仏皇帝を歴史に翻弄され、空虚な人形と描いた「ナポレオン」(383)

【ケイシーの映画冗報=2023年12月21日】2022年の3月に、こんな報道がされました。「ロシア人作曲家、チャイコフスキー(Pyotr I.Tchaikovsky、1840-1893)の序曲『1812年』の演奏が取りやめになる」というものです。

12月1日から一般公開されている「ナポレオン」。作品は「PG12」(小学生以下は保護者の助言・指導が必要)に指定されている。

「1812年」は、フランス皇帝のナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte、1769-1821)が率いるフランス軍の、ロシア遠征敗北を描いた戦勝曲の意味があり、この時期、激しく戦われていた、ロシアによるウクライナ(Ukraine)侵攻という時節にふさわしくないという判断があるとされました。

18世紀末から19世紀の初頭。激動のヨーロッパを生きたナポレオン。その名前は日本でも広く知られていますが、一番、通りが良いのはブランデーの等級でしょうか?

本作「ナポレオン」(Napoleon)の物語はこの人物がひとりの下級将校であったフランス革命(1789年7月14日から1795年8月22日)からじまります。革命軍の一員であったナポレオン(演じるのはホアキン・フェニックス=Joaquin Phoenix)は、旧体制派を大砲を活用して徹底的に叩きます。その実績から24歳で陸軍少将となったナポレオンは、未亡人であったジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(Josephine de Beauharnais、1763-1814、演じるのはヴァネッサ・カービー=Vanessa Kirby)と結婚します。

家庭という安息に満足することはなく、ナポレオンは征途を歩み続けます。革命で混乱したフランス国内を平定し、干渉してくる周辺国と戦い、さらにはヨーロッパを離れたエジプトにまで、軍を進めていきます。

軍人と政治家としての階梯をのぼり、ついにはフランス皇帝となったナポレオンですが、戦いは終わらずロシアへと出征すると、ここで潰走することになります。ところが、歴史はふたたび、彼に力を与えるのでした。

本作で強く印象づけられるのが、ホアキン・フェニックスの演じるナポレオンの“印象の薄さ”です。軍の先頭に立ち、敵兵と相対して剣も振るうのですが、英雄豪傑の要素はなく、命のやりとりにおびえているようにも見えます。当時の陸軍軍人として、きらびやかな軍服を身につけていますが、どこか薄汚れ、豪奢なイメージは希薄です。その表情もどこか空虚で感情を見せません。

若き日のナポレオンは“痩せた野良猫”と称されるような風貌だったといいます。有能な軍人であったことは間違いないのですが、ヒーロー的な描き方をされていないのです。

監督のリドリー・スコット(Ridley Scott)は、こう語っています。
「人々が今でもナポレオンに魅了される理由の一つは、彼がとても複雑な人物だったからだと思います。(中略)私が映画監督として惹かれたのは彼の人物像であり、それが歴史を超えて心の中に入ってくることなのです」(パンフレットより)

ナポレオンは「傑出した改革者だった」と歴史に明るい友人が教えてくれました。ナポレオンが徴兵制を敷いて国民軍を作ったことで、それまで貴族や王族のもつ“私兵”や賃金で戦う“傭われ兵”の軍隊は国民軍に勝てなくなったといいます。

失った兵員を国民から補充できたナポレオンのフランス大陸軍(グランダルメ=Grande Armee)についてナポレオンは、「自分は1カ月ごとに3万人を失ってもかまわない」と味方の損害に無頓着という、恐ろしい計算もしていたそうです。

その一方で、軍功をあげた将兵には昇進や勲章を与え、実績と能力を評価する人事をおこなったのです。ナポレオン本人もフランスではなく、コルシカ島(イタリア系で、ナポレオネ・ボォナパルテと発音)の貧乏貴族であり、戦功で地位を得た人物でした。ロシア遠征においても、主力はフランス人でしたが、人種的にはヨーロッパ中が、ナポレオンの指揮下にいたとされています。

国民のための公教育を全国に広めたのもナポレオンです。それまで、宗教が独占していた教育を国家が与えることで、結果的に近代的な市民社会が作られました。いまでは一般的になった初等教育=小学校はナポレオンの教育改革によって生み出されたのです。

こうした部分に本作はあまりフォーカスしていません。“歴史に残る英雄”といった輝かしいものではなく、敵対した陣営からは“悪魔”や“食人鬼”と畏れられた雰囲気も感じさせず、正直、どこにでもいそうな人物なのです。

なにかに操られるかのように戦地に赴き、戦い、勝利しても、最愛の女性の前でも、ひどく孤独に見えるナポレオンという人物が、空っぽの人形にすら感じられるのですが、それこそが監督の狙いかもしれません。まさに「歴史に翻弄された英雄」というのが本作の真理なのかもしれません。上映時間2時間38分は、ひとりの英雄を描くには、あまりにも短いということなのでしょう。

次回は「ハンガー・ゲーム0」の予定です(敬称略。【ケイシーの映画冗報】は映画通のケイシーさんが映画をテーマにして自由に書きます。時には最新作の紹介になることや、過去の作品に言及することもあります。隔週木曜日に掲載します。また、画像の説明、編集注は著者と関係ありません)。