【銀座新聞ニュース=2011年8月7日】丸善・日本橋店(東京都中央区日本橋2-3-10、03-6214-2001)は8月10日から8月16日まで3階ギャラリーで「高村光太郎と智恵子の紙絵展-命と愛のメッセージ」を開催する。
詩人で彫刻家の高村光太郎(たかむら・こうたろう、1883-1956)が1941年に龍星閣(りゅうせいかく)から詩集「智恵子抄(ちえこしょう)」が出版してから70年になるのを記念して、「高村光太郎と智恵子の紙絵展」を開く。
今回は2人の生涯をたどり、高村光太郎の諸作品の展示、「レモン哀歌」や当時の丸善のインク工場の女工たちを詩にした「丸善工場の女工たち」などの原稿用紙を展示する。また、再現された高村智恵子の紙絵も披露し、明治から昭和を駆け抜けた2人の芸術作品を回顧する。
また、高村智恵子が残した千代紙を切り抜いてつくった1000枚を超える「紙絵」は高村光太郎の弟で、鋳金家の高村豊周(たかむら・とよちか、1890-1972)の子息、高村規(たかむら・ただし)さんにより複製され、鮮やかな色彩で細部まで鑑賞することができるようになっている。
「智恵子抄」は高村光太郎が妻で洋画家の高村智恵子(たかむら・ちえこ、1886-1938)について結婚(1914年)する前の1911年に出会ってから亡くなった後の1941年までに書かれた詩をまとめた詩集で、高村智恵子に関する詩29編、短歌6首、3編の散文が収録されている。また、1947年に白玉書房から刊行された「智恵子抄」には戦後に書かれた「松庵寺」と「報告」の2編が追加されている。
高村智恵子は1931年8月に統合失調症の最初の兆候が現れ、1932年に大量の睡眠薬を飲み、自殺を図るも未遂に終わり、1935年にゼームス坂病院に入院し、病室で多数の紙絵を生み出し、1938年に粟粒性肺結核のため死去している。
高村光太郎のエッセイ「智恵子紙絵」(1979年、筑摩書房)によると、智恵子が病院に入院してから6カ月後に、千代紙をもっていくと、「智恵子は大へんよろこんでそれで千羽鶴を折った」という。訪問するたびに、鶴の折紙、紙灯ろうなどがつくられ、ぶら下がっていた。
あるとき、訪問した高村光太郎が紙づつみをわたされたので、中を見ると、色紙をはさみで切つた模様風の美しい紙細工があった。「それを見て私は驚いた。それがまったく折鶴から飛躍的に進んだ立派な芸術品」だったからだ。それからは高村智恵子は色紙を要求するようになり、子供が折紙に使う色紙を送ると、高村智恵子の「仕事」が始まったという。
はさみはマニキュアに使う小さな、尖端の曲ったもので、それを手にして、しばらく紙を見つめ、すらすらと切りぬいていくだけで、当初は紙を四つ折、または八つ折にしてから切りぬくが、「後にはだんだん色調の配合、色量の均衡、布置の比例等に微妙な神経がはたらいて来て、紙は一個のカムバスとなった」という。こうして生まれた「千数百枚に及ぶこれらの切抜絵はすべて智恵子の詩であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、この世への愛の表明である」と書いている。
ウイキペディアによると、高村光太郎は1883年東京府下谷区(現東京都台東区)生まれ、1902年に東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科を卒業、在学時に文学に関心をもち、在学中に与謝野鉄幹(よさの・てっかん、1873-1935)の新詩社の同人となり「明星(みょうじょう)」に寄稿した。
1902年に大学を卒業すると研究科に進むも、1905年に西洋画科に移り、1906年より留学に出て、アメリカ・ニューヨークに1年、その後イギリス・ロンドンに1年間、フランスパリに9カ月滞在し、1909年に帰国した。「パンの会」に参加し、「スバル」などに美術批評を寄せ、1912年に東京・駒込にアトリエを建て、「第1回ヒュウザン会展」に油絵を出品、1914年に詩集「道程」を出版、同年に長沼智恵子と結婚した。
1929年に高村智恵子の実家が破産し、この頃から高村智恵子の健康状態が悪くなり、後に統合失調症を発病した。1938年に高村智恵子と死別し、1941年に詩集「智恵子抄」を出版、戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表した。1945年4月に空襲によりアトリエと多くの彫刻やデッサンを焼失した。
同年に岩手県花巻町(現花巻市)に疎開、7年間独居自炊の生活を送り(現「高村山荘」)、1950年に戦後に書かれた詩を収録した詩集「典型」で第2回読売文学賞を受賞、1952年に青森県より十和田湖畔の記念碑の制作を委嘱され、これを機に小屋を出て東京中野区のアトリエに転居し、1953年に記念碑の塑像(裸婦像)を制作した。
1956年に東京都中野区桃園町にある自宅アトリエにて肺結核のため死去した。命日(4月2日)は「連ぎょう忌」と呼ばれている。
開場時間は9時30分から20時30分(最終日は15時)まで。入場は無料。
注:「智恵子紙絵」からの引用部は旧かなづかいを現代かなづかいに変えてあります。