ナカジマで堀文子展、デカルコマニーの作品公開、体験教室も

【銀座新聞ニュース=2025年5月29日】ナカジマアート(中央区銀座5-5-9、アベビル、03-3574-6008)は5月29日から6月18日まで開廊30周年記念の第1弾として「堀文子のデカルコマニー」を開く。

ナカジマアートで5月29日から6月18日まで開かれる「堀文子のデカルコマニー」に出品さる「デカルコマニ―」(1965年、(C)一般財団法人堀文子記念館)

ナカジマアートは1995年に開廊し、2025年で30周年を迎える日本画を中心とする画廊で、その30周年記念の第1弾が「堀文子 デカルコマニー」で、これを皮切りにこれまで収集してきた作品を一堂に集めた「ナカジマアート開廊30周年記念企画展」を開く。

今回は“画風をもたない”孤高の日本画家で、多摩美術大学客員教授だった堀文子(1918-2019)の個展で、その生涯を通じて変化を恐れず、自らの表現を追求し続け、その中で知られざる創作の一章である「デカルコマニー作品」に焦点を当てた展覧会で、10数点を展示する。画廊では「画家・堀文子が挑んだ、心象と偶然が織りなすデカルコマニーの表現」としている。

画廊によると、堀文子の作品は、作家自身が「画風をもたない」と語るように、時代とともに絶えず変化し続け、中でも特に異彩を放つのが、1960年代に制作された「デカルコマニー」技法による作品群という。

堀文子は、1960年42歳のとき最愛の夫を亡くした喪失感から脱するため、約2年半にわたり海外を放浪し、エジプト、ギリシャ、イタリア、フランス、アメリカ、メキシコを訪れ、長い旅を終えて帰国後、カルチャーショックから一時は絵を描くことができなくなるが、デカルコマニーという技法に出会い、その偶発性に惹かれて心象風景を描くようになった。

デカルコマニーは、紙と紙の間に絵の具を挟み、圧力をかけることで偶然に生まれる模様を用いた表現技法で、意図せず現れる地層のような模様、空白、いびつな形は、不思議な世界を生み出し、鑑賞者の想像力を刺激する。この制作体験について堀文子は、「自分の中に溜まっていたものが流れ出すように、いくらでも描けた」と語っている。

この技法は、海外滞在中に訪れたメキシコの印象をもとに描かれた大作「チアパスの夜」(1966年)や、「魔王の館」(1964年)などにも用いられ、1965年に日本橋高島屋で開かれた初個展「堀文子作品展」に多数出品された。しかし、当時の堀文子はインタビューで、これらのデカルコマニー作品について「明らかに売れない」と話しており、作品の多くは堀文子のアトリエに長い間保管されていた。

同じく「堀文子のデカルコマニー」に出品される「おんな」(1965年、(C)一般財団法人堀文子記念館)。

今回は、その初個展に出品された作品に加え、未発表の作品や書籍の挿絵に使用された作品も展示する。

ウイキペディアによると、「デカルコマニー(decalcomanie)」は、紙と紙の間などに絵具を挟み、再び開いて偶発的な模様を得る技法で、「decalquer(デカルケ、転写する)」に由来する。元は陶器やガラスの絵付け技法であったが、オスカー・ドミンゲス(Oscar Dominguez、1906-1957)が絵画に導入し、シュルレアリスムの画家の間では、フロッタージュ(frottage)などとともに「オートマティスム(Automatic writing、Ecriture automatique)」の一つの手法として広まり、特にマックス・エルンスト(Max Ernst、1891-1976)による作品が知られている。

工程はガラスや表面が滑らかな紙など、絵具が定着しにくい素材を選び、その上に絵具を塗る。絵具が乾かないうちに、別のガラスや紙を上に重ねて押し付ける。重ねたガラスや紙を外すと、そこに模様ができている。ただし、ガラスの場合は外さなくとも模様が見えるため、重ねたままにすることもある。

絵画を制作する際、そこには制作者の意図が働いているが、デカルコマニーで制作された模様には制作者のコントロールが(少なくとも完全には)効いていない。つまり、完成した模様に制作者の「無意識」が表出していると考えることが可能になり、それこそがデカルコマニー最大の特徴といえる。また、見る者によっても模様の見え方はさまざまであり、それが見る側の「無意識」をも示す可能性も指摘されている。

ウイキペディアと一般財団法人「堀文子記念館」(代表理事・黒柳徹子さん)によると、堀文子は1918年東京都千代田区麹町生まれ、1940年に女子美術専門学校師範科日本画部(現女子美術大学芸術学部美術学科日本画専攻)を卒業、府立第五高等女学校(現都立富士高等学校)時代に自宅近くで「二・二六事件」(1936年)に遭遇、在学中の1939年に第2回新美術人協会展で入選、1952年に第2回上村松園賞を受賞した。

1946年に28歳で外交官の箕輪三郎(?-1960)と結婚するも、1960年に42歳の時に死別、夫の死後、1961年から1964年にかけ世界放浪の旅へ出て、エジプト、ギリシャ、ヨーロッパ、アメリカ、メキシコを旅し、旅の中でアンフォルメル、シュルレアリスムの影響を離れ、日本画の持つ色彩や顔料の美しさに回帰する。1967年に神奈川県大磯に転居、1972年に絵本「くるみ割り人形」で第9回国際絵本原画展でグラフィック賞、1974年に「創画会」の結成に参画、同年、多摩美術大学日本画科教授、その後、多摩美術大学客員教授として1999年まで日本画を指導した。

1981年に軽井沢にアトリエを構え、1987年にバブル期真っ只中の日本から逃れようとイタリア・アレッツォにアトリエを構え(1992年まで日本とイタリアを往来)、同年に第36回神奈川文化賞、1992年にアレッツオ市でピエロ・デッラ・フランチェスカ(Piero della Francesca、1412-1492)没後500年記念で「堀文子日本画展」を開催、1995年にアマゾン川、マヤ遺跡、インカ遺跡へスケッチ旅行、1999年に創画会を退会した。

2000年に82歳の時に幻の高山植物ブルーポピーを求め、ヒマラヤ山脈の高地を踏破し、「幻の花 ブルーポピー」を発表、2001年に解離性動脈瘤で倒れ、以降、長期間の取材旅行に出かけられなくなり、微生物に着目し、海中に生きる命をモチーフとする「極微の宇宙」を発表する。晩年のテーマは、動植物のみならず古代文化の意匠など多岐に及ぶ。それらは「自然・歴史」への畏敬と命あるものに注がれる温かい眼差しを通して、堀文子独自の表現世界へと生まれ変わる。一つの場所に安住せず、絶えず新しい感動を求めて旅をし、居を変える「一所不住」を自身の信条としていた。

庭の片隅に咲く雑草達を「名もなきもの」というテーマにし、主役にはならないが逞しく生きる小さな生命を讃え、その姿を表舞台に残そうと制作を続けた。2011年に女子美術大学より名誉博士の称号を取得、2014年に福島空港旅客ターミナルビル陶板レリーフ「ユートピア」を完成、2016年と2018年にナカジマアートで個展、2019年2月5日に100歳で没。

6月13日、14日13時から15時まで会場でデカルコマニーの技法を挑戦する「デカルコマニー 体験教室」を開く。各回とも定員は6人で、参加費は1500円。電話(03-3574-6008)もしくはメール(info@nakajima-art.com)で申し込む。

ナカジマアート開廊30周年記念企画展はこんご、第2弾(6月26日から7月9日)「東山魁夷 版画 海と山」では、版画「海と山」シリーズ全10点を初めて展示する。第3弾(7月17日から8月6日)「日本画家の挿絵」では、武部雅子さんが辻原登さん著の小説「卍どもえ」の挿絵を手がけた原画をはじめ、海老洋さん、竹内浩一さん、王培さんが新聞や雑誌に描き下ろした挿絵原画を紹介する。第4弾(8月28日から9月17日)「ナカジマアートコレクション展」では、小磯良平、小林古径といった巨匠による作品のほか、近年活躍する作家による作品、初公開となる作品などを多数展示販売する。

開場時間は11時から18時30分(土曜日17時)、日曜・祝日は休み。入場は無料。