ギャラリー桜の木で平松礼二展、1874年第1回印象派展と同日程で

【銀座新聞ニュース=2024年4月22日】ギャラリー桜の木銀座(中央区銀座4-3-6、G4 BRICKS BLD.、03-6228-6646)は5月15日まで「印象派誕生150年記念 平松礼二展ー北斎やモネの囁きが聴こえる」を開いている。

ギャラリー桜の木銀座で5月15日まで開かれている「印象派誕生150年記念 平松礼二展ー北斎やモネの囁きが聴こえる」に展示されている平松礼二さんの新作「日本の山河」(二曲一隻屏風、2024年)。

4月15日に移転したギャラリー桜の木が1874年にフランス・パリで開かれた第1回印象派展と同じ日程で「印象派誕生150年記念 平松礼二展ー北斎やモネの囁きが聴こえる」を開いており、平松礼二さんが新作20点を展示している。

2024年は1874年のパリの第1回印象派展が開かれて以来150年目に当たる記念の年で、世界各地で記念美術イベントが開かれており、平松礼二さんもフランスのジヴェルニー印象派美術館(Musee des impressionnismes Giverny)で7月12日から11月3日まで「平松礼二ー睡蓮交響曲」を開く予定としている。その直前の壮行会企画として、今回、平松礼二さんの個展を開いている。

平松礼二さんは1999年に日本美を印象派の画家たちの眼から発見する「印象派・ジャポニスムシリーズ」を開始し、2013年にはクロード・モネ(Oscar-Claude Monet、1840-1926)が生涯を注いだ庭に隣接する公立ジヴェルニー印象派美術館の求めにより「平松礼二展」を開いており、2018年には日仏修交通商条約(1858年10月)締結160周年記念事業の一環としてジヴェルニー印象派美術館で「平松礼二展」を開き、その功績から平松礼二さんは2021年にはフランス共和国芸術文化勲章シュヴァリエを受勲している。ジヴェルニー印象派美術館は平松礼二さんの作品88点を購入し、7月から3回目の個展を予定している。

ウイキペディアによると、「印象派」は19世紀後半のフランスに発した絵画を中心とした芸術運動で、当時のパリで活動していた画家たちのグループが起源とされている。フランスの保守的な美術界からの激しい批判にさらされながらも、独立した展覧会を連続して開くことで、1870年代から1880年代には突出した存在になった。

19世紀中頃、フランスの美術界は「芸術アカデミー」が支配し、アカデミーは伝統的なフランス絵画のスタンダードを継承していた。歴史的な題材や宗教的なテーマ、肖像画が価値あるものとされ、風景画や静物画は軽んじられた。アカデミーには、その審査員が作品を選ぶ展覧会「サロン・ド・パリ」があり、ここに作品が展示されたアーティストには賞が与えられ、注文が集まり、名声が高まった。審査員の選考基準はアカデミーの価値判断を表わしていた。

1860年代を通じて、サロンの審査会はクロード・モネ(Oscar-Claude Monet、1840-1926)とその友人の作品の約半分を落選とした。従来の様式を順守するアーティストには、この判定は好評であった。1863年にサロンの審査会は、マネ(Edouard Manet、1832-1883)の「草上の昼食」を落選とし、主たる理由は、ピクニックで2人の着衣の男性とともにいる裸の女性を描いたことである。この年の異常に多い数の落選作品は、フランスのアーティストを動揺させた。

1863年の落選作品を観たナポレオン3世(Napoleon Ⅲ、1808-1873)は、人々が自分で作品を判断できるようにすると宣言し、落選展が組織され、落選展には通常のサロンよりも多くの見物客が訪れた。再度の落選展を求めるアーティストたちの請願は、1867年、1872年にも拒否された。

1873年の後半に、モネ、ルノワール(Pierre-Auguste Renoir、1841-1919)らは「画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社」(Societe anonyme des artistes peintres、sculpteurs et graveurs)を組織し、自分たちの作品の独自の展覧会を企画した。計30人のアーティストが、1874年4月に写真家ナダール(Nadar、1820-1910)のスタジオで開かれた最初の展覧会に出展した。

展覧会は、後に第1回印象派展と呼ばれるようになるが、当時、展覧会は社会にまったく受け入れられず、批判的な反応がいろいろあった。評論家で喜劇作家のルイ・ルロワ(Louis Leroy、1812-1885)は風刺新聞「ル・シャリヴァリ(Le Charivari)」に酷評を書き、その中ではモネの絵の「印象・日の出」というタイトルにかこつけて、この画家たちを「印象派」と呼び、このグループはこの名で知られるようになった。

嘲笑の意味も含めて「印象派の展覧会」とタイトルをつけた記事で、ルロワはモネの絵画はせいぜいスケッチであり、完成した作品とは言えないと断じた。ところが、「印象派」という言葉は人々からは好感をもって迎えられ、アーティストたち自身もこの言葉を受け入れた。スタイルや気性は異なるアーティスト同士も、独立と反抗の精神でまず合流し、メンバーはときどき入れ替わったが、1874年から1886年まで全8回の展覧会を開いた。自由で気ままな筆使いの印象派のスタイルは、モダンライフの同義語になった。

印象派の絵画の特徴としては、小さく薄い場合であっても目に見える筆のストローク、戸外制作、空間と時間による光の質の変化の正確な描写、描く対象の日常性、人間の知覚や体験に欠かせない要素としての動きの包摂、斬新な描画アングル、などがあげられる。

平松礼二さんは1941年東京都中野区生まれ、愛知県名古屋市育ちで、1965年に愛知大学法経学部を卒業、日本画家の横山操(1902-1973)に私淑し、1960年より横山操が所属していた青龍社展に出品(春季展賞、奨励賞を受賞)、1966年の青龍社の解散後は創画会の「創画展」に出品(創画会賞、春季展賞を受賞)を経て、無所属で発表し、ライフワークとなる「路」シリーズがスタートした30代後半の1984年に新たな日本画を生み出そうとした日本画家の研究グループ「横の会」結成に参加、1993年に解散するまで毎年出品した。

1979年に第1回中日大賞展で大賞、1980年に第2回セントラル日本画大賞展で優秀賞、1988年に第1回MOA美術館岡田茂吉賞で優秀賞(2000年に大賞)、1989年に第10回山種美術館賞展で大賞を受賞、同年に紺綬褒章を受章した。2002年に第35回東海テレビ文化賞、2004年に第57回中日文化賞、2021年4月にフランス政府から芸術文化勲章シュヴァリエを受章した。

一方で、1994年に多摩美術大学教授(2006年に退任)、2000年から2010年まで月刊「文藝春秋」(文藝春秋社)の表紙画を担当し、2006年に多摩美術大学教授を退任し、了徳寺大学学長に就任(2007年に退任)、2016年に順天堂大学国際教養学部客員教授に就任している。2017年に愛知大学より名誉博士号を授与される(同大学初)。

27日14時から平松礼二さんが来場する。

開場時間は11時から19時(最終日は16時)。火曜日と祝日は休み。入場は無料。