椅子と骨(短編小説編4)

【モハンティ三智江のフィクションワールド=2024年1月5日】移住地に戻って彼が初めて、夢に現れたとき、私は怖かった。待つ人のいないがらんとした本宅、そこかしこに故人の匂いや想い出が染みついた家で絶望感に苛まれ、深い喪失感から睡眠薬なしでは眠れない日々を送っていた。

パートナーの死がいまだ受け入れられず、ぼんやり放心状態だった私は癒しがたい傷をひとときでも忘れられる睡眠へと、クスリで逃げた。

そんな痛々しい絶望の一夜、私は仮眠状態のままふらりと階下に降りて、リビングのベランダへと続くドアを開けた。そのとき、真っ黒なシルエットが忍び寄って来るのに私は恐れおののいた。顔のわからない黒い影は、のっぴきならない問題を抱えていたんだよと訴えてきた。

それは確かに彼の声だったにもかかわらず、薬の力で睡魔に酔わされていた私はとっさに、幽霊だと思い、怖くてたまらず、逃げてしまった。彼はどんなにか傷ついたろう。肉体がないだけで、33年間共に暮らしたパートナーに幽霊扱いされ、怖いと退けられるなんて。

哀しかったろう。寂しかったろう。彼はただ、わかってもらいたかっただけなのだ。重いストレスを抱えていて、それが心臓に負担をかけたことを。最期の対面はおろか、葬儀参列も叶わず、やっと戻ってきた外国人妻の私に。

前年襲ったスーパーサイクロンで、ゲストハウスの一部は甚だしい損傷を食らっていた。客も激減し、採算は赤字に転落した上、修繕費用が重くのしかかっていたのだ。が、彼は私に何も言わなかった。弱音を吐きたくないとの、男の沽券もあったのだろう。

サイクロンの翌年、骨折して歩行不能になった老母を見舞うため私が帰国しなければならなくなったとき、彼は珍しく、行かないでほしいと懇願してきた。2年前、肺炎を悪化させICU(集中治療室、Intensive Care Unit)から奇跡的に生還した彼の体調がその後も思わしくないことはわかっていて、私は残酷にも、彼と母を天秤にかけて、高齢の母の方が確率的に先に逝く可能性が高いと、彼を振り切って、母を選んだのだ。彼はまだ60代、健康を害し、先が長くないだろうことは薄々勘づいていたが、90歳過ぎの老母に比べると、まだ大丈夫とタカを括っていたのだった。

出発前日、黒革の椅子に座る彼と、オフィスで短い会話を交わした。彼は、ゲストハウスをテナントに出すことを考えていると、洩らした。私はさすがに驚いたが、あまり真剣に取らず、貸し出したら、何もやることがなくなっちゃうわよと、反対した。薄々何かを感じていて、見て見ぬふり、どこまでも楽天的、能天気な私だった。まさか伴侶がそこまで追い詰められているとは思ってもみなかったのだ。

いずれししろ、これが私たちの最期の対面、肉体を持った彼との、この世での最期の会話になろうとはそのときは予想だにしなかった。

出航地である南の都会、息子の暮らすマンションに立ち寄り、そこから旅発ち前に彼に電話を入れたとき、暗く沈んだ声が返ってきて、今さらながら鬱屈の深さを思い知り、後ろめたさを覚えたが、あえてその感情に蓋をして、また見て見ぬ振り、無視してしまった。

そんな心ないパートナーの仕打ちにしっぺ返しをするかのように、彼は私の不在中に心臓発作で倒れ、病院に運ばれた。そして、手術を余儀なくされる。詰まった血管をステントで広げる緊急手術は幸いにも成功し、異国で気を揉む私を一時的に安堵させた。にもかかわらず、数日後再発作に見舞われ、還らぬ人となったのである。

前日、無料アプリで国際電話したときは、元気そうな声が返ってきて安心していただけに、訃報がにわかには信じられなかった。甥からの不在着信がいくつも届いていたが、呑気にも異変を感ぜず、 丸1日放置し応ぜずにいた私だった。

唯一不吉な予感に胸騒ぎを覚えたのは前日、図書館の公共パソコンの使用受諾レシートの番号が「4444」と打ち出されたときくらいだったが、それもあとになって振り返ってみて、予兆とわかったことだ。もうひとつ、何十年も前に亡くなった祖母が突然、夢に出てきて無言で心配そうに私をじぃーっと見つめたことも、今となっては予兆と言えないこともない。

翌昼過ぎ、図書館の公共WiFiを使って国際電話すると、彼の携帯になぜか甥が出てきて、「ヒー・イズ・ノーモア」と重々しく告げた。その宣告すらも、最初、私は彼が席を外しているだけのことと勘違いし、無頓着だったが、次の瞬間はっと思い当たったように、「それって、死んだってこと?」と、あからさまなダイという英語で問い返していた。

イエスの返事が返ってきたとき、私はただ茫然自失の呈で、伴侶の死がにわかには信じられず、ふらりと図書館を飛び出した。狼狽して、ふらふらと街中をさまよった挙句、自室に戻って床にくずおれた。動揺が烈しく、足は地に着いていなかった。涙は一滴も流れてこなかった。ショックが大きすぎて、現実を受け入れられなかったのだ。

夜、息子に電話を入れて、いまだ訃報を知らされていなかった我が子に父の急死を告げ、息子がすすり泣く声を聞いて、やっと麻痺していた感覚が蘇ったようにわっと泣き出した。ショックのあまり干上がっていた涙腺から、一度に涙が噴き上げ、その夜じゅう泣き明かした。

ただ、ただ、後悔しかなかった。彼の懇願を聞き入れて、現地にとどまらなかった自分をいつまでも責め続けた。少し前のビデオコールで、彼の顔が痩せ細った青白い幽鬼のようだったことを思い出し、あまりの痛々しさに直視できず目を背けてしまったのだが、あれが画面越しに見る最期と知っていたら、バーチャルとはいえ、もっときちんと応対していたのにと、悔やまれてならなかった。

以後、出発までのひと月間、街中をただひたすら夢遊病者のように歩き回り、鬱々と重く沈む気分を紛らわした。が、何を見ても、フラッシュバックのように、街景が直接には関係のない彼の想い出と重なり、涙ぐんで視界がぼけた。

私の人生であれほど哀しい思いをしたことはなかった。誕生日が迫っていたが、その年のバースデー、私は世界で一番不幸なウーマン、否、ウィドウだった。半身を無理強いにも切り取られたような理不尽な苦悩に悶え続けた。

(「フィクションワールド」はモハンティ三智江さんがインドで隔離生活を送る中、創作活動にも広げている続きで、「インドからの帰国記」とは別に、短編など小説に限定して掲載します。本人の希望で画像は使いません)