渋沢史料館で渋沢と清水建設、田辺淳吉記念室も

【銀座新聞ニュース=2016年3月11日】公益財団法人「渋沢栄一記念財団 渋沢史料館」(北区西ヶ原2-16-1、飛鳥山公園内、03-3910-0005)は3月12日から5月15日まで「渋沢栄一と清水建設株式会社」を開く。

渋沢史料館で3月12日から5月15日まで開かれる「渋沢栄一と清水建設株式会社」のフライヤー。

渋沢史料館で3月12日から5月15日まで開かれる「渋沢栄一と清水建設株式会社」のフライヤー。

2011年から渋沢栄一(しぶさわ・えいいち、1840-1931)が創業に関わった企業に注目する「企業の原点を探る」シリーズのひとつで、今回は1804(文化元年)に創業し、渋沢栄一が「相談役」として関わり、経営理念や方針をアドバイスした清水建設株式会社(旧清水組)を取り上げる。

また、清水建設社員一同から渋沢栄一へ寄贈され、1917年に落成した洋風茶室「晩香廬(ばんこうろ)」についても注目する。212年の歴史をつなぐ清水建設株式会社の経営活動の根底を支えてきた渋沢栄一の助言、当時の最高技術が込められた「晩香廬」などを鑑賞できる。

構成は1「清水組誕生-清水喜助(しみず・きすけ、1783-1859)・父子」、2「渋沢栄一と清水組の出会い-すべては、ここから始まった」、3「渋沢栄一の『お抱え棟梁』」、4「近代的土木建築請負業への発展-渋沢栄一、相談役となる」、5「晩香廬-心を込めた逸品」、6「渋沢栄一と清水建設株式会社-創業から212年、変わらないもの」に分けて関連資料などを展示する。また、特別に晩香廬を設計した元清水組の技師長「田辺淳吉(たなべ・じゅんきち、1879-1926)記念室」を展示している。

清水建設は1804(文化元)年に初代清水喜助が江戸の神田で創業(喜助は現在の富山出身で、大工となり、日光東照宮の修理に参加した後、江戸に下る)、1838(天保9)年に江戸城西の丸焼失後の再建工事に参加し、1858(安政5)年に開港地・横浜の外国奉行所などの建設を請け負った。1859(安政6)年に初代喜助が死去し、養子の清七が2代目清水喜助(1815-1881)となる。

渋沢史料館にある晩香廬。旧渋沢家飛鳥山邸に渋沢栄一の喜寿祝いで清水組から1917年に贈られた洋風の小亭で、田辺淳吉がデザインした。

渋沢史料館にある晩香廬。旧渋沢家飛鳥山邸に渋沢栄一の喜寿祝いで清水組から1917年に贈られた洋風の小亭で、田辺淳吉がデザインした。

1868(明治元)年に幕府の依頼で建設を始めた築地ホテル館(外国人旅館)が完成し、1872年に第一国立銀行(三井組ハウス)が完成、1881年に2代目喜助が死去し、養子の初代清水満之助(?-1887)が跡を継いだ。1885年に横浜税関事務所、1888年に日本橋兜町渋沢邸を完成、1892年に渋沢栄一の仲介で法律学者、穂積陳重(ほづみ・のぶしげ、1855-1926)の案により家法を定めた。1893年に明治座、1895年に平安神宮、1915年に合資会社清水組となり、清水釘吉(しみず・ていきち、1867-1948)が初代社長に就任した。

1898年に東京株式取引所、1899年に参謀本部庁舎、1902年に第一銀行本店、1905年に東京火災保険本社、1908年に東京銀行本店、1910年に丸善本店、1922年に東京会舘、1924年に丸の内ホテルなど大建築を次々と手掛け、建設業のトップの地位を築き、1937年に株式会社清水組を設立、合資会社清水組と合併し、1948年に清水建設株式会社に変更した。1961年10月に東証2部に上場、1962年に東証1部に上場、1971年に不動産事業に進出、1991年に本社を宝町から東京都港区浜松町のシーバンスに移転、2008年に旧京橋本社の場所に新本社ビル新築計画を発表し、2012年8月に本社を移転した。

渋沢史料館は、近代日本社会の基礎を築いた渋沢栄一(しぶさわ・えいいち、1840-1931)の生涯と事績に関する博物館(登録博物館)で、公益財団法人「渋沢栄一記念財団財団法人(旧渋沢青淵記念財団竜門社)」の付属施設として、1982年に渋沢栄一の旧邸 「曖依村荘(あいいそんそう)」跡(現東京都北区飛鳥山公園の一部)に設立された。

展示室のある本館、渋沢栄一の旧邸として大正期に建てられ重要文化財に指定されている「晩香廬」と「青淵文庫(せいえんぶんこ)」を公開している。

渋沢栄一は1878年に飛鳥山に別荘「曖依村荘」を建設し、1886年4月に門下生らが「竜門社」を結成し、1901年に本邸を飛鳥山に移した。最盛期には敷地約2万8000平方メートル、建物約1900平方メートルという広さで、1917年に「晩香廬」を竣工、1925年に渋沢栄一の号「青淵」から取った「青淵文庫」を竣工、1931年11月11日に渋沢栄一が死去すると、旧渋沢邸が竜門社に遺贈された。

1945年4月13日に大東亜戦争時の空襲により建物の大部分を焼失し、1946年に財団名を「渋沢青淵記念財団竜門社」に改称、1982年に渋沢史料館を開館、1998年3月に本館を新築、2003年11月に財団名を「渋沢栄一記念財団」に改称した。

本館は鉄筋コンクリート造の延べ床面積が1653平方メートルの展示施設で、1階に閲覧コーナーとミュージアムショップ、2階に常設展示室と企画展示室がある。

晩香廬は旧渋沢家飛鳥山邸(渋沢史料館)にあり、木造瓦ぶき平屋建てで、渋沢栄一の喜寿(77歳)祝いで合資会社清水組4代目当主の清水満之助(しみず・みつのすけ)が1917年に贈った洋風の小亭だ。晩香廬の名は、バンガローという名の音に当てはめて、渋沢栄一が自作した詩の「菊花晩節香」から採ったといわれている。

和洋折衷の建物で、田辺淳吉のデザインの資質を今に伝える。小さな建物で、さまざまなデザイン・装飾のほか内部の家具も田辺淳吉のデザインで細かい配慮が行き届いている。2005年に国の重要文化財に指定された。

青淵文庫は1925年に渋沢栄一の傘寿(80歳)と子爵昇爵を祝って竜門社会員から贈られた鉄筋コンクリート・煉瓦造2階建て、延べ床面積が330平方メートルの書庫で、外壁は石貼り、テラスに面した窓の上部はステンドガラスで飾られている。建物内部1階は床面チーク材張りの閲覧室、2階が書庫。

渋沢栄一の嫡孫・渋沢敬三(しぶさわ・けいぞう、1896-1963)が収集した論語などの漢籍約6000冊が収蔵されていたが、渋沢敬三の死去した1963年に東京都立日比谷図書館に寄贈された(現東京都立中央図書館蔵)。渋沢史料館の開館当初から本館新築までは展示室として使用された。重要文化財に指定されている。

3月19日、4月9日の13時30分から15時30分まで渋沢史料館で清水建設会社設計本部集合住宅・社寺設計部上席設計長の関雅也(せき・まさや)さんが「渋沢栄一邸の図面を読む」と題して、エデュケーション・プログラムを開く。ただし、すでに満員で申し込みを締め切っている。

開場時間は10時から17時。入場料は一般300円、学生(小中高生)100円。毎週月曜日が定休。3月22日、5月6日も休み。