ホテルの夜中の騒音被害も、翌日の滝行は楽しいトレッキング(142-2)

(当分の間、インドに一時帰国した話を書きます。タイトルはそのままです)
【モハンティ三智江のインドからの帰国記=2023年12月29日】夫と母の散骨を済ませ、リシケシ(Rishkesh、Uttarakhand州)の河岸からホテルに戻ると、上からの騒音は依然続いていた。

タポバンエリアに近い小さなガートからは、ラクシュマン・ジューラという吊り橋が遠望できる。ヒンドゥー教のラクシュマン神(インド最大の叙事詩ラーマヤナの主人公ラーマの弟)がたった2本のロープで川を渡った伝説に由来し、名付けられた。

まだ19時前だから、あと3時間くらいしたらレストランも閉まって、大音量の音楽も収まるかなと諦めて、ベッドのヘッドボードに枕をふたつクッション代わりに立てかけて休憩、法事を無事済ませた安堵感から肩の荷がどっと下りる思いで、ガンガー・アールティー(Ganger Aarti、アールティとは火を灯す神具の皿のこと)とのタイミングが合って、最高の供養になった感激冷めやらぬまま、写真やビデオをチェックしつつ反芻、上から降ってくる音楽が、静かに余韻に浸りたい気持ちを妨害する。

お腹は空いていないが、途上買ったパンやバナナがあるので、簡便に済まし、早く床につくつもりで、待つともなく上の音楽が止むのを待っていたが、いっこうに鎮まる気配がない。

漫然とネットサーフィンしていたが、22時前には軽食を済ませ、23時には横になった。しかし、上の音がうるさくて、日本からこの方の長旅の疲れが極限に達しているにもかかわらず、眠れない。

音楽に加えて、話し声も聞こえてくる。どうやら外国人客がたむろして、大声で騒いでいるようだ。眠れないままに輾転反側(てんてんはんそく)してスマホのタイムをちらと見ると、夜中の1時過ぎだった。いくらなんでも非常識だ。飛び起きた私は上に上がり、苦情を漏らしに行った。

「何時だと思っているの、ここはホテルなのよ、ほかの客の迷惑を考えてちょうだい」、英語でぴしりと文句を垂れたら、欧米からと思われる金髪の女性がソーリーときまり悪そうに謝った。

レストランと言っても、テーブルや椅子はなく、ただだだっ広いフロアだけ(昔はヨガルームとして使っていたらしい)、そこに座った外国人客が従業員と入り乱れて夜中に他の客の迷惑も省みす、ギターをかき鳴らしたり、大声で歌ったりしているわけだ。私は完全に切れていた。まったく従業員まで共謀、ホテルのゲストの安眠妨げに一役買っているのだから、なにをか言わんや。ここは、レストランがメインじゃないはず、あくまでホテルだ。

憤慨して足音荒く自室に戻ったが、ふてぶてしいというか、音が止む気配はない。小柄な年配日本女性と見くびられているようだ。しかし、さすがに2度注意する気にはなれず、眠れないときのとっておきの秘術、瞑想で乱れた心を鎮めて床についた。

ラクシュマン・ジューラの近くまで徒歩で来てみると、英コロニー来の年季の入った吊り橋は閉鎖中だった。

翌朝は5時に目覚め、日の出を見るためまだ薄暗い中を、川に出た。短時間寝ただけだが、瞑想効果で割と深い眠りをもたらされたので、あまり寝不足には感じない。渡航前から、緊張で早朝目覚めてしまう癖がついている。その前は野放図に9時頃まで寝ていることもあったので、早起きは望ましく、このまま習慣として根付いて欲しいとの気持ちもある。

川まで降りて聖なる日の出を待ったが、日が昇るのは山の裏側で、ベナレス(Varanasi、Utter Pradesh州)のようにガンジス河から昇る朝日が見れるわけでなかった。白みかけた川辺の大石に腰を下ろして、朝の爽やかな空気を吸った。

デリー(Delhi)この方煙霧で、大気はもやっているが、透明なせせらぎの流れる小さなガート(Ghat、河岸)はまだしも清々しい。ヒマラヤ山脈の麓まで大気汚染が追いかけてくるとは、予想だにせず、嘆かわしいが、ポリューションは今に始まったことではない。コロナは収まっても、マスクは手離せない感じだ。

辺りを散策すると、石段の横手の大きな石がゴロゴロしている向こうに小さな砂場が開けていることに気づき、岩によじ登り、降りてみた。そこからは、ラクシュマン・ジューラ(Laxshman=Laxman Jhula)と言われる吊り橋がよく見え、眺望が素晴らしかった。

元のところに戻って石段を上がり、道を少し行ったところで右折すると、ラクシュマン・ジューラが真ん前にあった。しかし、工事中で渡れないようだ(あとでわかったことだが、英コロニー=東インド会社来の旧橋は2020年から閉鎖)。

高所恐怖症の私は、もうひとつの壮麗な吊り橋、ラム・ジューラ(Ram Jhula、ラクシュマンより大きく1986年創架)を過去に渡ってひじょうに怖い思いをしたことがあり、今回は最初からパスするつもりだったので、ただ見るだけで通り過ぎた。さらに行くと、シヴァ(Shiva)やパールヴァティ(Parvati、シヴァの妻)の偶像が祀られたガートが現れ、降りると、吊り橋の壮観が望めた。

ニール滝へと上がる山道の入口には、道標が掲げられていた。

向かいの屋台店で、ミルクコーヒーとトーストをオーダーし(50ルピー、1ルピーは約1.7円)、川を見下ろす簡易テラスのテーブルに座って、眺望を楽しみながら朝食を済ませた。

これからホテルに帰ってシャワーを浴びて、一服したら観光に出るつもりだったが、どこへ行こうかと漠然と思いを馳せる。再々訪なので、行ってないところがいい。滝が5、6キロ離れたところにあると聞いていたので、行ってみるつもりだった。

昨夜の騒音騒ぎは忘れて引きずっていなかったが、ホテル名は、「コージーベッド」ならず、「ノイジーベッド」と改名してもらいたいくらいだった。後で、レビューコメントに嫌味たらしく書いてやろうかと思った。

お昼前部屋を出た私は、ニール(Neer)滝に向かった。オートリキシャで行こうと思ったら、乗車拒否された。途上、トラベルエージェンシーで訊くと、徒歩で6キロの道程を行くしかないらしい。タクシーだと1400ルピーと法外な値を言い渡されたからだ。幸いにも、日本で歩行は鍛えているので、6キロくらいならなんとかなると歩き出した。

途上バーガーキングやドミノピザ、バリスターがあるエリアを見つけ、帰りに寄って食事をしようと思った。ローカルレストランのカリーが辛すぎて食べれない私なのだ。インドの辛さは日本と違い、胸焼けするので苦手だ。一口食べただけで、胃の腑にズンときて、不快な胸焼けに悩まされる。インドのスパイシーフードは、胃弱の私にはご法度、避けるに越したことはない。

滝へと上がる山の入口までは、さして疲れもせずに、予想以上に早く着いた。途上、蛇行して流れるオリーブグレーの川を俯瞰しながら、壮観を楽しみつつ進めたせいもあった。しかし、本番はここからだ。

山道の途中でインド人ライダーに拾ってもらってようやく行き着いたニール滝(250メートル)では、ローカルファミリーが楽しそうに沐浴していた。

山道を登ってしばらくいくと、自然公園の入口があり、そこで入場料50ルピー(外国人料金でローカルなら30ルピー)を払った。係員にこれからがロングウェイと脅かされる。

確かに長かった。つづら折りの道を登れども登れども、ゴールは見えて来ない。平地の歩行は5キロくらいでも、さらに山道が3キロくらいある感じだ(全行程8キロから9キロ)。30分以上行ったところで、バイクにまたがったインド人ライターとすれ違い、彼が親切にもピックアップを申し出てくれた。

助かった。私はオファーをありがたく受け入れ、後部座席にまたがった。急カーブの崖道をバイクは突っ走り、スリリング、曲がりくねった細い山路を走り、20分後に目的地にたどり着いた。もし歩きだったら、たっぷり1時間以上かかったことだろう。ほんとに助かった、拾ってくれたライターが天使の顔に見えた。

とば口をさらに上がり、15分後に豪快に落下する滝が見えてきた。小さな橋がかかり、渡れるようになっている。乳緑色の滝壺では、インド人ファミリーが沐浴しながら、歓声をあげていた。一見の価値はあり、拾ってくれたライダーに改めて感謝した。流れに手を浸してみると、水はひんやり冷たかった。

帰りは楽だった。険しい山肌や、鬱蒼とした樹木、山中の眺めを楽しみながら降りて、平地をてくてく戻る途上で、バーガーキングに立ち寄り、ヴェジバーガーとフレンチフライ、コーラ(219ルピー、約370円)をオーダー、野菜との触れ込みのバーガーにスパイシーなカツレツ(コロッケ)が挟まれており、取り除いて食べたが、フレンチフライはおいしかった。店内は小綺麗で、洋楽が流れており、外国人の私にはほっと寛げる雰囲気だった。ホテルからだと歩いて20分くらい、明日もここを利用しようと思った。

●Diary from Puri(プリーからの便り、12月2日)

11月27日にプリー(Puri、オディシャ州=Odisha)の我が家に無事帰着した。インドに入って12日目、まだジェットラグの名残はあるが、徐々に海辺の湿った暖かい空気にも馴染みつつある。昼間は30度近く上がり、最低気温は20度前後、朝晩は涼しめ、割と過ごしやすいインドの冬季に突入している。

難は煙霧。デリーこの方、大気が霞んで、視界が靄がかかったようになっており、首都の大気汚染は悪名高いので、あぁ、また例のスモッグかと驚きもしなかったが、230キロ離れたヨガの聖地リシケシでも変わらず、果てはプリーまで、煙霧が晴れることはなく、さすがに唖然とさせられている。プリーのAQI(Air Quality Index)は、手元のスマホによると、本日12月2日は248、健康にひじょうに危険な指数である。

朝日ののぼるベンガル海に、漁に繰り出す荒くれ男たち。

前の道(Chakratirtha Road)の交通量の烈しさは相変わらずで、ひっきりなしにクラクション(インドてはhorns=ホーン)が鳴り響き、バイク、オートリキシャ(三輪車)、タクシー、自家用車、トラック、バスが入り乱れて行き交う中、牛がのそりのそりと我が物顔に侵入し、路傍の違法駐車(というか、インドでは違法ではなく、どこに停めてもいい)で、歩道がなく、歩きにくいことこの上なく、通行人には劣悪な環境である。

とにかくこれらの車が吐き出す排気ガスで空気が汚れ、喧騒と埃と、メインロードに即した我が家やホテル(Hotel Love & Life)も、埃まみれ、いまやインドは田舎町まで大気汚染を免れえない惨状である。

歩道なき道の脇を車やバイク、三輪車、牛をよけながら、浜に出ると、ほっとする。相変わらず観光客がポイ捨てするゴミが散乱してるが、州政府がプリを国際観光タウンに変貌すべく整備を進めているせいで、石段を降りた砂浜のとば口には椰子なども植樹され、政府経営のコテージ施設もオープン、さらに行くと、何もない砂地、その先に壮大なベンガル湾が開けている。

ほのかな潮の香に大気汚染もひととき忘れる。東西に長々と横たわる海岸線(南インドまで480キロ続く)は壮麗だ。この海だけはまだしも変わらないと、ほっと心を和ませてくれる。近年ベンガル湾(Bay of Bengal)の侵食が甚だしく、海沿いの大型ホテルが垂れ流す排水でドブ川ができて異臭を放ち、嘆かわしい状態だが、海そのものはかろうじて汚染を免れている。聖なるガンジス河の流れ着く先の聖海なのだ。

インドに1年8カ月ぶりに戻って、大声で喚く人や車・バイク・三輪車のホーン、大音響の音楽と、喧騒の嵐に見舞われている私、カオスの大国のさなかに久々に投げ込まれて、まだ馴染まず、いかに日本が快適だったかを実感するも、いつまでも引きずっていてもしかたない、郷に入っては郷に従えだ。

最後になったが、パンデミック中2年間休業要請を強いられた我がホテルはお陰さまで復活、お客さんで賑わっている。ただし、外人客は皆無、主に北隣の西ベンガル州方面から訪れるインド人の家族連れである。

コロナを挟んで物件が売却されたり、オーナーが亡くなったホテルも少なくなかったようだが、C.T.ロード沿いの東海岸ホテル街は、何とかサバイバル、クリスマス・新年シーズンに向けて活況を呈している。

ちなみに、西海岸のホテル街の方が大規模、エリアも発展している。昔は西がインド人御用達、東が穴場で外国人向けだったが、今は東西変わらず、インド人だらけ、ひとつには、プリーはヒンドゥー教の有名な聖地で、ジャナガンナート・プリーとして名が売れていることもある(Jagannath templeは12世紀創建のプリーの名刹で、巡礼旅行者が絶えない)。

(「インド発コロナ観戦記」は、92回から「インドからの帰国記」にしています。インドに在住する作家で「ホテル・ラブ&ライフ」を経営しているモハンティ三智江さんが現地の新型コロナウイルスの実情について書いてきましたが、92回からはインドからの「帰国記」として随時、掲載します。

モハンティ三智江さんは福井県福井市生まれ、1987年にインドに移住し、翌1988年に現地男性(2019年秋に病死)と結婚、その後ホテルをオープン、文筆業との二足のわらじで、著書に「お気をつけてよい旅を!」(双葉社)、「インド人には、ご用心!」(三五館)などを刊行しており、コロナウイルスには感染していません。また、息子の「Rapper Big Deal」はラッパーとしては、インドを代表するスターです。

2023年9月4日付で「CoronaBoard」によるコロナ感染者の数字の公表が終了したので、国別の掲載をやめてます。編集注は筆者と関係ありません)