友人の軽で岩手中尊寺めざすも、会津道の駅で雨中泊(131-1)

【モハンティ三智江のインドからの帰国記=2023年7月14日】6月12日、郷里福井の旧友H(地元ベースの脚本家・俳優)から、「14日に岩手の中尊寺金色堂に車で旅する予定で、石川を通過するので、同乗したいならピックアップするけど」とのSMSがいきなり入った。

松任駅前(石川県)のロータリー左手にある江戸時代の女流俳人、加賀の千代女像(1703-1775、松任出身)。後ろは観光案内所込み記念館。初めて降り立った松任は、城址公園もあり、緑豊かな閑静なところだった。ここから、コミュニティバスで道の駅めぐみ白山まで30分、午前中は1本のみ。

14日というと、明後日、なんとも急な話だが、Hはいつも間際に突然誘ってくるのである。昨年、四国に誘われたときは、まだコロナが流行中で辞退、以後も白山ロード開通に併せてドライブに誘われたりしたが(白山白川郷ホワイトロード=旧白山スーパー林道は、石川県白山市尾添と岐阜県大野郡白川村鳩谷を結ぶ33.3キロの有料道路で、冬期は11月10日から閉鎖で毎年6月上旬にオープン)、タイミングがなかなか合わず、昨年4月に亡夫の散骨に福井県の雄島までひと走りしてもらって以来、1年以上ご無沙汰していた。

実は佐渡に行こうと思っていたのだが、急遽予定を変更し、岩手の盛岡は外国人に人気と聞き、一度訪ねてみたいと思っていたので、飛びついた。もちろん、メインの世界遺産、中尊寺金色堂も魅惑的だ。ひとりで東北まで遠出するのは大変なので、車に同乗させてもらえるなら、交通費も浮くし、願ってもない。

というわけで、当日14日の朝、私は金沢駅から松任駅まで電車で行って(北陸本線200円)、そこからコミュニティバス(めぐーる100円)で道の駅めぐみ白山へ。Hはお昼頃着くとのことで、そこで缶コーヒーを飲みながら白山市の観光宣伝ビデオを観たり、外の芝ガーデンを歩いたり、周りの田園風景をパラソル椅子に座りながら、中の売店で買った菓子パンとコーヒー牛乳で空腹を満たすうちに時間は過ぎ、1時間遅れると言っていたHが予想以上に早く着いた。

Hの愛車は軽自動車だが、この5年間(コロナ禍の3年は除外)沖縄を除いて日本津々を周遊していて、「四国八十八箇所霊場巡り」も終えている。昨春、私が帰国し、2年半ぶりに再会したときは、車の色は黒だったので(ダイハツの「アトレー」)、それを目当てに探したが、携帯を交わしながらたどり着いた端の駐車場には白い軽トールワゴンを背後に長身のHが立っていた。車を同じダイハツの「タント」に買い換えたらしい。

早速、助手席に乗って出発進行。2018年秋に初めて京都まで同乗させてもらって(そのときは年季の入ったダイハツの「ネイキッド」だった)、三十三間堂の1001体千手観音像の見学に連れて行ってもらって以来、実に5年ぶりだ。

この時は参観後、現地で分かれて、私は貴船神社へお参りし、1泊して大津、今津港から遊覧船で琵琶湖に浮かぶ竹生島まで行って観光、帰りは普通列車で金沢まで戻ったものだが、全国から一堂に会した1001体の千手観音像のきらびやかな壮観さは後々まで強烈な印象を残した。道中話も弾み、とても楽しかった記憶がある。

鶴ヶ城を背景に郷里福井の旧友H。馴れ初めは私が19歳の頃、地元で脚本家、俳優として活躍していたHに処女作を読んでもらったことによる。「白い廃車」と題した少年愛がテーマの小説はコテンパンにけなされた。

しかし、今回は遠出だ。2人ともあれ以来、いろいろあって、コロナ禍を挟んでいたし、私は夫と母を亡くしていた。Hも一時健康を害し、日本各地のパワースポット巡りで持ち直していたが、昨年11月に医者からまたよからぬことを宣告されたようで、精神的にも参っていた。が、今は様子見となって人心地ついていて、春頃からエンジン再開、車旅を再始動しているというわけだ。

今後の大まかなスケジュールが、Hの口から漏らされる。いわく、新潟を突き抜けて福島に入り、その辺りで車中泊、翌日の午後には目的地中尊寺との目算だ。私は既に盛岡でドロップしてくれるよう伝えていたが、目論み通り車が現地に着くかどうかわからないので、宿は取っていなかった。

これまで弟や叔父の車で片道3時間から4時間の旅はしたことがあるが、車中泊の長丁場は初めてである。走行700キロから800キロになるというハードさ、それも72歳のドライバーが高速は使わずに2時間から3時間ごとに道の駅やコンビニで休憩しながらのちんたらマイペースというのだから、折しも梅雨どき、悪天次第では、目論み通り現地に着くかわからない。

私が運転できれば、交代でこなし(実際弟夫婦はそうしている)、いくらかは楽になるだろうが、H独りで全行程突っ走らないとならない。しかし、Hは並の70代ではないタフさ、若者にもようやるわと半ば呆れられる長時間運転を中休みしつつこなし、鹿児島への22時間ドライブも達成したツワモノだ。

というわけで、運転はHに任せて、私は助手席で昭和の懐メロをBGMに車窓の景色を楽しむことにした。

最初の休憩は倶利伽羅峠(富山県と石川県の境にある砺波山の峠)の瓦屋根旧家風の道の駅。まだ石川県だ。そこから富山を抜けて、新潟に入り、途上小さな道の駅で休憩、一足先に道の駅めぐみ白山で軽食を済ませていた私は、持参した昼食を摂るHを車に残し、外に降りて、線路の向こうに見える海と小さな漁船を眺めた。

翡翠が取れることで名高いここ糸魚川一帯(新潟県)はひなびた風情だが(糸魚川で産出される翡翠は白地に優しいグリーンを含むのが特徴の国の天然記念物、川での採掘は禁止だが、海岸に打ち上げられた原石なら採ってもいい)、土産物屋の前には緑に潤う小山があり、小雨に煙る様が美しかった。長いこと車中に座っていた私は深呼吸して、新鮮な外気を胸いっぱい吸い込んだ。

休憩後、糸魚川市のひなびた漁村を横目に、親不知(おやしらず)の険しい山肌に貼り付い国道8号線、海上高架橋を足下に海を見ながらスリリングなドライブ(古来北陸最大の難所で断崖絶壁と荒波が行く手を阻み、親は子を忘れ、子は親を顧みないことから親不知、または子不知と命名)それまで田園風景ばかりだったので、曇りで灰色の海とはいえ、気持ちが和んだ。

しかし、縦に長い新潟県を横断するには延々と時間がかかった。しかも、道の駅がなかなか現れない。既に3時間以上走り続けているHの疲労が、脇に座った私にも伝わってくる。結局、コンビニの駐車場で休み、ナビをチェックし指示通りに進んだが、道に迷ってその界隈をぐるぐる迂回、やっと迷路を抜けて正しい道に出、走り抜けるも、雨が本降りになってきた。小雨で済んでるうちはよかったが、降りが強くなる中ワイパーをかけフロントガラスをクリアにしながら運転するのは、視界が曇りがちになるだけにしんどい。

鶴ヶ城の石垣に注目、ハート型の嵌め込みがあり(自分で探してみてください)、恋人たちの聖地になりそうだが、実は石積みを担当した近江坂本の穴太(あのう)衆=織豊時代に活躍した石工集団のシンボルマークだ。

Hの疲労が限界に達した頃、縦に長い新潟県をやっと突き抜けて、福島に入った。できたばかりの真新しい道の駅に着いたのは真夜中過ぎ。雨はざぁざぁ降り。ここで車中泊を告げられる。すぐに座席を倒して仮眠体勢に入るHを残して、私は降りて無人の道の駅に入り、木のベンチに横たわった。眠れないのはわかっているので、横になって体を休めるだけである。外は大雨、しかし中は暖かい。

それにしても、冷静に考えると、70代のドライバー男性と、60代の同乗女性がこんな激しい雨の中車や道の駅で仮眠とは、ハードすぎやしないかと我ながら呆れ返った。とはいえ、私もツワモノ元バックパッカー、これしきではこたえない。

かつてインド全土横断ツアーで、窓にガラスの入っていないおんぼろバスで何十時間と揺られているし、2等寝台車で埃まみれになりながら、長時間移動した体験がものを言う。今だって乗り継ぎの飛行機の中継地では待機時間が長いとき、ベンチで仮眠する。しかも、日本でも夜行バス愛好者なので、車中泊は慣れている。

インドの2等寝台車で亡夫と旅した思い出は忘れがたい。車窓から亜熱帯の大陸ならではの大ぶりの真っ赤な太陽が沈んでいくのを目の当たりにした感激、行く先々の駅で黄色塗りの看板に黒い太字で書かれた駅名を読みながら、チャイ売りの少年の売りつけるミルクティーの疲労回復にもってこいの甘ったるさに癒され、停車時間が長いときは駅に降りて、籠に盛られた現地菓子やフルーツを物色、屋台ではじゃがいもベースの揚げスナックがおいしそうな匂いを漂わせながら、売られている。そして、それ以上に、車内で食べるカリー弁当の美味、現地人並みに若い頃は右指だけ駆使して野性味たっぷりに戴いたものだ。

大名旅行やパックでは味わえない旅の醍醐味、私にとって、短時間で車窓の景色もろくに楽しめないうちに着いてしまう新幹線ほど味気ないものはない。急ぐ旅でないなら、鈍行か夜行バスに限る。夜行なら、ぎりぎりまで観光を楽しめる。

亡夫とは、よく出発時刻間際まで日本の居酒屋で管を巻いたものだ。タイ1周の島旅も忘れがたい。安宿探しも楽しかった。私は、人間臭い旅が好きなのだ。5スターカルチャーもたまの贅沢にはいいが、無機質に整えられた空間は味気ない、どこの国に行ってもさして変わらず、きれいで便利だが、つまらない。安宿の個性、慣れてしまえば、居心地良い、「住めば都」風が好きなのだ。

雨は1時間程で小止みになった。夜明けが近づいている。いつのまにか道の駅には2、3の人影が。みな雨を避けての一時雨宿り、夜が明けるのを待っている車もある。頃合を見て私も車に戻った。Hはまだ寝入っていたが、外が明るくなるにつれ、起きて洗顔に道の駅に入っていった。既に身支度を整えた私は助手席で待つ。

堀にかかる丹塗りの橋を渡って、鶴ヶ城へ。しばらく行くと、白く輝き渡る城が見えてくる。別名白鷺城の世界遺産・姫路城の迫力はないが、こぢんまりとした美城だ(復元された天守には郷土博物館がある)。

晴れ男のはずがこの雨、参ったなあ、降参とボヤいていたHも、雨上がりの朝にほっとしている。福島市内に入り、吉野家で朝定食(私はハムエッグ納豆定食399円、Hは牛小鉢付きで499円)、初めて入った吉野家は小綺麗なカフェ風で、ドリンクバーもあり、イメージが違った。従来店の内装と変わって、若者向けに改装しているのかもしれない。ボックス席もあって、喫茶店代わりにも使える。

安くておいしい朝食に満足して、Hがひと目観たいという鶴ヶ城へ。別名会津若松城には実は、若い頃来たことがあったが、ほとんど記憶になかっだけに、5層の白塗りの城は美しく輝き渡って見えた。

筆者注:鶴ヶ城、別名会津若松城は1384(至徳元)年、第7代当主の蘆名直盛(あしな・なおもり、1323-1391)が南北朝時代に小田垣の館を造ったのが始まりで、1593(文禄2)年に蒲生氏郷(がもう・うじさと、1556-1595)が望楼型7重の黒い天守閣=黒川城に改築、1611(慶長16)年に層塔型5重5階地下2階に改築、1965年に層塔型5重5階、外観を復興した。会津若松のシンボルは、数多くの戦国大名が治め、幕末戊辰の戦役の舞台としても有名な、国の史跡。

(「インド発コロナ観戦記」は、92回から「インドからの帰国記」にしています。インドに在住する作家で「ホテル・ラブ&ライフ」を経営しているモハンティ三智江さんが現地の新型コロナウイルスの実情について書いてきましたが、92回からはインドからの「帰国記」として随時、掲載します。

モハンティ三智江さんは福井県福井市生まれ、1987年にインドに移住し、翌1988年に現地男性(2019年秋に病死)と結婚、その後ホテルをオープン、文筆業との二足のわらじで、著書に「お気をつけてよい旅を!」(双葉社)、「インド人には、ご用心!」(三五館)などを刊行しており、コロナウイルスには感染していません。また、息子の「Rapper Big Deal」はラッパーとしては、インドを代表するスターです。

2023年7月9日現在(CoronaBoardによる)、世界の感染者数は6億8695万7004人(前日比2万3646人増)、死亡者数が685万7965人(1人増)、回復者数は6億1963万2207人(7209人増)。インドは感染者数が4499万4494人、死亡者数が53万1912人、回復者数が4446万1127人、アメリカに次いで2位になっています。

ちなみにアメリカの感染者数は1億0735万6628人、死亡者数が116万8502人、回復者数は1億0552万5088人。日本は5月8日以降は1医療機関あたりの全国平均になっています。編集注は筆者と関係ありません)