呼ばれる。
5段飾りは3段目までは7段飾りと同じで、4段目に随身と仕丁、5段目に嫁入り道具を並べるのが一般的。これも15人飾りのひとつ。
3段飾りは3段目の5人囃子までが同じで、嫁入り道具も付いていて、5人囃子の周囲に並べる。10人飾りとも呼ばれる。
親王飾り(2人飾り、2人雛)は男雛と女雛一対だけで、室町時代まではこれが普通だった。現代では飾るスペースの関係もあってニーズが高く、種類も豊富という。
ひな人形は立春(2月4日)がひとつの目安で、このころから飾ると、1カ月間飾ることができる。二十四節気の雨水(2月18日ごろ)に飾ると、良縁に恵まれるといわれている。水は命の象徴であり、豊穣や子孫繁栄につながるとされている。
遅くとも1週間前までには飾り、前日の3月2日に飾るのは「一夜飾り」といって縁起がよくないとされている。
しまうのは、3月中旬までの天気のいい湿気の少ない日が最適で、人形に湿気を残さないのがポイントという。啓蟄(3月5日ごろ)の日に片付けるのがいいという言い伝えもある。
小林加代子さんは組み合わせ方によりいろいろな場面で使え、見ても側に置いても楽しめる、シンプルな器を制作しており、技法については磁器土をロクロ成形し、呉須で下絵付をし、還元焼成をしている。染付の文様は野草(主に野いばら)をスケッチし、作り手と使い手の心が「ツナガル」という思いを込めて、重ねて並べて「ツナガル」ようなデザインを採用している。
酒井泉さんは1990年に武蔵野美術大学油絵科を卒業、1998年に愛知県立窯業高等技術専門校を修了、愛知県瀬戸市で修業を重ね、東京で主に瀬戸や信楽の土を使って使用陶器を制作している。化粧土や釉薬(ゆうやく)を薄く塗り重ねて、1240度の高温で焼成している。
齋藤昭彦さんは家造りの大工を7年間、日常の道具から家具づくりを5年間、学んで、2011年に「アーリークラフト」を設立し、2016年に第55回日本クラフト展で入選している。
開場時間は9時30分から20時30分(最終日は15時)まで。