加島美術で渡辺省亭展、30点、山下裕二と古田亮がトーク

【銀座新聞ニュース=2024年4月27日】加島美術(中央区京橋3-3-2、03-3276-0700)は4月27日から5月12日まで企画展「宴 Vol.3 The SEITEI」を開く。

加島美術で4月27日から5月12日まで開かれる「宴 Vol.3 The SEITEI(第3回 ザ・セイテイ)」のフライヤー。

2022年に加島美術が毎年春に開く新たな企画展シリーズとして「宴(うたげ)」を立ち上げ、毎回テーマを設け、日本美術の専門画廊である加島美術が選んだ、近代の黎明期から昭和にかけての作品群を展示販売する。また、会場では作品をガラスケースなしで展示する。

今回、3回目は明治期から大正期にかけて活躍した日本画家、渡辺省亭(わたなべ・せいてい、1852-1918)で、2021年3月27日から5月23日まで東京藝術大学大学美術館にて国内美術館初となる大規模な回顧展「渡辺省亭ー欧米を魅了した花鳥画」が開かれ、初の大型画集「渡辺省亭画集」(監修は山下裕二さんと古田亮さん、2021年3月、小学館、税込6万500円)も刊行されており、今回はその画集に所載されている花鳥画や歴史画、美人画、仏画、風景画、動物画、節句画など多彩な24点を中心に作品約30点を展示する。

加島美術では、2017年から国内外で渡辺省亭の作品を紹介しており、今回も明治初期から大正にわたって描かれたさまざまな作品を展示し、会期中には、渡辺省亭関連書籍の店頭特別販売や、日本美術継承協会の企画による渡邊省亭の再評価に深く関わる明治学院大学文学部芸術学科教授の山下裕二さんと、東京藝術大学大学美術館教授の古田亮さんによるトークイベントを開く。

ウイキペディアによると、渡辺省亭は1852(嘉永5)年江戸・神田佐久間町(現在の千代田区神田佐久間町4丁目)生まれ、本名は吉川義復(よしまた)、省亭は号。秋田藩の札差を務める吉川家の吉川長兵衛(1860年没)の次男として生まれ、長兵衛は、前田夏蔭(1793-1864)の門人で和歌を嗜んでいた。母ひさは、父と同門で莫逆の友であった渡辺良助(狂歌名は花廼屋光枝)の妻で、夫を亡くした翌1852年に相談相手となっていた長兵衛との間に省亭を生んだ。

その後、2人は結婚せず、省亭は吉川家で育てられ、8歳の時、父が没し、その兄に養われる。16歳で柴田是真(ぜしん、1807-1891)に弟子入りしようとするも、是真は持参した省亭の画を見て、弟子入りするなら菊池容斎(1788-1878)の方がいいだろうと、自ら容斎のもとに連れていき入門することになった。省亭はこの時の恩義を生涯忘れず、終生是真を賞賛し、その絵画世界を追求することになる。

容斎の内弟子として入門したが、その指導は変わっており、かつ極めて厳しかった。入門してから3年間は絵筆を握らせてもらえず、「書画一同也」という容斎の主義で、容斎直筆、または趙孟ふ(1254-1322)の手本で習字をさせられた。楷書は王羲之(303-361)、かなは藤原俊成(としなり、1114-1204)を元にしたものであった。3年経つと、今度は反対に放任主義を取る。容斎は粉本は自由に使わせながらも、それを元にした作品制作や師風の墨守を厳しく戒め、弟子たちに自己の画風の探求と確立を強く求めた。

弟子時代の逸話として、容斎は省亭を連れて散歩し自宅へ帰ってくると、町で見かけた人物の着物や柄・ひだの様子がどうだったか質問し、淀みなく答えないと大目玉を食らわした。後年、省亭は見たものを目に焼き付けるようになり、これが写生力を養うのに役立ったと回想している。こうした厳しい指導の中で、省亭は容斎が得意とした歴史人物画ではなく、是真に倣って花鳥画に新機軸を開いていく。

容斎のもとで4年ほど学んだが、1869(明治2)年7月に来日したイギリスのエディンバラ公アルフレッド公(Alfred Ernest Albert、1844-1900)に贈呈する画帖制作に門弟として参加した後、容斎から破門された。

画家として自立せざるを得なくなったが、これが修行と覚悟を決め、安直に収入の良い仕事にはつかず、浅草観音堂に頼まれもしない絵を描きに通ったという。1872(明治5)年に、渡辺家の養嗣子となり、吉川家を離れ渡辺姓を継ぐ。表札には、「二代目渡辺良助」と掲げたという。師の元を去って3年余り経った後、容斎から呼び戻される。旧幕臣大久保一翁(忠寛、ただひろ、1818-1888)が東京府知事を拝命した際の依頼品「心の草紙」の冒頭と中盤、終わりを除いた部分を任され、師を慕い続けていた省亭の喜びは大きかった。

1875(明治8)年、美術工芸品輸出業者の松尾儀助(1836-1902)に才能を見出され、輸出用陶器などを扱っていた日本最初の貿易会社である起立工商会社に就職し、工芸品の下絵描き(デザイナー)となり、濤川惣助(なみかわ・そうすけ、1847-1910)が手掛ける七宝工芸図案を描き、この仕事を通じて西洋人受けする洒脱なセンスが磨かれていく。

1877(明治10)年の第1回内国勧業博覧会で図案や蒔絵の下絵2点、絵画作品「郡鳩浴水盤ノ図」を出品、起立工商会社のために製作した金きゅう図案で花紋賞牌(3等賞)を受賞、翌1878年のパリ万国博覧会で「郡鳩浴水盤ノ図」が選ばれて出品が決まり、同社から出品した工芸図案が銅牌を獲得し、これを機に、起立工商会社の嘱託社員としてパリに派遣された。これは日本画家としては初めての洋行留学となる。

パリ滞在期間は2年強から3年間と正確には不明だが、この時期、印象派周辺のサークルに参加し、エドモン・ド・ゴンクール(Edmond de Goncourt、1822-1896)の「日記」によると、1878年10月末から11月末頃に、省亭がエドガー・ドガ(Edgar Degas、1834-1917)に鳥の絵をあげたとの逸話が見える。

また、同じくゴンクールの「ある芸術家の家」では、「郡鳩浴水盤ノ図」をエドゥアール・マネ(Edouard Manet、1832-1883)の弟子のイタリア人画家、ジュゼッペ・デ・ニッティス(Giuseppe De Nittis、1846-1884)が描法の研究のため購入し、現在はフリーア美術館が所蔵している。

他にも印象派のパトロンで出版業者だったジョルジュ・シャルパンティエ(Georges Charpentier、1846-1905)が、1879年4月に創刊した「ラ・ヴィ・モデルヌ」という挿絵入り美術雑誌には、美術協力者の中に山本芳翠(1850-1906)と共に省亭も記載されている。省亭は彼らとの交流の中で、特にブラックモン(Felix Bracquemond、1833-1914)風の写実表現を取り込み、和洋を合わせた色彩が豊かで、新鮮、洒脱な作風を切り開いたと見られる。

帰国後まもなく、吉原出身の女性さくと結婚し、1881(明治14)年の第2回勧業博覧会では「過雨秋叢図」で妙技3等賞を受賞し、1883(明治16)年のアムステルダム万国博覧会で銅賞、1886(明治19)年からはフェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa、1853-1908)らが主催した鑑画会に参加、同年の第2回鑑画会大会に出品した「月夜の杉」で2等褒状を受賞したが、これらの作品は所在不明になっている。

1893(明治26)年のシカゴ万博博覧会に出品した代表作「雪中群鶏図」を最後に、ほとんどの展覧会に出品しなくなり、その理由として、博覧会・共進会の審査のあり方に不満をもったためと説明される。ただし、1904(明治37)年のセントルイス万国博覧会に出品し、金牌を受賞したとする資料もある。

本分はあくまで肉筆主体の日本画家だったが、木版画、口絵、挿絵にもその才能を示した。最初の挿絵は、シェイクスピア(William Shakespeare、1564-1616)の「ジュリアス・シーザー(The Tragedy of Julius Caesar)」(1599年)を坪内逍遥(1859-1935)が翻訳した「該撒(しいざる)奇談 自由太刀余波鋭鋒(じゆうのたちなごりのきれあじ)」とされる。

1889(明治22)年に刊行された山田美妙(1868-1910)の小説「蝴蝶」に裸婦を描いて評判となり、後のいわゆる裸体画論争の端緒となった。1890(明治23)年に「省亭花鳥画譜」(全3巻)を刊行した。1890年から1894(明治27)年1月にかけて春陽堂より発行された「美術世界」(全25巻)では、編集主任(編集主幹)として尽力した。

師・容斎とは対照的に弟子を取らず、親友と呼べる画家は平福穂庵(平福百穂の父、ひらふく・すいあん、1844-1890)と南画家の菅原白龍(1833-1898)くらいで、一匹狼の立場を貫いた。言いたいことは歯に衣着せずに言え、1913(大正2)年の第7回文展に出品された竹内栖鳳(せいほう、1864-1942)、横山大観(1868-1958)、川合玉堂(1873-1957)らの作品を、「技法・技術面から画家の不勉強」と指摘している。

省亭には、さく(子息は長男の水巴=すいは、1882-1946、長女の露=つゆ、1885-1941)の他にもう一人の妻、関本千代(子息は1890年に長女ナツ誕生、1894年に次女くみ誕生)がおり、そちらの家は外面上はアトリエとし、没するまでの30年に渡りそれぞれの家に通い続けた。こうして悠々自適な作画制作を楽しんだ後、1918(大正7)年に脳溢血で倒れ、尿毒症と腎臓炎を併発し、日本橋浜町の自宅で満66歳(享年68)で亡くなった。墓所は台東区浅草今戸の潮江院。法名は法華院省亭良性修良居士。省亭の忌日を、親しい人々は「花鳥忌」と呼んだ。

5月6日15時から明治学院大学文学部芸術学科教授の山下裕二さん、東京藝術大学大学美術館教授の古田亮さんによるトークショーを開く。モデレーター(司会・進行役)が齋田記念館(世田谷区代田3-23-35、03-3414-1006)主任学芸員、昭和女子大学講師の峯岸佳葉(かよう)さんが務める。

山下裕二さんは1958年広島県呉市生まれ、東京大学文学部美術史学科を卒業、1987年に東京大学大学院人文科学研究科美術史学博士課程を満期退学し、1990年4月から明治学院大学文学部芸術学科講師、1993年に同大学助教授、1999年から教授。1996年に赤瀬川原平さんと「日本美術応援団」を結成し、その団長を務め、2012年から2016年の「日本美術全集」(全20巻、小学館)の編集委員を務めた。

古田亮さんは1964年東京都生まれ、1989年に東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業、1993年に同大学大学院博士課程を途中で退学し、東京国立博物館美術課絵画室研究員を務め、1998年に東京国立近代美術館に勤務、2001年に同美術館主任研究官、2006年に東京藝術大学大学美術館助教授、2007年に同大学美術館准教授、2021年4月より同教授。2010年に「俵屋宗達」でサントリー学芸賞を受賞している。

峯岸佳葉さんは筑波大学芸術専門学群書道専攻を卒業、同大学大学院を修了、博士課程を途中で退学し、中国政府奨学金留学生として2年間、中国美術学院に国費留学し、その後、サンリツ服部美術館学芸員、教育出版書道編集部を経て、齋田記念館主任学芸員。

開場時間は10時から18時。入場は無料。会期中無休。