インドから帰国後初の観劇、仲代の迫力、堂々たる風格に感動(113)

(著者がインドから帰国したので、タイトルを「インドからの帰国記」としています。連載の回数はそのまま継続しています)
【モハンティ三智江のインドからの帰国記=2022年11月23日】9月18日、石川県の能登中島町にある「能登演劇堂」(石川県七尾市中島町中島上部9)に仲代達矢(1932年生まれ)主演のロングラン劇「いのちぼうにふろう物語」(9月3日から10月10日まで、16時30分開演で、上演時間は15分の休憩を挟んで2時間30分)を観に行くバスツアー(北國観光)に参加した。

レストハウスのテラスから見下ろした千里浜なぎさドライブウェイ(石川県羽咋市)。

ネットで仲代達矢の俳優70周年記念芝居が能登で催されると知って、漠然と行きたいなと思っていたのだが、たまたま地元の観光バスが日帰りの芝居ツアーを組むと知って、行く気になったのだ。何よりも、同郷の芝居通Hに一見の価値ありと勧められたことが決め手になった。

値段は1万6800円とお安くないが、県割で5000円引き、2000円のクーポン券もつく。まず主催会社に電話して、空きを確かめた。残席は18日2席と19日6席しかないとのこと、前日の陰性証明取得を考えると、日曜日の18日に行くしかない。すでに木曜日、予約前に繁華街・香林坊の無料検査御用達のあおぞら薬局に電話して、予約をしてから、観光会社に再度電話して予約、前日の陰性証明が必要というので、検査が終わったその足で北國新聞社ビルの12階に入っている北國観光に直接証明書を提示がてら、代金を払いに行くことにした。

あおぞら薬局から北國観光まで歩いて5分、いずれも香林坊で、自宅マンションからは徒歩30分、通い慣れた距離だ。電光石火のスピードで決めて、駆け込み参加に間に合ったというわけだ。

陰性証明は4月に受けてから5カ月弱ぶりで、少し緊張したが、やり方が若干変わっており、さらに簡易化され、キットを渡され、すべて自分でやる方式だが、片鼻孔だけでよくなっていて、鼻孔を軽く5回ぬぐった綿棒を薬液に何回か潜らせ、蓋をして穴の空いた蓋から検査キットに3滴垂らすのだが、検査液を垂らすのは店員に代行してもらった。15分とたたぬうちに結果が出て、晴れて陰性で、陽性ならキャンセル料が60%も取られる旨、了承していたので、ほっとした。

意気揚々と北國観光に向かい、陰性証明を提示、5000円割り引いた1万1800円を払い込んだ。出発は12時30分の金沢駅西口(集合時間12時20分)と、朝ゆっくりしていられるのがうれしい。

当日、自宅マンションの最寄りのバス停から金沢駅まで12時過ぎに到着、西口の観光バス乗り場にはまだバスが来ていなかったが、何人かが列を作っていた。駅の構内でトイレを済ませ、戻ると、人が倍に増えていた。

列に並び、ID表示にパスポートを見せ、検温後健康チェック表を渡し、到着バスに乗り込む。自由席と思い込み、中程に悠々と座っていたら、席の本人が現れて、指定席だったことがわかり、バスの前方に貼られている紙で改めてチェックすると、最後部の端の座席だった。今ツアーの空いていた最後の2席にぎりぎり割り込んだのだから、仕方ない。バスの席はともかくも、芝居の席が見やすい前寄りであることを祈るばかりだった。

全員着席後、出発。40分ほど行くと、最後部の大窓越しに穏やかに凪いだ日本海が開け、ほどなく千里浜なぎさドライブウェイへ。ここで昼食休憩1時間、レストハウスに入ると、他の客でごった返すダイニングの奥のテーブルに既に食膳か用意されていた。

大きな貝型の陶器蓋を開けると、あさりの炊き込みご飯が。お菜は、野菜とかれいの煮物、アジフライ、酢の物、香の物、お吸い物の定食。炊き込みご飯がおいしくて、食が進んだ。食後、デッキテラスに出ると、海が目の前に開け、風光明媚、端の階段を降りて、海岸に出てみた。

台風が近づいているが、北陸は今日はまだ晴天、車が通れる浜として名高い千里浜なぎさドライブウェイには何度も来ているが、海の息吹きに直に触れて、久々の潮の香りに生き返る心地がした。

浜には車が何台か停められ、轍もついて、海が少し濁っているようにも感ぜられたが、インド東部プリーのベンガル海を小ぶりにしたようなまっすぐな海岸線は胸がすくような爽やかさだった。

マスクを外して深呼吸、付近を遊歩、また戻って、サンドアート、砂造形を見たり、缶コーヒーを買ってデッキで一休み。トイレを済ませ、時間になったので、レストハウス前の駐車場に停められたバスに戻った。入口には、旗を持った添乗員が皆の帰りを待ちわびていた。

15分後、羽咋市(はくいし)の気多大社(けたたいしゃ)へ。羽咋はUFOの町としても有名で、UFO博物館(正式名はコスモアイル、宇宙科学博物館)は見学済みだったが、国指定重要文化財の気多大社(その名の通り、気が多く集まるパワースポット)については、知らなかった。巫女さんに案内されて、漁業大漁や商売繁盛の神様が祀られた本殿をはじめ(縁結びのご利益もあり)、脇を下ったところにある学問の神様、菅原道真小社をお参りしたあと、バスへ。

能登の山間にある能登演劇堂は、周囲にのどかな田園地が開け、自然美に恵まれたひなびた里にある。

後40分ほどでお目当ての能登演劇堂に着くとアナウンスされ、既に渡されていたクーポン券に続いて、芝居の切符も配られた。私の座席番号は10列目27番、前寄りなのか、後ろなのか、劇場に入ってみないとわからない。

いずれにしろ、海の見えるレストハウスでの昼食並びに簡易観光付きのこの観劇ツアーが、県割の助けもあって大変お得なことは間違いない。一般販売されているチケット代金は8500円なので、往復の交通費込み1万1800円プラス2000円クーポン券、実質9800円、1万円切るのだから、ほくほくだ。

能登の山中を抜けて、田園地が広がるのどかなところに、能登演劇堂はあった。何となく山小屋風をイメージしていたが、立派な近代ビルだった。ひなびた地には似つかわしくないほどの、立派さだ。

開演前の館内には、たくさんの待ち客が群れていた。仲代達矢関連展示室があったので見学、その後チケットを自分でもぎってホールに入り、席に着くと、思ったより前寄りで喜んだ。ツアー客への特別配慮かもしれない。最後の2席(バス)のひとつでも、こんないい席なんて。

能登演劇堂の館内の当日券売り場に群がる客。当日の観覧料は前売より500円高い9000円。

いよいよ、幕が開いて鳴り物入り芝居の始まり。出し物は山本周五郎(1903-1967)原作(「深川安楽亭」新潮文庫、1973年)の江戸人情もの、時代劇だ。ベテラン大御所の無名塾主宰者、仲代達矢は一膳飯屋・安楽亭の主人。1971年に初映画化されたときは、ならず者の長、定七役(安楽亭の看板娘で定七に想いを寄せるおみつ役は栗原小巻)だったが、90歳近い高齢からも、安楽亭の親父役が適役、初登場してセリフを聴いたとき、その風格と貫禄にさすがと唸った。

後半立ち回りもあるが、もうすぐ90になろうとは思えぬほどパワフルだ。芝居に賭ける情熱衰えず、後世の役者育成にも注力を惜しまない、レジェンド俳優の天才的な力量にただただ圧倒された。

ひと口に70周年というが、第1線で活躍し続けるのは、生易しくない。山あり谷あり、脚本演出担当の欠かさざる相棒だった愛妻(宮崎恭子、1931-1996)に先立たれ、傷心の中、なおも能登ベースの無名塾の遺志を継いで盛り立て続ける気力、その圧倒的なパワーは舌を巻くばかりだ。

時代劇は苦手な方なのだか、仲代達矢の貫禄に引っ張られてと、舞台装置、回り仕掛けや、外部空間を取り込んだひじょうに珍しいステージの奥行き、役者の声がよく通る天井の高さ、音響装置に感心した。

お祝いの蘭の花鉢と、芝居中に使われる御用提灯。

仲代達矢のセリフが決まって、かっこよかったし、若手の無名塾の弟子俳優が、親方をよく盛り立てて熱演、まさにベテラン、大御所の面目躍如たるところ。生(なま)の仲代達矢を観るのは、これが最初で最後の機会と思うが、もしいま1度機会が授けられるなら、18番のシェークスピア劇を鑑賞したいものだ。

※ブラボー!仲代達矢。最後の役者が全員揃っての舞台あいさつでは、鳴り止まぬ拍手に応えて(天井には仲代達矢の亡き妻・宮崎恭子の遺影ディスプレイが垂れ下がる)、3たびの登場、そのたびに芝居の緞帳(どんちょう)が上がり、仲代達矢を中央に全員が深々とお辞儀、また幕が閉じ、盛大な喝采にもう一度開閉、さらに3たびカーテンコールと、観客に大サービスであった。

★ディテール・メモ
〇仲代達矢プロフィール
幼い頃から映画に憧れたが、父親が病弱で早逝したため、家計は苦しく、第2次世界大戦下苛酷な幼少期を過ごす。戦後、解禁となった洋画を始め、貪るように映画を観る青春時代の中、俳優を志し、俳優座付属養成所に4期生として入所した。

千田是也(1904-1994)に師事し、「ハムレット」や「四谷怪談」など、多数の舞台に出演、映画界では、小林正樹(1916-1996)監督に見出され、「黒い河」をはじめ「人間の絛件」や「切腹」などに出演、黒澤明(1910-1998)監督の「影武者」をはじめ「用心棒」や「乱」のほか、成瀬巳喜男(1905-1969)、岡本喜八(1924-2005)、市川崑(1915-2008)、五社英雄(1929-1992)ら日本を代表する監督の作品に多数出演し、舞台と映画を両輪としてキャリアを重ねた。

日本アカデミー賞と、世界3大映画祭(カンヌ、ベネツィア、ベルリン)のすべてで出演映画が受賞した実績を持つ。テレビドラマの代表作では、「新・平家物語」(1972年)や「大地の子」(1995年)など多数。勲四等旭日小綬章(2003年)、文化功労賞(2007年)、川喜田賞(2013年)、朝日賞(同年)、文化勲章(2015年)などを受賞した。

妻の宮崎恭子とは、舞台「森は生きている」(1955)の共演がきっかけで1957年に結婚、無名塾では、妻に脚本・演出を任せ、自らは出演という形で継続してきたが、1996年に妻を癌で喪ってからは、時に演出をも兼ねる形で続いている。

〇「いのちぼうにふろう物語」のあらすじ
舞台は江戸深川。「島」と呼ばれる無法地帯にある一膳飯屋「安楽亭」。老いた主人がならず者の親代わりで、温かく見守っている。ある夜、誰もが足を踏み入れることをためらうこの島に1人の若者が迷い込む。

公権力から目をつけられた密輸業者たちが、縁もゆかりもない若者の恋を成就させるため、吉原に売られた恋人を奪還するべく、命を張る決意をして、露と消えていく。

〇能登演劇堂について
1983(昭和58)年、妻とその母を伴い、能登を訪れた仲代達矢は、知り合いを訪ね、旧中島町に立ち寄った。波静かな美しい内湾や黒一色の瓦屋根と白壁の蔵が織り成す町並みに強い印象を受け、ふとこんなところで無名塾の合宿が出来たらと焦がれたのが始まり。

2年後の1985(昭和60)年に実現、以後、1995年の演劇堂開館の翌年までおよそ10年間、地元の芝居愛好家やエキストラを巻き込んだ形で交流は続く。こうした交歓により、町民の演劇への思い、演劇によるまちづくり構想が高まり、感動した仲代達矢が監修を引き受ける形でホール建設が実現した。

能登演劇堂を演劇によるまちづくりの拠点として、数年ごとに無名塾によるロングラン公演を定期的に開催することになった。中島町が七尾市と合併後は、より広域から市民エキストラ、ボランティアスタッフが集い、一丸となって創りあげる舞台に、全国各地から多くの客が訪れる。

能登演劇堂は、そうした無名塾と七尾市中島町との長い交流の末に、1995年5月12日に誕生した演劇専用のホールで、日本で唯一の自然と舞台が一体になった構造、舞台後方が開いて外部空間と繋がる造りになっている。アクセスは、能登の山中なので、車が便利だが、電車なら金沢駅よりJR七尾線で七尾駅まで、そこからのと鉄道で能登中島駅下車(全行程約2時間)、徒歩20分。

〇無名塾について
俳優座の看板俳優だった1975年、妻で女優の宮崎恭子と共に創立、後進の役者育成のための養成所を開始した。1979年には俳優座を退所、夫妻の稽古場から生まれた若手俳優育成のための私塾は以後47年間、次代を担う俳優を多数輩出してきた(有名どころは役所広司)。

塾員・塾生とともに全国で無名塾巡演、「どん底」や「リチャード3世」を始め、芸術選奨文部大臣賞、毎日芸術賞、紀伊國屋演劇賞、読売演劇大賞ほか数々の受賞歴に輝く。仲代達矢は、俳優座時代から無名塾公演に至るまで、多くのシェイクスピア作品に主演した。パンフレットには、仲代達矢の前書きあいさつ文として、「いのちをぼうにふってでもやりたかったものは、無名塾の活動」とあった。

(「インド発コロナ観戦記」は、92回から「インドからの帰国記」にしています。インドに在住する作家で「ホテル・ラブ&ライフ」を経営しているモハンティ三智江さんが現地の新型コロナウイルスの実情について書いてきましたが、92回からインドからの「脱出記」で随時、掲載します。

モハンティ三智江さんは福井県福井市生まれ、1987年にインドに移住し、翌1988年に現地男性(2019年秋に病死)と結婚、その後ホテルをオープン、文筆業との二足のわらじで、著書に「お気をつけてよい旅を!」(双葉社)、「インド人には、ご用心!」(三五館)などを刊行しており、コロナウイルスには感染していません。また、息子はラッパーとしては、インドを代表するスターです。

2022年11月15日現在、世界の感染者数は6億3516万7176人、死者は661万0132人(回復者は未公表)です。インドは感染者数が4466万6924人、死亡者数が53万0532人(回復者は未公表)、アメリカに次いで2位になっています。編集注は筆者と関係ありません)