椅子と骨(短編小説編6)

【モハンティ三智江のフィクションワールド=2024年2月27日】法律に詳しかった彼は、遺族が残された膨大なファイルの山を前に困惑しているのを見て、家族がこんなに困るとは思ってもみなかったと、無念ともつかぬ悔いを夢の中で伝えてきた。

うず高く積まれた書類の中には登記も含まれていて、無造作に折り重なった紙の束を前に右往左往している息子と私を見て、「まさか僕が逝ったあと、こんなに困るとは予想もしなかった」と、悔恨を伝えてきたのだ。

後継ぎである息子が、書類の整理に辟易し、何ら遺言らしきものを残さなかった父に恨み言をぶつけた日の夜、彼は息子の夢にすまなそうに現れて、「怒らないでくれ、大丈夫だよ、僕が何とかするから、悩むなよ、すべての責任は僕が請負うから」と宥めすかしてきたという。

彼の気持ちはわかるが、肉体がないままでどうやって責任をとるというのか、息子でなくとも腹立たしく、一方で前身が司法書士だった彼がいて、手際よく重要書類の仕分けをしてくれたら、どんなにか助かったろうと、今さらながら急死が惜しまれてならなかった。

彼はすべての面で頼れる存在だった。妻子を守り、面倒をよく見る男気のある人だった。一面頑固で怒りっぽかったが、いなくなって初めて、私たち母子にとって、彼がいかに大きな存在だったかがわかる。私は幸福な人妻、息子は溺愛される独り息子という特権を喪ったのだ。

ときどき私は、夫婦ごっこ、家族遊びのままごとに興じていただけなんだと思うことがある。異国に移住して国際結婚、幸福な家庭を演出する夢に溺れていたたけのことだと。それにしたって、旅先の特大ダブルベッドで親子3人が川の字になって眠る至福は未来永劫に喪われてしまったわけだった。

1周忌の前日、真夜中に私の寝室のドアをノックする誰かがあった。仮眠状態のまま起き上がった私はとっさに、ドアを開ける。そこには、生前の元気だった頃の、完璧な肉体そのままの彼が、佇んでいた。私は感無量で彼を見上げ、涙ぐんだ。彼は私をありたけの力をこめてひしと抱き竦めた。万感こもる最期の抱擁だった。

翌日、しめやかに1周忌が現地の慣習に則って執り行われた。参列叶わなかった1年前の盛大な葬儀と比べると、静かでこぢんまりとした儀式だったが、息子は夢に現れた父に疫病流行の事情を告、了承を得ていたのだ。

隔離期間中の1周忌をつつがなく済ませたあと、彼は我が家から忽然と消えた。真の意味で旅発ったのだ。彼の属する宗教では、死後魂は1年間さまようと言われていたが、その通りに365日本宅にとどまり、遺族を見守ったあと、僧の読経の声に送られ、別次元に上がったのたった。

内心は行きたくなかったのかもしれないが、もう時間切れだった。どんなに行きたくなくても、私たちとここにとどまり続けたくとも、彼自身行かねばならないことをいやというほどわかっていた。いつか私にむごく促されたように、家族も魂が浄化され、天に上がることを望んいるのを知っていた。

いつまでもここにいてはいけない、身を切られるような辛さでこの世の愛しい者たちとの別れを決めたのだ。1周忌がひとつの区切りで、これを逃すと、昇天できず、永劫に地縛霊としてさまよい続けなければならないことを、本能、いや霊知で悟っていたのだろう。

彼の遺体が安置されたことで、1階の部屋は夜通し電気をつけっぱなしにしなければならない現地の慣習があったが、それも不要になった。1周忌のセレモニーを終えたそこは急にがらんとなって、故人が肉体を脱ぎ捨てたあとの精妙なエーテル体も感ぜられなくなり、私はむしょうに寂しかった。彼の存在は跡形もなく、消えたのだ、手の届かない別次元へと。

私は急に込み上げる深い悔恨、いつだったか日中彼が訪ねてくれたとき、なんでもっと優しく愛情深く応対できなかったんだろうと、悔やんだ。まだいたの、まだ天国に行っていなかったのと驚き呆れ、追い立てるべきでなく、ひととき彼の精妙なる存在と時空を分かち合い、稀少な再会を喜ぶべきだった。1周忌の前夜の最期の抱擁、ありたけの力をこめてきつくかき抱(いだ)がれた尊い一瞬が蘇り、切なかった。

(「フィクションワールド」はモハンティ三智江さんがインドで隔離生活を送る中、創作活動にも広げている続きで、「インドからの帰国記」とは別に、短編など小説に限定して掲載します。本人の希望で画像は使いません)