小池真理子「死の島」、安楽死に踏み込んだ重厚な作品(書評編、110)

(著者がインドから帰国したので、タイトルを「インドからの帰国記」としています。連載の回数はそのまま継続しています)
【モハンティ三智江のインドからの帰国記=2022年10月17日】小池真理子の長編小説「死の島」(文藝春秋、2018年)を読んだ。「オール讀物」(文藝春秋)に2016年11月から2017年11月まで連載された小説で、50代の頃両親を看取って以来、「死」についてずっと考え続けてきたという著者が満を持して放つ力作長編だ。

「安楽死」がテーマの重厚な作風だが、一旦読み出すと、引き込まれ、完成度の高さに、3日で読み了えた。

末期の腎臓癌で余命幾ばくもない古希目前の元出版者編集者、澤登志夫が主人公で、澤が小説教室の講師だった頃、受講生だった宮島樹里、20代の若い娘が、最後の女性として絡んでくる。

樹里が若いにしては、全く洒落っ気のない、いかにも小説を書きそうな女性として、巧みに描写されている。化粧せず眉もぼさぼさ、髪は後ろで束ね、装いも地味で若さの華やぎがないのに、顔立ちは整い、妙な性的魅力がある、この人物設定は実に効果的だ。

最後に軽い抱擁だけで、性的絡みはないが、それはひとえに澤の前途ある若い娘を巻き込みたくないとの優しさからで、この優しさは私に夫君(故藤田宜永)を思い起こさせた。肉体のもつれはなくても、心理描写が巧みで、男女間の精神的なやり取りは読み応えがある。樹里はいわば、死に瀕する老人に手向けられた、最期の花、であった。

題名にもある通り、スイス画家、アルノルト・ベックリン(Arnold Bocklin、1827-1901)が1880年から1886年にかけて繰り返し同じテーマで描いたと言われる謎めいた絵画「死の島」がモチーフになっている。

暗い水辺に浮かぶ一艘の小船には白い棺と白いローブの人(亡霊)、オールを漕ぐ船頭(冥府への案内人)、目前に見えている黒い糸杉に覆われた岩が屹立する島へ、つまり死人の行く島へ向かいつつあるというわけだ。作中では、この絵はかつて、澤が深い関係にあった女性が死に瀕して愛人に遺したという設定になっており、主人公が壁に貼って、ことあるごとに眺めながら思いを馳せる。

直接知人の医家2人に取材したというだけあって、末期の腎臓癌についての病状や治療法は詳らかに描写され、専門的にも手抜かりない。特に、澤がまだ壮年の編集者時代、取材関連で医者から漏れ聞いた話として、医者の自殺率が高く、脱血法、点滴器具装置を操作して自決した麻酔医がいたというエピソードが効果的に盛られ、後年死に瀕した主人公が選ぶ安楽死法へと繋がっていく。

読んでいて、澤登志夫像が否応なく、藤田宜永(よしなが、1950-2020、享年69)に重なり、不吉な符合にはっとするが、この小説が書かれた時点では夫君の癌(肺)はいまだに発覚していなかったはずだ。私自身にも経験があるのだが、フィクションとして書いたことが現実になることがままあり、先取りというか、予知というか、不思議な現象だ。

やはり、ある女性の死を作中に書いたら、1年後その通りになった。知人ともいえぬ、行きすがりの句会の高齢リーダーで、図書館カフェで隣り合わせただけで1度も口をきいたことがなかったが、私とニックネームが同じで、耳にとまり、彼女をモデルに短い作品に仕上げたのだ。

故人の藤田宜永を偲ばせるという意味でも、この作品は因縁めいて感慨深かった。主人公が死への恐怖や不安、絶望に苛まれる描写はそのまま、後年著者が上梓した追悼集、「月夜の森の梟」(朝日新聞出版、2021年)に描かれた末期の肺癌で床に就く夫君の恐怖や不安、怯えに通じ、痛ましかった。

著者はこの作品で、後の伴侶の死への恐怖、不安、怯えを先取りして描写していたのだ。まさか後年、目の前の現実として目撃することになろうとは、没頭して書いている最中は思ってもみなかったろう。

作家の業、最愛の伴侶の死すらフィクションで先取りしてしまう怖いほど研ぎ澄まされた感性、啓示ともいうべき創造的予知に、改めて震撼させられた。

(「インド発コロナ観戦記」は、92回から「インドからの帰国記」にしています。インドに在住する作家で「ホテル・ラブ&ライフ」を経営しているモハンティ三智江さんが現地の新型コロナウイルスの実情について書いてきましたが、92回からインドからの「脱出記」で随時、掲載します。

モハンティ三智江さんは福井県福井市生まれ、1987年にインドに移住し、翌1988年に現地男性(2019年秋に病死)と結婚、その後ホテルをオープン、文筆業との二足のわらじで、著書に「お気をつけてよい旅を!」(双葉社)、「インド人には、ご用心!」(三五館)などを刊行しており、コロナウイルスには感染していません。また、息子はラッパーとしては、インドを代表するスターです。

2022年10月5日現在、世界の感染者数は6億1980万5967人、死者は655万2301人(回復者は未公表)です。インドは感染者数が4460万4463人、死亡者数が52万8745人(回復者は未公表)、アメリカに次いで2位になっています。編集注は筆者と関係ありません)。