(インドに一時帰国した話を書きます。タイトルはそのままです)
【モハンティ三智江のインドからの帰国記=2024年3月12日】昨年11月21日から2024年2月4日までインドに一時的に戻っていたが、2月7日早朝に関西国際空港に帰着した。
パンデミック(世界的大流行)下の現地隔離生活から解放され、夢にまで見た母国の土を踏めたのが2022年3月のことだった。在コルカタ(旧カルカッタ、Kolkata)日本国総領事館の提供する在留邦人向け陰性証明発給の無料サービスを利用して、命からがら現地を逃げおおせたのである。
日本フォーマットの陰性証明取得は、私が住んでいる田舎町のプリー(Puri)ではほぼ不可能に等しく、折りよく舞い込んだ日本政府からのヘルプの吉報に、これを逃したらもう帰れないと、飛びついたのであった。
それ以来、日本にとどまり続け、2023年5月に新型コロナウイルスが5類に移行し、制限が解除されてからは、状勢を見ながらインドに戻る機会を窺っていた。現地のホテル業(「Hotel Love & Life(ホテル・ラブ&ライフ)」、C.T.Road, Puri, Odisha)を放任状態で日本に逃げ帰っただけに、内心戻るのが怖かった。
時期的にも5月は酷暑季で折柄の解除で渡航者が殺到し、航空運賃も値上がりしていたし、そのままずるずると居座り続け、やがて現地は雨季(7月から9月)に入っていく。折しも息子からインドへの帰国を促されたが、今ひとつ気が乗らず、帰るなら漠然と絶好シーズンの冬季(11月から2月)と考えていた。
そうこうするうちに、現地人の夫の4回忌が近づいてきて、生前彼の気に入っていたガンジス川(Ganga)源流の注ぐ聖地リシケシ(Rishikesh)で、プライベートな儀式を執り行う案がふっと浮かんだのである。
10月に喪主である息子が遺灰をガンジス川に流す正式の儀式を内陸部のアラハバード(Allahabad)で済ませていたが、未亡人である私は参列叶わなかった。ヒンドゥー教(Hinduism)の慣習で、現世への愛着を断ち切るため、伴侶の同席は望ましくないと釘をさされたせいである。
理不尽に思ったが、しょうがない。実際、我が身の愛着、亡き夫への妄執(もうしゅう)にも、今さらながら思い知らされ、もうそろ解放してあげなければならないと、気づかされた。
そのけじめのための儀式をふと、リシケシで行おうと思ったのである。命日は11月22日(2019年)、おのずと日程も決まり、前日に首都デリー(Delhi)に入る便を息子に取ってもらった。
密かに危惧していたインドへの帰国は思いのほか、スムーズで楽しいものになった。それは、私にとって、かつては永住の地と定めたプリーとの訣別の再確認でもあったが、深刻さはなく、その気になればいつでも一時的に戻ってこれるという、繋がりは残された形になった。
ホテルを任せていた甥とも、自然に関係改善、後継ぎである息子が月1で会計チェックする体制のもとに改めて託すことになった。私の側で取りたてて努力したわけではない。2年以上放ったらかしにしていたのだが、それがかえってよかったようである。パンデミック下、すでに夫を亡くしていた私は、彼のレガシーを引き継いでホテルを維持管理しなければと力んでいたのだが、そのときは空回りして周囲との関係も悪化するばかりだったのだ。それが、流れに任せたら、自然とうまく行ったのである。
ホテルは、主に北隣のベンガル州(West Bengal)方面からの家族連れ旅行者で賑わっていた。プリー(東インド・オディシャ州ベンガル湾沿いの保養地)はヒンドゥー教の有名な聖地であるため、ユニバースロード(宇宙の主、Universe Load)、ジャガンナート神(平等と平和を標榜、化身のひとつが仏陀、Jagannath)を主神に兄妹神と三位一体で祀られる古刹(12世紀創建)、ジャガンナート寺院参拝目的の巡礼旅行者が跡を絶たない。
州政府は、ヘリテッジ・コリドー(Heritage Corridor)と銘打って寺院界隈を再開発する大々的なプロジェクトも進行中だった。ホテルのあるメインロード(チャクラティルサロード=Chakratirtha Road)も、道路拡張工事が近年中に始まる予定になっている。つまり、プリーは、整備された一大観光地として、生まれ変わろうとしているのである。ホテル業者にとって、これほど望ましいことはない。繁栄の道は約束されたも同然なのである。
商売向きでなかった私は遅まきながら、ホテル業から手を離せて、ほっとしていた。もちろん、一抹の寂しさがないと言ったら嘘になるが、そろそろ引退の引き際、夫の急死とパンデミックがいい踏ん切りになったと思う。衣類なども整理して現地親族にプレゼント、断捨離してすっきりした。
たくさんの素晴らしい場所を見たが、中でも、誕生日(12月11日)に車で遠出したダリングバディ(Daringbadi、Puriから約300キロの1000メートル近い高地)にあるレインボー・ウォーターフォール(Rainbow Waterfall、虹の滝)で流れ落ちる豪快な瀑布の中に完璧な弧を描く小さな虹を目の当たりにしたときは大感激した。
バースデーに神がくれた最高のミラクルプレゼントだと思った。息子(Rapper Big Dealが芸名のインドで人気のラップスター)のライブツアーにも2度同行し、オディシャ西端の州境ヌアパダ(Nuapada)まで車で1000キロ以上走破、ぎりぎり前日まで跳び回っていた。
帰路のフライトでは、トランジットを利用して初のベトナム観光、たまたま見つけたハノイの旧市街のフレンチコロニー風瀟洒なホテル(Ancient Paradise Hotel、エインシャント・パラダイス・ホテル)で休憩、周辺のバザールを見学した。チャイナタウンの露天市では、2月10日の春節に先駆けて赤の縁起物が軒をびっしり飾り、きらびやかだった。スクーター天国の活気と喧騒に満ち溢れた町に、戦争の爪痕はいささかも感ぜられなかった。
近くのホアンキエム湖も1周し、湖上の廟(玉山祠=ぎょくさんじ、湖に生息した伝説の巨亀の剥製あり)や、湖を取り巻くコロニー来の古い洋館の美しさに魅せられた。
しかし、奇跡はそこで終わらなかった。大阪では、知人の住む駅に近いタワーマンション(50階建て653戸入居の大阪最大級の規模)のゲスト棟に1泊4000円で泊まれる果報をもたらされたのである。37階のゴージャスなホテル仕様の美室からは、高層ビル群、ハイウェイの数珠連なりの車、淀川、彼方の山並み(箕面山=みのおやま=や生駒山など)が見下ろせ、あまりの快適さに、神戸や京都を再訪する予定をキャンセルして、長旅の疲れを癒す傍ら館内探検した。
モダンなオブジェが飾られた広大な吹き抜けのロビーをはじめ、地階のカフェを思わせる広々したくつろぎのソファコーナー(貸出用の書棚も完備)、37階のジムコーナー、47階の共用展望フロアでは、屋外テラスのベンチに腰掛け、目前に開けるパノラマ、特に夜景の壮麗さに感嘆、初のタワマン体験を満喫した。
金沢に戻って、自室とのギャップがすごすぎたが、おかげで地震被害もなく、狭いながらも楽しい我が家、ほっと落ち着きくつろげた。気持ちは未だインドの空、体だけは戻ってきたが、地に足がつかず浮いたよう、時差ボケが抜けるまで今少し時間を要しそうである。
※著者注:世界最多の人口を擁するインド(約14億2500万人)だが、30歳未満の若者が半数と、人的資源の面でも強い。近年の経済発展には目覚しいものがあり、オリッサ(新オディシャ)州はかつて、下から数えた方が早い貧困の未発達州だったが、いまや著しい発展を遂げつつある。
23年も君臨する州首相ナヴィーン・パトナイク(Naveen Patnaik、77歳)の辣腕もあるのだが、私はそれを州内ドライブで探検したことで思い知らされた。とにかく、道がいい。ガソリンスタンドも随所にあって(国営のIndian Oil=インディアン・オイル)トイレの完備、ハイウェイに乗れば、車旅は快適、高速料金も安めだ。
その反面、大気汚染はひどすぎ、相変わらずゴミも多いが、夜になり、ライトアップされると、まったくどこの発展した都会かと見紛うほど、椰子樹の幹も色付きライトで螺旋巻きに飾られ、先進国並みの洗練された装飾ぶりだ。今回、何年かぶりに首都デリーのインディラ・ガンディー国際空港(Indira Gandi International Airport)を利用したが、成田空港など目でない広大で美しい設備に改めて目を見張らされたことも最後に付け加えておく(あまりに広すぎて、最後尾の搭乗待合室まで歩いて30分もかかった)。
☆インドから帰って能登地震に思うこと、地震に備えて防災井戸を!
帰国後、1月1日の能登半島地震のその後を、ニュースでチェックする毎日だが、未だに断水が続いている状況にふっと疑問に思ったことがある。それはなぜ、避難所となっている学校の校庭に井戸水ポンプを設置しなかったかということだ。
仮設住宅支援の話はいくらもあっても、それ以前のライフラインである水を何とかしようという動きはなかったのだろうか。井戸水ボンプ設置支援の話は出なかったんだろうかと、不思議でならない。手動のポンプなら、多分1日で設置可能だったはずだ。
飲料水はともかくも(そちらは支援物資のミネラルウォーターがあるはず)、生活用水は井戸水で賄えたのではないかと思う。トイレに困っていたと聞いたから、手動ポンプがあれは、随分と役立ったのではないだろうか。
インフラ未整備のインドでは、私が移住し始めた1980年代後半は、田舎町のプリーは停電がしょっちゅうで、長いときでは1日5時間くらい電気が切れていた。初期は自家発電機がなかったため、計画停電になるとお手上げ、酷暑期はだらだら流れる汗まみれ、天井のピタリと止まったままのトンボ扇風機の羽を恨めしげに見上げながら、いつ来るとも知れない電気の復旧をじりじり待ちわびたものである。
しかし、水は手動ポンプがあったので、問題なかった。ぎしぎし漕ぎながら、バケツに貯めて、初期には多かった日本人バックパッカーのお客さんにも重宝がられたものだ。当初2年6カ月は海辺の古い洋館を借りてロッジを営業していたのだが、庭に設けた仕切っただけの青空シャワーも、男性陣には、気持ちがいいと評判だった。屋上からは海が見渡せ、これも好評だった。
1991年に新築移転して、自家発電機を完備して、計画停電にも対処できるようになった。水は、モーターポンプを稼動させて地下水を屋上タンクまで吸い上げ、蛇口に下ろすシステム、ジェネレーターがあれば、モーターのスイッチも押せて、水の汲み上げも問題でない。
現在は停電も大幅に減ったが、今どきのホテルは全部と言って過言でないほど、ジェネレーター完備である。それに比べると、一般家庭は普及度が低いが、日本もせめて、市役所をはじめの公共施設は自家発電機並びに、防災井戸を完備すべきと思う。
30代初期から、インドで水や電気のありがたみを嫌という程叩き込まれた私のサバイバル能力は高いと思う。鍛えられているので、ちょっとやそっとのことではへこたれない。酷暑期のスーパーサイクロンの大停電時も、マットレスをベランダに持ち出して、夜風を扇風機代わりに乗り切ったものだ(割と快適で、蒸し風呂同然の室内よりはるかに眠れた)。
(「インド発コロナ観戦記」は、92回から「インドからの帰国記」にしています。インドに在住する作家で「ホテル・ラブ&ライフ」を経営しているモハンティ三智江さんが現地の新型コロナウイルスの実情について書いてきましたが、92回からはインドからの「帰国記」として随時、掲載します。
モハンティ三智江さんは福井県福井市生まれ、1987年にインドに移住し、翌1988年に現地男性(2019年秋に病死)と結婚、その後ホテルをオープン、文筆業との二足のわらじで、著書に「お気をつけてよい旅を!」(双葉社)、「インド人には、ご用心!」(三五館)などを刊行しており、コロナウイルスには感染していません。
2023年9月4日付で「CoronaBoard」によるコロナ感染者の数字の公表が終了したので、国別の掲載をやめてます。編集注は筆者と関係ありません)