ライブラリー夜話 スノウ・ブライド

【モハンティ三智江のフィクションワールド=2022年12月4日】夜になって、雪がひとしきり烈しく降り出した。細かい羽虫のように舞い散る雪は、積もることはないだろうが、朝からの雪曇りの悪天に祟られ、客足も鈍かった。

瑛士(えいじ)は、海沿いの田舎町で、半年前から古民家を改造したフランス料理店「トレビ」を営業している。東京のフランス料理店で10年修業した後、生まれ育った故郷の外れの港町で、旧い町屋を見つけ、貯めた資金で念願のオープンに漕ぎ着けたのだ。

町に一軒しかないフレンチということで、客足は上々、最初は物珍しさから地元客が多かったが、中央の雑誌にひなびた海沿いの瀟洒なフレンチレストランとして取り挙げられて以来、都会からの旅行者も訪れるようになった。

暖房で温(ぬく)まった店内は、22時閉業の30分前、数少ない客も全員去って、がらんとしていた。

瑛士は、フレンチウィンドウの円窓越しに、紫紺の夜空からひっきりなしに舞い落ちるささめ雪に、客はもう来ないだろうと、エントランスのドアを締めかけた。

そのときだった。ガラスのドアの向こうに、ぼうっと白い人影のようなものを見たのは。錠をかける手を止めて、しきりに舞いしきる雪の帳(とばり)に目を凝らした。街灯を反映して青白く光る紗(しゃ)の陰から、一瞬後に、白い毛皮のロングコートで防寒した女人が現れた。

あまりに唐突な現われ方に、瑛士は意表をつかれた。頭を覆った白絹のショールは繊細なチュールのようで、シルバーに染め抜かれた長い髪が覗いて雪の粒をきらきら弾いている。肌が抜けるように白い上、傘まで白で、全身真っ白、まるで雪の精のような神秘的な美女だ。

引き込まれて見とれる瑛士の正面、雪で曇ったガラス越しに、白い革の手袋が当たり、こつこつと打音を発した。はじかれたように、瑛士は鍵を開けた。

「いらっしゃいませ」

閉業間近なことを理由に、断ることもできたが、ミステリアスな美女の登場にあやかしを食らったように、とっさに迎え入れていた。

長いこと、厳寒の外を歩いていたにちがいない女の白一色の全身から、もやっと冷たい空気が立ち上った。瑛士はぞくりと戦慄を覚え、あとじさった。

年齢不詳の艷めかしい美女は謎めいた微笑をたたえ、ゆっくりと窓際のテーブルに進んだ。コートと対の毛皮のブーツがカツカツとリノリウムの床を踏んでいく。

白い毛皮のコートの下は、やはり真っ白のドレスだった。不思議な光る素材でできた、まるで淡雪のようなふわふわした繊細で麗わしい、あたかも婚礼衣装を思わせるかのような純白のドレスだ。瑛士は一瞬、どこかの式場から花嫁が逃げ出してきたものかといぶかったほどだ。それほど、彼女は類まれな美貌といい、人目を惹く装いといい、ドラマチックだった。

我に返ってコートを受け取り、メニューを手渡すと、
「ごめんなさい。おなかは空いていないの。軽いオードブルと、赤ワインを戴けないかしら」
「かしこまりました。ワインの銘柄はどうなさいますか」

ショールを取って、長い銀髪をはらりと肩に落とした女性は、メニューを覗き込みながら、
「じゃ、これ」
と無造作に、一番高いワインを選んだ。
「かしこまりました」

瑛士は会釈して、厨房に引っ込むと、手早く、フォアグラのテリーヌやムースコンソメゼリー、キャビア乗せカナッペと、チーズ&サラミなどを盛り合わせたひと皿を用意し、バゲットの籐籠とともに、ワインをクーラーに入れて、バカラのグラスと共に運んでいく。

最高級の装飾グラスは、ミステリアスな美女にひときわ似合うような気がした。

ワインの栓を開けて、グラスにおもむろに注ぐ。バイトの給仕は既に帰っていたので、オーナー自らのサービスだ。慣れたはずの手付きが柄にもなく、少し震えた。

女性に関しては不器用で、40過ぎた今も、独身のままだ。

既に閉店時刻は過ぎていたが、言いそびれた。迎え入れてしまった以上、飲食が済むまで待つのが礼儀だ。それに、雪はまったく止む気配がなく、風を伴って烈しさを増すばかりだった。こんな悪天の中をせっかく訪ねてくれたのに、無下に追い返すのも忍びない。よいワインで少し温(ぬく)まってから帰ってもらいたかった。

それにしても、不思議だ。こんな降りしきる中を、いったいどこから来たのだろう。土地の者でないのは、ひと目でわかる。少し外れた大通り沿いにある、最近できたばかりのペンションに泊まっているのかもしれない。あそこなら、雪の中歩いても、15分とかからない。

女性は、優雅な白い指先で繊細なカットグラスの足をつかみ、ゆっくりと嗜んでいる。合間に長い指でカナッペをつまみ、ワインを流し込む。キャンドルの揺れる焔が白皙(はくせき)の頬に反映し、白一色の装いの中でそこだけ薔薇色に暖かく燃えていた。

瑛士は、邪魔にならないように、ワイングラスが空になるのを見計らって、さりげなく満たし続けた。

ボトルが半分以上空いたとき、ラストオーダーを取った。女は首を傾げて考え込むようにしていたが、
「ワインをもう1本、戴いてよろしいかしら。今度は白を」
とけろりと言ってのけた。時計は23時を回っていた。これまでも、地元客がボトルを飲み終わらず、閉店を1時間ほど延長したことはあったが、今からだと真夜中を過ぎてしまう。

が、雰囲気に気圧されて、瑛士はいやと言えず、今度も一番高い白ワインを給仕する羽目に陥らされた。サービスに、ウニや貝をあしらった小皿を持っていくと、喜ばれた。

空いたグラスをさりげなく満たしたとき、
「もしよろしかったら、ご一緒にいかが」
と誘われた。辞退するつもりが、女のほろ酔い加減の潤んだ瞳にひたと見据えられると、吸い込まれたように頷いていた。

口下手な瑛士も酒が入ると、重かった舌も回り出し、気になっていたことを訊けた。
「お客様は、もしかして、表通りの新しくできたペンションにお泊まりじゃないですか」

「いえ」
意外な返事が返ってきた。

「心配しないで。これを飲み終わったら、帰るから」
「そうですか。タクシーをお呼びすることもできますんで。それにしても、止む気配がありませんね。積もらなきゃいいんですが」

瑛士の懸念をよそに、女性はぼんやり目を粉雪の舞いしきる窓外に注ぐ。少し青みがかった瞳が窓の外の雪を映して、不思議な色に陰った。

「霧のように細かい雪って、神秘的ね。自分がどこにいるかもわからなくなる」
「雪で視界が閉ざされると、旅行者の方は方向感覚が狂って迷われることもあるようです」
「そうね。四方が真っ白に閉ざされていると、不慣れな町では、迷ってしまうでしょうね。ねえ、マスター、そうなったら送ってくださる」
「はあ、ええ、それはもちろん」
瑛士はしどろもどろに承諾した。胸がどきんと高鳴った。

それから、何本のボトルが空いたか、わからない。朦朧(もうろう)とした意識の中で、ひたと見据えられ、矢庭に息を吹きかけられた刹那、瑛士はその場に倒れ込んでいた。

目覚めると、氷でできたゴチック式教会にいた。祭壇の前に青白い幽鬼のような牧師がいて、彼と傍らに立つ女に代わる代わる宣誓を促した。口移しに述べた後、女の白いベールが取り除かれ、誓いの接吻を促された。瑛士は、白い陶器のような女の顔の唇に吸い寄せられるように口づけて、ぞっとする冷たさに悪寒が走った。

初夜も、氷でできたお城の氷のベッドで、人の体温が通わない冷たい女の肌にぞくぞく寒気を覚えながら、義務のように果たした。早く元の暖かなねぐらに帰りたかった。そのくせ、甘い死の誘惑にも似た抗いがたい甘美さに酔いしれ、体が金縛りにあったように動かなかった。

次に目覚めたときは、ストーブの火が消えたレストランにいて、女の姿は跡形もなく消え失せていた。

テーブルの上には、バカラの飲みかけのグラスが2つ、空になったワインボトルが5本転がっていた。オードブルの皿には、しなびたクラッカーが1枚貼り付いていた。踏み倒されたと知っても、不思議と怒りは湧かなかった。

ふっと、吹きかけられた息が凍るように冷たかったことを思い出し、この土地に伝わる雪女伝説を今さらながらに思い返した。

雪の降る十五夜の晩、白無垢の打ち掛けを羽織った花嫁御陵さんがどこからともなく現れて、通りすがりの男を見つけると、喉元の傷を見せて助けを請うというものだ。雪道に着物の裾を引きずった跡がないばかりか、履物なしの白足袋の跡もついていない。

怖くなった男が逃げようとすると、白い綿帽子の下に覗く凄惨な美貌を餌に引き込み、金縛りにして動けなくする。たちまちにして本性を顕わした妖怪は、大好物である男の肝を抜き取った後、谷底に突き落とすとのことだった。

昔、祝言を控えた女が、いつまでたっても現れぬ男に悲観して、短刀で喉を掻き切り、果てたとの言い伝えがある。純白の花嫁衣裳は、噴き出す血潮に赤く染まったそうだ。

それの外国版かといぶかりながら、取って食われずよかった、命拾いをしたと胸を撫で下ろす一方で、官能的な一夜を共にした女への未練も残り、異界の結婚式と初夜のことをいつまでも反芻していた。

雪女なんかではないと、怖さ半分信じたかった。ひんやりと冷たい女体は、かぐわしい香りがしたことを思い出し、下半身がむずむずした。

それからしばらく、瑛士は気が抜けたようになっていたが、歳月とともにこの不思議な出来事は、記憶の片隅に押しやられた。心のどこかで女が今1度戻ることを待ちわびる一方で、これ以上深入りすると危険だとの自衛本能も働いていた。

5年後、雪の烈しく舞う晩に白いベレー帽にマントを羽織った幼女が店に紛れ込んで来た。白い羽の妖精のような可憐さに瑛は思わず見とれたが、同伴の保護者の姿はなかった。とっさに迷い子らしいと悟った瑛士は中に招き入れ、温かなシチューを供したが、子どもは猫舌なのか、食べすにアイスクリームを所望した。ぽつぽつと住んでいるところや、両親のことを尋ねるが、要領を得ない。

「どこに住んでるの」
「氷のお城」
「ママは」
「ここに行きなさいって」
「ここって、僕のところ」
「そう、だから来たの」
「道を迷ってレストランに来ちゃったんだね」
「違うわ。ママの教えた通りの場所に来たと思う」
「とにかく、今日はもう遅いから、おじさんのところに泊まって、あした警察に行こう」
「ねえ、私が誰だかわからないの」
「さあ」
「私、パパに会いに来たのよ」
瑛士はドキンとした。このこましゃくれた幼女は何か、勘違いしているらしい。
「ママが、ここに来れば、パパに会えるって送り出してくれたの」

おませな幼女は肩からたすき掛けにした白い毛皮のポーチを開けると、何やら取り出した。小さな手が差し出した写真には、確かに見覚えのあるいつかの忽然と消えた美女が映っていた。氷の教会で式を挙げた後、氷の城の氷のベッドで、震えながら人肌の温もりがない女の中に射精したことを思い出した。

瑛士はまじまじと目の前の愛らしい顔つきを見つめ、これがあのときできた・・・と思い当たり、腰が抜けて床にストンと尻もちをついた。

女の子は無邪気に笑い声をあげて、腰を抜かした人間の父をいたずらっぽく見下ろしていた。

せまがれてひとつベッドに入り、眠れないまま夜を明かし、おしっこに行きたいという女の子をトイレに案内し、用を足すのを待っているうちに急に強烈な眠気が襲ってきて、意識を失い床に倒れ込んでいただ。

次に目覚めると、女の子の姿は跡形もなく消えていた。ただベッドが小さな人の形に濡れていた。まるでおねしょをしたみたいに。薄荷に似た甘い匂いが辺りに漂っている。

雪は止んで、白々とした明るみが差す中、ミステリアスな母娘にひととき惑わされた心地で、ダウンジャケットも羽織らず外に飛び出すと、うっすら雪化粧した銀世界に、夢でなかった証左のように、白いベレー帽が雪面に貼り付いてきらきら光っていた。
(「フィクションワールド」はモハンティ三智江さんがインドで隔離生活を送る中、創作活動にも広げている続きで、「インドからの帰国記」とは別に、短編など小説に限定して掲載します。本人の希望で画像は使いません)