日比谷「GIANTS 頂点への挑戦」公開で吉川尚輝と門脇誠が挨拶

【銀座新聞ニュース=2025年1月21日】中堅の映画配給会社のアスミック・エース(千代田区丸の内1-8-1、丸の内トラストタワーN館、03-6760-8558)は1月25日にTOHOシネマズ日比谷(千代田区有楽町1-1-2、東京ミッドタウン日比谷、050-6868-5068)で「GIANTS THE MOVIE-頂点への挑戦」の公開を記念して、吉川尚輝さんと門脇誠さんによる舞台あいさつを開く。

1月24日から一般公開される「GIANTS THE MOVIE(ジャイアンツ・ザ・ムービー)-頂点への挑戦」((C)YOMIURI GIANTS)。

25日12時40分の回上映終了後と15時50分の回上映前に、読売ジャイアンツの吉川尚輝(なおき)さんと門脇誠さんが舞台に登場してあいさつする。

映画.comによると、「GIANTS THE MOVIE(ジャイアンツ・ザ・ムービー)-頂点への挑戦」は読売ジャイアンツが、球団創設90周年を記念して製作した球団初のドキュメンタリーで、4年ぶりのセ・リーグ制覇を果たした2024年シーズンの軌跡を振り返る。

阿部慎之助さんが新たな監督(第20代)に就任した2024年のジャイアンツは、球団創設90周年という節目の年に、4年ぶりのリーグ優勝を果たした。開幕前は決して前評判の高くなかったチームを、阿部監督はいかにしてリーグ優勝に導いたのか。瞬時の判断と選手起用で若手とベテランを融合させた阿部監督を支えた信念とはなにか。ペナントレースの舞台裏を球団カメラが撮影した映像と、監督、コーチ、選手らの独占インタビューを交え、阿部ジャイアンツの知られざる激闘の物語を明らかにする。

吉川尚輝さんは2016年にドラフト1位でジャイアンツに入団、二塁、遊撃を守り、2024年に全143試合に出場し、シーズンの終了後にベストナイン、ゴールデングラブ賞に選出された。2017年から8年間の通算打率は.273、本塁打36本、安打は686本。2025年から3年契約で、推定年俸は2億円。

門脇誠さんは2022年のドラフトで4位で指名されて入団、2023年シーズンは遊撃、二塁、三塁を守り、シーズンを通じ1軍に定着し、2軍に降格しなかった12球団唯一の新人野手だった。2024年は不調で、打率は.243だったが、本塁打はゼロ(2023年は3本)だった。推定年俸は4500万円。

ウイキペディアによると、読売ジャイアンツは1931(昭和6)年に、読売新聞社社長の正力松太郎(1885-1969)が中心となってメジャーリーグ選抜軍を日本に招待し、全日本代表チームや6大学を中心とした強豪大学チームとの試合を行い興行は成功を収めた。これを受けて正力松太郎は再度のメジャーリーグ選抜軍の招待、特に前回叶わなかったベーブ・ルース(George Herman “Babe” Ruth, Jr.、1895-1948)の招聘を目論んだが、1932(昭和7)年に文部省(当時)が発令した野球統制訓令によってメジャーリーグ選抜を招聘したとしても大学チームを対戦相手とすることはできなくなった。

市岡忠男(1891-1964)、浅沼誉夫(よしお、1891-1944)、三宅大輔(1893-1978)、鈴木惣太郎(1890-1982)の4人は、その対策として職業野球チームを結成することを正力松太郎に働きかけ、その結果、1934(昭和9)年6月9日に日本工業倶楽部で「職業野球団発起人会」が開かれ、6月11日には創立事務所が設けられた。

並行して選手獲得も行われ、プロ契約第1号選手として6月6日付で三原脩(おさむ、1911 1984)、第2号選手として6月15日付で苅田久徳(1910-2001)を獲得するなどチームが形作られていった。この時、日米野球の期間中のみ契約するという選手と日米野球後に発足する職業野球団とも契約するという選手とがあった。

1934(昭和9)年10月15日、千葉県の谷津海岸に新設された谷津球場に30人の選手が集まりチームは結成され、11月2日に横浜にメジャーリーグ選抜チームが来日し、全日本代表チームと全国で親善試合興行を行った。試合は全日本代表チームの15戦全敗だった。他に対全東京が1試合、日米混合が2試合あり、このうち、1試合が草薙球場にある沢村栄治像とベーブ・ルース像の元となる、沢村栄治(1917-1944)が1失点完投した試合である。

12月26日に全日本代表チームの選手を中心にした選手19人で、後に巨人軍の前身となる大日本東京野球倶楽部(だいにっぽんとうきょうやきゅうくらぶ)が結成された。このことから、「読売巨人軍発祥の地」の石碑が、かつて谷津球場のあった千葉県習志野市谷津の谷津公園内に設けられており、長嶋茂雄さん(1936年生まれ)、王貞治さん(1940年生まれ)、原辰徳さん(1958年生まれ)ら歴代の巨人軍の監督や選手らの手形とサイン付の石のプレートが並べられている。

1935(昭和10)年1月14日から2月3日まで草薙球場で練習を重ね、2月14日に第1次アメリカ遠征に出発、初代の監督は三宅大輔であった。当時の選手ら総勢18人で「秩父丸」に乗船し横浜港からアメリカに向けて出発、選手たちは船上でも試合に向けての練習をこなした。当初は「大日本東京野球倶楽部」と名乗る予定だったが、現地マネジャーのフランク・オドール(Francis Joseph O’Doul、1897-1969)から「『大日本東京野球倶楽部』はわかりにくい」という指摘を受けた。

オドールは、この日本最大の都市である東京市のチームに、アメリカ最大の都市であるニューヨークの3チーム(ジャイアンツ、ドジャース、ヤンキース)の中からジャイアンツの愛称を勧め、大日本東京野球倶楽部はアメリカ遠征において「東京ジャイアンツ」と名乗ることになった。

東京ジャイアンツは全米各地で128日間109試合(ダブルヘッダー17日34試合含む)という日程を戦い、主な対戦相手はメジャーリーグのマイナークラスのチームだった。75勝33敗1引き分けの好成績でアメリカ遠征は終了、7月16日に帰国し、9月6日からは国内各地を転戦、これが翌1936(昭和11)年以降の職業野球団の相次ぐ結成の契機となった。

また、1936年にジャイアンツを巨人と訳した東京巨人軍(とうきょうきょじんぐん)に正式改称した。1936年2月5日、日本職業野球連盟が結成され、9日には、名古屋市郊外・鳴海球場で開かれた名古屋金鯱軍との対戦は現在の日本野球機構にあたる職業野球連盟に所属するチーム同士が行った初めての試合となった。その年に洲崎球場で大阪タイガースとの3戦制の優勝決定戦を行い、12月11日に第3戦に勝利して2勝1敗で大阪タイガースを下し公式戦初優勝球団に輝いた。

1939年(1938年は試合なし)より年間通じてのリーグ戦となり、最後の対南海戦(後楽園)に勝利して2季連続優勝した。1944(昭和19)年11月10日に野球試合不可能として会社は存続するものの営業が中止され、球団は解散となった。11月13日には国の指導により日本野球連盟が改称していた日本野球報国会がプロ野球の一時休止声明を発表し戦前のプロ野球は終わった。戦前は11シーズンで東京巨人軍が8度の優勝を果たした。

1946年のリーグ戦再開より参加、この年は2位に終わる。1947年には読売新聞社が経営に当たることとなり、同年4月3日に球団名を「東京読売巨人軍」に改称、ニックネームを読売ジャイアンツとし、1リーグ最後の1949年には戦後初優勝を飾った。1949年のシーズンオフ、日本プロ野球はセントラル・リーグ、パシフィック・リーグに分裂、2リーグ制となり、巨人はセ・リーグに所属することになった。

読売ジャイアンツは優勝は1リーグ時代9回、2リーグ制後は39回、日本一が22回。21世紀以降のリーグ優勝は2002年、2007年から2009年、2012年から2014年、2019年から2020年、2024年。現在の取締役オーナーは山口寿一さん(1957年生まれ)、取締役オーナー代行は松田昇さん(1933年生まれ)、代表取締役社長が国松徹さん(1956年生まれ)、専務取締役終身名誉監督は長嶋茂雄さん。

チケットはチケットぴあを通じて先行抽選を受付中で、22日11時締め切り。23日10時より一般発売する。料金は一般2400円、高校生以下1400円。プレミアボックスシートは1000円プラス。