M84で高田美「パリ写真」展、高田商会創業者の孫、カルダンの右腕

【銀座新聞ニュース=2025年6月27日】Art Gallery M84(中央区銀座4-11-3、ウインド銀座ビル、03-3248-8454)は6月30日から8月30日まで写真展「『パリの記憶 高田美/Yoshi Takata Memoires de Paris』」を開く。

Art Gallery M84(アートギャラリーエムハッシー)で6月30日から8月30日まで開かれる写真展「『パリの記憶 高田美/Yoshi Takata Memoires de Paris(ヨシ・タカタ・メモワール・ドゥ・パリ)』」に出品される作品「Paris sous la neige(パリ・ス・ラ・ネージュ),1974」(C)Yoshi Takata)。

フランスのデザイナー、ピエール・カルダン(Pierre Cardin、1922-2020)に認められたファッション写真家の高田美(たかた・よし、1916-2009)は明治、大正時代に日本の3大商社のひとつ「高田商会」の創業者、高田慎蔵(たかた・しんぞう、1852-1921)の孫娘で、戦後、AFP通信社で働いたのち、38歳でフランスにわたり、写真家・木村伊兵衛(いへい、1901-1974)がパリを訪れた際に、通訳を担当し、木村伊兵衛から写真を撮ることを勧められてカメラを手にした。

木村伊兵衛の紹介で、フランスの写真家、アンリ・カルティエ・ブレッソン(Henri Cartier-Bresson、1908-2004)、ハンガリーの写真家、ブラッサイ(Brassai、1899-1984)、フランスの写真家、ロベール・ドアノー(Robert Doisneau、1912-1994)、フランスの写真家、ブーバ(Edouard Boubat、1923-1999)、アメリカの写真家、デイヴィット・シーモア(David Seymour、1911-1956)らと親交を結び、彼らを日本に初めて紹介し、写真集出版(平凡社)の橋渡しをし、ピエール・カルダンの右腕として世界各国にピエール・カルダンと共にパリ・モードを披瀝して回った高田美の写真作品展を開く。

カルティエ・ブレッソンは「技術が重要なのではない。心の目を持つことだ。生まれながらに持っている構成力、感覚こそが重要なのだ」と語り、写真を習う為に学校へ行く事も進めず、「生涯にたった一枚でいいから、忘れないものを撮る事だ」と語った。こうした一流の写真家に出会って、高田美はその後をくっついて行きながら写真家として成長していった。

1955年には新進気鋭のデザイナー、ピエール・カルダンのアトリエ撮影と取材に赴いた際にピエール・カルダンに評価され、その後の協力へとつながり、以降、ピエール・カルダンの作品の大部分を撮影した。

同じく「Tsuguharu Fujita,Ihei Kimura et Taizo Yokoyama a Paris(パリで藤田嗣治=1886-1968=、木村伊兵衛、横山泰三=1917-2007=),1954」(C)Yoshi Takata)。

ウイキペディアによると、高田商会は兵器機械商社で、日清・日露戦争期に急成長し、兵器機械商社として大倉組と並んで、三井物産をも凌駕していた。明治(1868年から1912年)初期における日本の貿易は「外商」と称されていた商館による独占状態にあり、こうした状況を改めるべく1880(明治13)年に三条実美(さんじょう・さねとみ、1837-1891)太政大臣により、政府機関が外国製品を調達する際には邦人による貿易会社(内商)を優遇するよう内達が出された。

高田商会の創業者となる高田慎蔵(たかた・しんぞう、1852-1921)は1870(明治3)年から築地居留地のドイツ商館の輸入商であったプロイセン出身のハインリッヒ・アーレンス(Heinrich Ahrens、1842-1886)の経営する「アーレンス商会」の丁稚として勤務し、1878(明治11)年にドイツ人武器商人のマルチン・ミヒャエル・ベア(Martin Michael Behr、1841-1904)のベア商会に通弁兼事務官として勤務した。

1880(明治13)年にベア商会の廃業の後を継ぐかたちで、アーレンスとジェームス・スコット(ベアの番頭)と共同経営で1881(明治14)年1月に資本金1万5000円で「高田商会」を設立した。出資は日本人の分は高田慎蔵の3分の1のみで、残りはアーレンスとジェームズ・スコットだったが、この出資比率は秘密にされ、「内商」として設立された。その後、アーレンスとスコットの死去により、高田慎蔵の個人経営となる。

1887(明治20)年に高田慎蔵は、欧米諸国を歴訪し、1888(明治21)年に帰国、新組織にして改めて「高田商会」を設立し、鉱山採掘ドリルや送水ポンプ、軍艦などを輸入し、事業を拡大、ニューヨーク・ロンドンにも支店を設けるなど、当時の一大商社となった。

高田商会は兵器機械などの輸入販売業としては業界トップとなり、1894(明治27)年の日清戦争では軍需物資を扱って巨額の利益を上げた。1897(明治30)年ごろにアームストロング社、1899(明治32)年にウェスティングハウス社の日本代理店となった。1897年の「八幡製鉄所」建設の際には設備を納入、1903(明治36)年に開催された内国勧業博覧会に自動車部品を出品、その後、自動車や自動車部品の輸入販売を手がけるなど、次第に総合商社として業容を拡大していく。日露戦争(1904年から1905年)時には戦時禁制品の輸入や明石工作(明石元二郎=1864-1919=によるロシアへの工作活動)にも関与した。

1908(明治41)年12月に合資会社へ改組(資本金100万円)し、1912(明治45)年に高田慎蔵は社長を退き、顧問となり、養子の高田釜吉(1876-1967)が社長に就任した。しかし、1918(大正7)年に製鉄所社員への贈賄事件により、副社長と理事が収監され、1921(大正10)年に高田慎蔵が病死、1923(大正12)年の関東大震災により社屋が倒壊し、商品を焼失した損害に加え、為替差損などもあり、1925(大正14)年2月に高田商会は経営破綻、整理会社となる。

その後、高田商会の整理案が策定され、従来の高田商会は整理会社として存続、新会社を設立して営業を継続した。新会社は株式会社とし、資本金300万円はウェスティングハウス社の代理権などが代償とされた。1925年4月14日に本店勤務の社員400人を解職(事実上の解雇)、その中から整理事務のため嘱託100人が改めて採用された。

同年8月1日には新会社の「株式会社高田商会」(第2次高田商会)が設立され営業を開始、1963年に日綿実業(現双日)に吸収されたものの、同年に高田商会関係者により「(第3次の)株式会社高田商会」が設立され、現在も機械専門商社として存続している。

高田慎蔵と妻の民子(1853年生まれ)は7男5女をもうけ、次女・雪子(1885年生まれ)の婿に田中平八の3男・釜吉を迎え、慎蔵の事業を継がせた。高田釜吉は、妻・雪子との間に1女・愛子をもうけ、愛子は、医学博士で、国立予防衛生研究所副所長を務めた北岡正見に嫁いだ。その間に生まれた長男で、北岡姓であった祐一が、後に、高田家の養子に入り、「高田祐一」となり、高田祐一は、高級外車の輸入販売を中心とした「UNION・高田商会」を経営した。

高田美は1916年東京都生まれ、1947年にフランス通信社(AFP)東京支局に通訳兼助手として入社、1954年にフランスにわたり、写真家・木村伊兵衛(いへい、1901-1974)がパリを訪れた際に、通訳を担当し、木村伊兵衛から写真を撮ることを勧められてカメラを手にする。日本の新聞、雑誌に記事や写真を送るかたわら、フランスの写真家、アンリ・カルティエ・ブレッソン(Henri Cartier-Bresson、1908-2004)、ハンガリーの写真家、ブラッサイ(Brassai、1899-1984)、フランスの写真家、ロベール・ドアノー(Robert Doisneau、1912-1994)、フランスの写真家、ブーバ(Edouard Boubat、1923-1999)、アメリカの写真家、デイヴィット・シーモア(David Seymour、1911-1956)らと親交を結ぶ。彼らを日本に初めて紹介し、写真集出版(平凡社)の橋渡しとなる。

1955年に新進気鋭のデザイナー、ピエール・カルダンと知り合い、カルダンより評価され、1957年にピエール・カルダンのオートクチュール立体裁断初公開のプロデュースを行い、初来日に同行、1965年に初来日の写真家のアンリ・カルティエ・ブレッソンの日本でのルポをプロデュースし、同行する。また、写真集の出版(朝日新聞社)に尽力した。1966年に文化出版局パリ支局の顧問に就き、日仏の文化交流につとめる。1985年にフランス政府より芸術文化勲章を叙勲、1989年にパリ市よりパリ名誉銀賞を叙勲、1992年にパリ国立図書館に作品がコレクションされ、2009年にパリにて逝去した。

開場時間は10時30分から18時30分(最終日は17時)。入場料は800円。日曜日は休み。