(当分の間、インドに一時帰国した話を書きます。タイトルはそのままです)
【モハンティ三智江のインドからの帰国記=2024年1月12日】リシケシ(Rishkesh、Uttarakhand州)3日目は、夕刻にトリベニ(Triveni)ガートのガンガー・アールティ(Ganger Aarti、アールティとは火を灯す神具の皿のこと)を見に行くだけで、のんびり過ごすことにした。朝食は、バーガーキングでフレンチフライとアメリカンコーヒーを2階席を独り占めして、ゆったり寛ぎながら摂った。
軽快なウェスタンミュージックが流れる中、外国人にとっては、喧騒から離れたオアシスのような場所で、ぼんやり窓の外を眺めながら過ごす。日本の店だと、どこに行ってもWiFi完備だが、インドではホテルくらいなので、スマホを見ずに無為の時間に身を委ねることになる。スマホ脳になっていた弊害がいくらかはデトックスされる思いだ。
ホテルに戻り、ホットシャワーを浴びてすっきり、日本の皆にインド第1報を発信する。感動的だった4回忌のことを書くうちに、午後の時間は流れ、日が傾きかけてきた。すでにシェアオート(3輪車)に確かめて、1人頭50ルピー(1ルピー=約1.7円)でトリベニガートに行けることを確認済だ。
坂を降りて車道に出ると、路傍に停められたシェアオートには、ローカル客が溢れていた。みな日没のガンガー・アールティがお目当てであることはいうまでもない。詰めてもらって腰掛ける。10人くらいの客をぎちぎちに詰め込んで、オートリキシャは走り出した。
途上、ラム・ジューラ(Ram Jhula)、昔、渡ったことのある吊り橋、凹状の美しいシルエットを描くモダンな設計のサスペンションブリッジが現れ、意外に近いところにあったのに驚き、これなら歩いて行けたな、と午後を漫然と室内て過ごしてしまったことを悔やむ。
まぁ、過去に観光済みなのでいいかと気を取り直すうちに、三輪車は川沿いを突っ切り、ゴミゴミした商店の並ぶ路地を抜けて、ガートの入り口にたどり着いた。帰りのシェアオートがつかまるか、心配だったが、降りて前方に歩き出し、アーチをくぐった広い敷地に出た。人が群がる広場を回り込んだ奥に行くと、大きなガートに出たが、人垣が邪魔して儀式の様子はまったく見えない。
ここが、ガンガー(Ganger)、ヤムナー(Yamuna)、サラスワティ(Sarasvati、伝説上の消えた川)の3つの川が合流するサンガム(Sangam)、リシケシ最大の聖なるガートらしいが、人が多すぎて俗化した感じだ。川の水もどんよりしていて、お世辞にもきれいとは言えない。
川の女神、ガンガー(Ganga)を讃える聖歌が流れ出す中、脇の石段を降りた川のほとりでは、信者が思い思いに、流れに火をともした皿を流している。私も、地べたに座って花と線香皿を20ルピー(約34円)で売っていた少女から買い求め、マッチでともしてもらった葉っぱのお皿を流れに置いた。川の水は濁っており、滞っていたのを、水の中に膝まで浸した子どもが取り上げて中ほどに運んでくれた。
形ばかりであるが、夫と母の慰霊になったかと胸を撫で下ろし、人でごった返すガートを後にした(帰りのオートは1人なので最初200ルピーと言われたが、まもなく外国人が2人乗り込んでくれたおかげで100ルピーで済んだ)。
スマホを掲げる人の壁が邪魔して、儀式の様子はまるで見えなかったが、改めておとといタポバン(Tapovan)エリアのこぢんまりとしたガートで、4回忌供養を済ませられた幸運に感謝した。
トリベニガートは、慰霊に訪れる人も多いらしいが、雑踏の中のよどんだ川で、静かに4回忌がやれたとは思えず、タポバンの小さなガートでプライベートな儀式を行えたこと、タイミングよくガンガー・アールティが始まって最高の供養になったことに心から感謝する思いだった。
翌朝、シェアオートでデリー(Delhi)行きのバスが出る停留所(Nepali Farm)に行き、近辺の小さなレストランでミルクコーヒー(30ルピー=約51円)を飲みながら、バスを待っていたが、いっかな現れない。
停留所と言っても、日本のようにちゃんとした屋根があり、待合席がしつらえられた設備があるわけでなく、ただ道路の端に立ってつかまえるだけ、バスはそこに来て客を拾っていくだけなのだが(会社ごとのエクスプレスバスだけでなく、公営の普通バスも来る)、発車時刻をゆうに30分過ぎてもラクシュミー・ホリデー主宰の首都行き急行バスは現れないため、道の脇にたむろして待つ客が溢れていた。
たまたまムンバイから来たという23歳の現地女性と口をきいたことで、心配していたデリーからのタクシーはシェアできることになったし、スマホでバスが遅れていることも調べてくれ、心強がった。日本に憧れている彼女はITエンジニア、会社勤務を厭い、ひとりリモート越しのコーチングビジネスを起業、時間が比較的自由になるせいで、1週間リシケシの旅を楽しんだという。ヨガだけでなく、ラフティングも満喫したらしい。特に1時間700ルピー(約1190円)のラフティングはオーサムだったらしく、ビデオを見せてくれた。
実は私も、試そうかどうか迷ったのだが、かなづちなので断念したのである。むべなるかな、ゴムボートの前方に座っていた2人の女性が勢いで川に放り出されたらしい。救命具をつけていたので、支障はなかったらしいが、危険と背中合わせのスリリングな冒険、若かったら私もトライしていたところだが、止めて無難だったかしれない。
結局、1時間遅れのお昼前、バスは出発、しかし、途上長々と不可解な停車をし、乗客をやきもきさせた。デリーに着いたのは19時過ぎ、シェアタクシーでニューデリー駅近くのパハルガンシー(Pahar Ganj)にあるホテル、息子が予約してくれたクリック・インターナショナル(Hotel Klick International)にチェックイン(3軒泊まった宿の中では比較的新しく、エレベーターもあり、いちばんよかった。円換算で1800円ほど)、翌日は懐かしの安宿街を散策、外国人旅行者もさして多くはないが、ちらほら。
路地の奥にあるホテルから歩いて10分ほどで、見慣れた通りに出、コロナ前は日本人御用達のホテルとして有名だったイエス・コテージ・ホテル(Yes Cottage Hotel)の1階にあるトラベルエージェンシーで明日の空港行きタクシーを500ルピーでオーダーした。
クリックホテルから800ルピーと吹っかけられていたせいだ。500でも割高なのだが、ネット予約できないため、しかたない。リシケシでSIMカードを買おうと思ったら、不可と言われたのだ。永住ビザ所有者のため、居住地プリーでしか買えないらしい。
外国人御用達のマイダン(Maidan)カフェレストランで、グラスに入ったたっぷりのミルクコーヒーを砂糖なしで飲んで人心地つく。チーズサンドイッチとオニオンオムレツもオーダー、リシケシではパンやバナナで済ませることが多かったため、やっとまともな朝食にありつけた感じだ。
奥の席でほっと寛いで、狭い通りを行き交う人力車やオートリキシャ、車、バイク、人、牛でごった返す様をぼんやり眺める。
オムレツを食べながら、ナイフがうまく使えなかった夫のために、いつも私が切り分けていたことを思い出した。向かいの空席に、本人が来ているような気がした。私と夫が贔屓にしていたナンとタンドリーチキンのおいしかったバーレストラン(Bar Restaurant、料理だけでなく、ビールはじめリカー類も提供)はもうなかった。亡き夫と、飲食を分かちあった思い出の店がなくなってしまったことは寂しかったが、マイダンカフェは健在でうれしかった。
翌朝のインディゴ(IndGo Air)便で2時間後無事オディシャ(Odisha)州都ブバネシュワール(Bhubaneswar)へ到着、迎えの車で1時間30分後、プリー(Puri)の我が家に到着した。11月27日、14時過ぎの同地は、デリーやリシケシ同様、煙霧がかかり、暖かく湿った大気に覆われていた。夕刻浜に出て、1年8カ月ぶりに愛しのベンガル湾に再会した。
〇インド・トピックス1
ムンバイ株式市場、7万ポイント突破!
インド株が爆上がりしている。2022年3月にインドを去るときはセンセックス指数(ボンベイ証券取引所における株価指数=S&P Bombay Stock Exchange Sensitive Index)は5万ポイント台だったと記憶しているから、高騰にはびっくりさせられた。2021年9月の時点で6万ポイント台に達していたらしいが、まさか7万ポイントを超過するとは。アメリカの利下げを見込んでの影響もあるらしい。
買い筋はIT企業銘柄で、投資を勉強中の息子に早速ミューチュアルファンドを勧めたが、私自身はインド株は一度も買ったことはない。経済にあまり強くないのと、株は変動も激しく、投機に下手に手を出して痛い目にあいたくないからである。が、長期展望では上がり続けることは間違いないので、今ブームのインド株に興味のある方にはオススメである。
※その後、インドでコロナのJN1変異株が急増している現状から(南のケララやゴアで、特にケララでは死者も。全土感染者数3742人、12月24日、1日当たり656人、過去ひと月で52%と急増)、急落したが、7万ポイント台を維持(本日7万1106.96ポイント)。
ちなみに、ボンベイ証券取引所は1975年設立(アジア最古)と東京証券取引所(1978年)より古いが、市場規模は東京の10分の1程度で、30の株式から構成されている。
〇インド・トピックス2
2000ルピー札、2023年10月に廃止
2016年11月に500ルピー札と1000ルピー札が前触れなしに突如廃止になり、巷を大混乱におとしいれたことは記憶に新しい。パニックに陥った国民は銀行に長蛇の列を作り、長い待機時間に死者まで出たりと、辛酸を舐めさせられたものだった。
いくら闇金撲滅の名目とはいえ、抜き打ち的な愚策であることはいうまでもなく、市場を大混乱におとしいれたモディ(Narendra Modi)政権の罪は大きい。これにも懲りず、またしても廃止を敢行、こんどは7年前の廃止後新札として流通し出した最高額紙幣2000ルピー(約3400円)札が、役目を終えたとの理由で廃止に追い込まれる成り行きになったのである。
日本滞在中、デッドラインが9月末で(その後10月7日まで延長された)とネット越しの現地ニュースで知った私は、慌てて息子に問い合わせ、現地のインド準備銀行(RBI=Reserve Bank of India)に確認してもらった。2000ルピー札を22枚も手元に所有していたからである。
NRI(Non Resident Indian、非居住インド人=海外在住のインド人並びに市民権に準ずる永住権を持つ外国籍者)には特別に締切を過ぎても、RBIに持っていけば換金可能と言われ、まずはひと安心、11月27日にオリッサ州プリーの我が家にたどり着いた私は後日、州都のRBIに2度出向き、必要書類を提出し、別の銀行口座に振り込んでもらう形での換金に成功した。
窓口にはたくさんの人が並び、列を作っていたが、私は特別扱いで並ぶことを免除されたものの、まさか紙幣廃止が2度あろうとは思ってもみなかっただけに泡食った。ちなみに、闇でも換金可能で、手数料は1枚あたり200ルピー、私の場合なら4400ルピー(約7500円)となる。長い列に並んで何時間も待たされる手間を思うと、枚数が少なければ闇のほうがベターかもしれない。
編集注:ウイキペディアによると、インドでは1996年から発行開始され、現在流通している紙幣は「マハトマ・ガンディー」シリーズと呼ばれ、5ルピー、10ルピー、20ルピー、50ルピー、100ルピー、200ルピー、500ルピー、2000ルピーの8種がある。17カ国語(英語とヒンディー語が表面、残りの15カ国語が裏面)で額面の記載がある。
2016年の高額紙幣廃止によってそれまで流通していた1000ルピーが廃止され、500ルピーは新札となり、新たに2000ルピー札が発行された。新札には偽造防止技術が付加されており、額面ごとにサイズが異なるのも特徴である。その後、2017年から2018年にかけて10ルピー、50ルピー、100ルピー札にも新札が登場し、200ルピー札も新たに発行された。
2023年5月19日にはインド準備銀行が2000ルピー紙幣の流通停止を発表し、法定通貨としては引き続き使用可能なものの、同年9月末までに他の紙幣への両替や預金を推奨するとした。2000ルピー紙幣は9月30日以降も法定通貨として存続するが、取引目的での使用は認められず、インド中銀とのみ交換できる。
(「インド発コロナ観戦記」は、92回から「インドからの帰国記」にしています。インドに在住する作家で「ホテル・ラブ&ライフ」を経営しているモハンティ三智江さんが現地の新型コロナウイルスの実情について書いてきましたが、92回からはインドからの「帰国記」として随時、掲載します。
モハンティ三智江さんは福井県福井市生まれ、1987年にインドに移住し、翌1988年に現地男性(2019年秋に病死)と結婚、その後ホテルをオープン、文筆業との二足のわらじで、著書に「お気をつけてよい旅を!」(双葉社)、「インド人には、ご用心!」(三五館)などを刊行しており、コロナウイルスには感染していません。また、息子の「Rapper Big Deal」はラッパーとしては、インドを代表するスターです。
2023年9月4日付で「CoronaBoard」によるコロナ感染者の数字の公表が終了したので、国別の掲載をやめてます。編集注は筆者と関係ありません)