銀座三越でちばてつや版画展、あしたのジョー、のたり松太郎など

【銀座新聞ニュース=2021年2月7日】国内最大手の百貨店グループ、三越伊勢丹ホールディングス(新宿区新宿5-16-10)傘下の三越伊勢丹(新宿区新宿3-14-1)が運営する銀座三越(中央区銀座4-6-16、03-3562-1111)は2月10日から16日まで本館7階ギャラリーで「画業65周年ちばてつや版画展」を開く。

銀座三越で2月10日から16日まで開かれる「画業65周年ちばてつや版画展」に出品される「打つべし!」(サイズ42×31センチ、価格税込13万2000円、(C)高森朝雄・ちばてつや/講談社)。

文星芸術大学(栃木県宇都宮市上戸祭4-8-15、1999年開学)学長で、マンガ家のちばてつやさんは1956年に「復讐のせむし男」でプロデビューし、2021年で画業65周年になる。これを記念して、代表作「あしたのジョー」(原作:高森朝雄=1936-1987=、1968年1号から1973年21号まで週刊少年マガジンに連載)をはじめ、「ハリスの旋風(かぜ)」(1965年16号から1967年11号まで週刊少年マガジンに連載)。

「おれは鉄兵」(1973年33号から1980年20号まで週刊少年マガジンに連載)、「あした天気になあれ」(1980年42号から1991年21号まで週刊少年マガジンに連載)、「紫電改のタカ」(1963年27号から1965年3・4号まで週刊少年マガジンに連載)、「のたり松太郎」(1973年23号から1999年9号までビッグコミックに連載)、「ガンバレ少年ジャイアンツ」(1967年1月号から1968年2月号まで少年ブックに連載)の版画(ピエゾグラフ)約30点を展示販売する。また、グッズの販売や資料も展示する。すべての作品に、ちばてつやさんの直筆サインとシリアルナンバーが入る。

ウイキペディアによると、ちばてつやさんは1939年東京府(現東京都)生まれ、東京都中央区築地の聖路加病院で生まれ、同年11月に朝鮮半島を経て、1941年1月、2歳の時に、満州国奉天にわたり、父親が印刷会社に勤務、1945年に同地で終戦を迎え、父の同僚の中国人徐集川の屋根裏部屋にかくまってもらい、1946年、家族共々、日本に引き揚げ、千葉、飯岡(旭市)を経て、墨田区小梅町に移り住む。

道ばたに落ちていた豆本で「アラビアンナイト」を題材にした杉浦茂(1908-2000)のマンガ作品で、その面白さに衝撃を受け、マンガにのめり込むも、家はマンガに対して厳しく、一切禁止されていた。小学生時に絵を好きなことを見て、声をかけた木内堯央(1939-2002)と親友になり、彼が作成していた同人誌「漫画クラブ」に1950年より参加した。

同じく出品される「燃える闘志(力石)」(サイズ42×29センチ、13万2000円)。

日本大学第一高等学校を卒業、在学時に新聞の三行広告でマンガ家を募集しているのを見つけて日昭書店に応募、社長の石橋国松がプロの生原稿を見せて道具の使い方を教え、試しに描いてくるように指示し、ちばてつやは本格的な執筆を始め、約3カ月間にわたり、毎回20ページから30ページずつ原稿を持って行くと、そのたびに続きを描くように言われ、128ページ目で話を終わらせるように指示を受けて描いた最後の原稿を持ち込むと、その場で当時の大卒初任給を超える1万2351円を原稿料として手渡された。

この時に執筆した「復讐のせむし男」は1956年に貸本として出版され、17歳でマンガ家としてデビューし、以降、高校に通いながら貸本の執筆を続けた。高校卒業を前に「少女クラブ」(講談社)の編集部で自身の原稿(江戸川乱歩=1894-1965=原作の「魔法人形」)を見せて執筆依頼を受け、読み切り「リカちゃん」を執筆した。同時期に訪れた「少女ブック」(集英社)でも執筆依頼を取り付け、読み切り「舞踏会の少女」を執筆した。両作共に1958年に発表されたが、「少女ブック」が先に発売されたため、「舞踏会の少女」が雑誌デビュー作となった。

両作をきっかけに連載も依頼され、同年6月号より「オデット城のにじ」(少女ブック)と「ママのバイオリン」(少女クラブ)を同時に連載開始するも、「少女ブック」が本人の了承なしに別冊への掲載を予告したことを機に講談社との専属契約を結び、「オデット城のにじ」は連載途中で降板した。

1961年に「週刊少年マガジン」(講談社)にて野球マンガ「ちかいの魔球」(原作:福本和也=1928-1997)の連載を開始し、1962年より「少女クラブ」の別冊ふろくで「1・2・3と4・5・ロク」の連載を開始、同年に同作と「魚屋チャンピオン」で第3回講談社児童まんが賞を受賞する。

その後も「紫電改のタカ」(1963年7月から1965年1月まで週刊少年マガジンに連載)、「ユキの太陽」(1963年1号から48号、週刊少女フレンドに連載)などを手がけ、1965年に発表された「ハリスの旋風」(1965年16号から1967年11号まで週刊少年マガジンに連載)はテレビアニメ化された。1968年に劇画作家の高森朝雄(梶原一騎)と組み、ボクシングを舞台とした「あしたのジョー」(1968年1号から1973年21号まで週刊少年マガジンに連載)を発表、爆発的なヒットとなり、社会現象にもなった。

1973年には角界を舞台にした「のたり松太郎」(1973年23号から1999年9号までビッグコミックに連載)や、プロゴルフを舞台にした「あした天気になあれ」(1980年42号から1991年21号まで週刊少年マガジンに連載)などスポーツマンガのロングランヒット作に加え、幅広い作品を発表した。1977年には「のたり松太郎」により、第23回小学館漫画賞青年一般部門、第6回日本漫画家協会賞特別賞を受賞した。

1980年にはこれまでの功績を称え、青年マンガ家の発掘を主とした講談社主催の「ちばてつや賞」が設立された。1984年の創刊時から「GOLFコミック」(秋田書店)の表紙イラストを2018年の休刊まで担当した。2001年に文科大臣賞、2002年に紫綬褒章、2009年 に第33回講談社漫画賞講談社創業100周年記念特別賞、2012年に旭日小綬章、2014年に文化功労者、2017年に練馬区名誉区民に選ばれている。

また、2005年からは文星芸術大学教授を務め、2012年7月から2018年6月まで日本漫画家協会理事長を務め、2018年6月から同協会会長、2019年4月1日より文星芸術大学学長を務めている。

開場時間は10時から19時(最終日は18時)まで。