M84でコクトー「オルフェ・悲恋」展、クレルグ、ギーヨが撮影

【銀座新聞ニュース=2022年8月5日】Art Gallery M84(中央区銀座4-11-3、ウインド銀座ビル、03-3248-8454)は8月8日から9月24日まで「ジャン・コクトー『オルフェの遺言』『悲恋』」を開く。

Art Gallery M84(アートギャラリーエムハッシー)で9月24日まで開かれている「ジャン・コクトー『オルフェの遺言』『悲恋』」に展示されている写真「ジャン・コクトー(Jean Cocteau)」(The testament of Orpheus (C)Photo by Lucien Clerque/G.I.P.Tokyo)。

フランスの詩人、小説家、劇作家、画家、映画監督、脚本家として知られるジャン・コクトー(Maurice Eugene Clement Cocteau、1889-1963)が監督し、自ら出演した映画「オルフェの遺言-私に何故と問い給うな」(1960年)の撮影に、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso、1881-1973)の紹介で参加した写真家のルシアン・クレルグ(Lucien Clergue、1934-2014)が南フランスでの40日間以上にわたるロケで、コクトーの動きを自由に撮り、コクトーの芸術の創作力、マジックを身近に体験した、コクトーの幻想映像を写した作品約30点を展示する。

また、コクトーが原作と脚本を手がけた映画「悲恋(レテルネル・レトゥール=L’eternel retour)」(1943年)では、フランスの1930年代から1940年代にかけて活躍した写真家であり、2013年にパリのジュ・ド・ポーム美術館で大規模な回顧展で再評価されたロール・アルバン=ギーヨ(Laure Albin Guillot、1879-1962)が撮影した当時のコクトーを撮影した写真を、当時のプリント作品で出品する。

映画「オルフェの遺言」は、ギリシャ神話にあるオルフェウス伝説をもとにコクトーが独特の解釈で映像化したもので、神話伝説のオルフェウスは吟遊詩人で竪琴の名手、奏でるその音楽は万物を魅了する。

しかし、あるとき美しい妻のユーリデイケを失って黄泉の国から取り戻すが、地上に着く寸前で彼女を再び失う悲恋の物語となっている。詩人オルフェ役でのコクトーは時空を超え彷徨する旅人(詩人)を演じ、生と死、過去と未来、現実と妄想の狭間を行き来する映像詩となっている。

「詩人は死んで蘇る」詩人は不死身、コクトー流のフェニクソロジー(Phenixologie 不死鳥学)が映像に魔法をかける。映画の登場人物はさまざま、死者セジェストやウルトビーズも再登場、黒い人間馬や娘アンチゴーヌに手をひかれる盲目のオイディプス、死んでもまた蘇る永遠の鳥フェニックス、そしてピカソなども出演している。「オルフェの遺言」は詩人の自叙伝でもあり、この幻想的な映像を通じて鑑賞者に詩人の心、コクトーのメッセージ、遺言を残そうとした。

同じく展示されている写真「ジャン・コクトー(Jean Cocteau)」(The eternal return(C)Photo by Laure Albin-Guillot/G.I.P.Tokyo)。

「悲恋」は、ケルト伝説「トリスタンとイゾルデ」の物語をもとにしている。この映画は、ジャン・ドラノワ(Jean Delannoy、1908-2008)監督に委ねたコクトー脚本による会心作で、現代と神話の入り交じった究極の愛の物語で、映画は大成功し、大衆の心をとらえた。

特にジャン・マレー(Jean Marais、1913-1998)とマドレーヌ・ソローニュ(Madeleine Sologne、1912-1995)による悲劇のラブストーリーによるラストシーンの映像美は見応えがあり、2人を神秘の媚薬で結びつけるアシル(Pieral、1923-2003)によって宿命に支配された男女の崇高な死は、ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844-1900)の思想、永劫回帰によって表現できるというコクトーの世界観とされている。

ウイキペディアによると、ジャン・コクトーは1889年フランス・パリ近郊の小さな町、メゾン=ラフィット生まれ、高校生時代に学業には力を入れず、マルセル・プルースト(Valentin Louis Georges Eugene Marcel Proust、1871-1922)らと出会うなど文学に没頭するが、大学受験に失敗し、進学を断念し、1909年に自費で最初の詩集「アラディンのランプ」を発表した。

1917年にピカソ、作曲家のサティ(Eric Alfred Leslie Satie、1866-1925)らと手がけたバレエ「パラード」を初演、早熟の天才ラディゲ(Raymond Radiguet、1903-1923)と仕事を共にしていたが、1923年の彼の早すぎる死により、コクトーを悲嘆に暮れさせ、その後、10年に渡り阿片に溺れる。1929年に阿片の療養の中で小説「恐るべき子供たち」を執筆、1930年に「詩人の血」を実質の初監督、1934年に演劇「地獄の機械」を初演した。

1936年に世界一周の旅で日本に滞在、友人で日本帰国中の藤田嗣治(1886-1968)と再会し、相撲観戦や歌舞伎見物など夜の歓楽街の散策を供にした。1940年にシャンソン歌手、エディット・ピアフ(Edith Piaf、1915-1963)のための演劇「Le Bel Indifferent(ル・ベル・アンディファレン、美しき無関心)」を制作し、この年に阿片から足を洗っている。

1945年に代表的映画作品「美女と野獣」を監督、1955年にアカデミー・フランセーズ、ベルギー王立アカデミーの会員に選出され、1960年にフランスの詩人、アンドレ・ブルトン(Andre Breton、1896-1966)の反対を受けながらも「詩人の王」に選ばれる。1963年10月11日にエディット・ピアフがガンにより死去、コクトーはそれを知ってショックを受け、その日の夜、就寝中に心臓発作を起こし急死した。あたかもピアフを追いかけるように亡くなり、2人とも没年月日が同じ。

ルシアン・クレルグは1934年南フランス・アルル生まれ、1950年代後半よりピカソ、ジャン・コクトーの知己を得、1953年にアルルの闘牛場でパブロ・ピカソを撮った時より写真家としてスタートし、1956年に「波のヌード」作品で脚光を浴び、1957年にピカソが表紙をデザインした作品集「記憶される肉体」を出版、1961年に15本の短編映画と2本の中編映画を制作、ピカソの晩年30年間を描いた「ピカソ、戦争、愛と平和」で評価される。

1970年代にアルル写真フェスティバル創立者の一人で、ディレクターとして活動し、1980年に写真貢献者としてフランス国家の名誉顕彰、シュバリエ賞を受け、2014年11月に逝去した。

ロール・アルバン=ギーヨは1879年パリ生まれ、1897年に顕微鏡検査の専門家アルバン・ギーヨ(Albin Guillot)博士と結婚し、1922年にヴォーグのフランス語版で最初のファッション写真を公開し、1925年から発表した作品に「Laure Albin Guillot」と署名した。

1929年に夫の死亡後、コクトーらの指示により、大通りボーセジュールに移り、1931年にフランスで最初に科学を視覚芸術と組み合わせた装飾的な顕微鏡画像を撮影し、1931年に女性専門家の利益を支える組織「女性自由貿易連合」の会長、1932年に美術庁総司令官や国の映画館などのトップに任命され、1962年2月にパリのサン・アントワーヌ病院で死亡した。

「TARO’S CAFE」によると、エドゥアール・デルミットはコクトーの死後、パートナーだったことからコクトーの遺言によりコクトーの包括受遺者となり、コクトーはデルミットの死後、著作権と著作者人格権双方をジャン・マレー(Jean Marais、1913-1998)に移譲し、マレーの死後は双方をコクトーの友人・パトロンだったフランシーヌ・ヴァイスヴァイラー(Flancine Weisweiler、1916-2003)の娘キャロル・ヴァイスヴァイラー(Carole、1942年生まれ)さんに移譲するよう指定した。

ところが、ジャン・マレーがこの相続を拒否したため、デルミットは遺書で著作権継承者として息子のステファーヌ・デルミット(Stephane Dermit)を、人格権継承者としてデルミットが使っていたコクトーのデッサン鑑定家のアニー・ゲドラ(Annie Gedora)を指定した。

その後、デルミットは数日後に遺言補足書を付加し、こんどはデルミットと親しく、しかもイヴ・サンローラン(Yves Saint-Laurent、1936-2008)のパートナーだったピエール・ベルジェ(Pierre Berge、1930-2017)を人格権継承者に指定し直し、ゲドラは独占鑑定権利者とされた。1995年にデルミットの死後、関係者によって話し合われ、著作権はステファーヌ・デルミットさん、人格権はベルジェ(人格権管理費用として著作権料の30%を受け取る)がそれぞれ独占継承し、ゲドラはコクトーのグラフィック作品の独占鑑定人とされた。

開場時間は10時30分から18時30分(最終日は17時)。入場料は500円。日曜日は休み。展示されている作品はすべて販売する。