母の1周忌に大谷本廟に分骨、延暦寺と姫路城も堪能(116)

(著者がインドから帰国したので、タイトルを「インドからの帰国記」としています。連載の回数はそのまま継続しています。今回は1周忌レポートの後編です)
【モハンティ三智江のインドからの帰国記=2022年12月27日】京都の大谷本廟に母のお骨の一部を納めて、1周忌をつつがなく終え肩の荷を下ろした翌朝は、市バスで30分の比叡山延暦寺(標高848メートルの比叡山全域を境内とする天台宗の総本山)へ向かった。つづれ折の道をバスは登り、琵琶湖を見下ろしながらさらに高所へ。

比叡山延暦寺の東塔エリアの総本堂、国宝・根本(こんぽん)中堂(創建788年)には、1200年絶やされることのない法灯が。改修中でやや風情が損なわれたが、はるか千年を超えて燃え続ける炎は神秘的だった。

ここでちょっとおさらい、比叡山とは滋賀県と京都府の境にあり、東に琵琶湖、西に京都市街を見下ろす神山で、伝教大師・最澄(766-822)が788年に延暦寺を創建したことで巷間に知れ渡る。

広大な山内(さんだい)は東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)と3地域に分けられ(総数3塔16谷2別所にある150ほどの堂宇だが、最盛期は3000超あったとか)、シャトルバスも運行されている。親鸞(しんらん、1173-1263)をはじめの多くの名僧が修行した「仏教の総合大学」、曰く「日本仏教の母山」は、1994年に世界文化遺産に登録されたことでも名高い。

東塔のバス停に降り立った私はまず、徒歩で行けるこの界隈の寺院群をお参りすることに(諸堂巡拝券1000円)。国宝殿、大講堂と見て、鐘楼で鐘をついた後、大黒堂、文殊楼、総本堂の根本(こんぽん)中堂へ。生憎改修中で風情が損なわれたが、最澄が1刀3礼して刻んだ薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)前には、1200年絶やされることのない不滅の法灯が燃え輝き、神妙に掌を合わせて、敬虔な気分になった。

さらに少し先を歩いて、奥に見えてきた宿坊延暦寺会館で休憩。2階の椅子が置いてあるコーナーで、自販機の缶コーヒーを飲みながら、持参した菓子パンを食べて軽食ランチとする。最後に、来た道を戻り、戒壇院(かいだんいん)を過ぎて、西塔への道筋に至る奥まったところにある阿弥陀堂、法華総持院へお参り。

これで東塔は制覇と、まだ13時過ぎで時間はあったが、帰るつもりで歩き出した。と、西塔への道標が目前に立ちはだかり、徒歩20分とある。そんな近いのかとつい欲が出て、15時30分のバスで帰っても2時間余りあることだしと、踵を返し、道標の指し示す方角に歩き出した(実際には20分どころでなく、全部見て回ると、ゆうに2時間近く要したのだが)。

最後に、西塔の本堂、釈迦堂に行き着いたときは、クタクタ。お釈迦さまの名にふさわしい、創建を鎌倉時代に遡る美しい古堂に謹んで参拝。

木々の茂った山道を歩いて、常行堂(じょうきょうどう)、法華堂、恵亮堂(えりょうどう)と巡って、最後の釈迦堂に行き着く頃には、さすがに歩き疲れてクタクタ、東塔も含めると、かれこれ3時間30分も回ったわが健脚?を自賛し、帰途は椿堂、浄土院もお参りして戻った。

さすがに、1番北の横川までは徒歩で行けないので断念せざるを得なかった。法然、親鸞、栄西(1141-1215)、道元(1200-1253)、日蓮(1222-1282)ら古来数々の名僧が修行したこの地域は今でも千日回峰行(ほうぎょう、千日にわたって比叡山の峰を巡り270以上ある寺社に巡拝、地球一周分と言われる苛酷な修行)で有名なところだが、次の機会に回すことにした。

帰途、出町柳で降りて、周囲を歩き出す頃には雨が降り始め、早めに山を降りてよかったと思いながら、比叡電鉄線の駅構内のロッテリアに駆け込んだ。なぜ出町柳に寄ったかというと、4年くらい前、比叡電車で貴船(きふね)神社(台風があった年で=2018年9月の台風21号、途上の山木が多数なぎ倒され、無惨な爪痕を物語っていた。鞍馬寺(くらまでら)は台風の影響で参拝不可だった)にお参りするのに立ち寄って、下鴨神社や鴨川デルタなど、風光明媚さに惹かれ、こんなところに暮らしたいと焦がれたからだ。

世界遺産の姫路城(兵庫県姫路市)は、純白の漆喰壁が、羽を広げて飛び立つシラサギの雄姿を思わせ、美しい。白鷺城と別称される由縁である。

しかし、歳月が流れ、再訪した町に、以前とは違う印象を抱き、結局失望させられる羽目に。いいと思った場所は再訪しない方がいいとの説を裏付ける形になった。

翌最終日は、迷ったが、予定通り、新快速で1時間30分の姫路に向かい、世界遺産の姫路城(1346年築城)を見学した。京都から金沢に帰る高速バスは17時15分発、2700円の安値で既に購入済だった。間に合わせるように帰って来なければならないが、姫路駅に降り立って、前面に開ける大通りを直進、彼方に見えているお城に着いたのは、11時過ぎだった。お城と好古園がセットになった1100円の券を購入(お城だけだと1000円)、係の人の話では、およそ2時間30分で全部回れるとのことだった。

全国旅行支援前で、延暦寺同様、混んでなかったが、ここも世界遺産だけにそれなりの邦人観光客が詰めかけていた。江戸時代初期に建てられた櫓や天守閣が現存する(築城は鎌倉時代後期から南北朝時にかけての守護大名・赤松貞範=1306-1374=による1346年)、国宝や重要文化財並びにユネスコの世界遺産に登録された屈指の名城、戦火に1度もあってない不戦の城としても名高く、別名白鷺城(はくろじょう、またはしらさぎじょう)とは、白い漆喰壁が美しく、羽を広げて飛び立つ鷺の姿を彷彿させるからだそうだ(命名由来については諸説あり、鷺山にあるからとか、白鷺と総称する鳥が多く住んでいるからなど)。

大天守(海抜91.9メートル)は表からは5層に見えるが、中は地下1階地上6階の7層の造りで、急な木の階段を踏み外さないようそろそろと上がって、最上階(31.5メートル)まで登るのは思ったより労力、が、格子窓の隙から見下ろす城下の光景が美しかった。防備のためにさまざまな仕掛けが凝らされた堅牢な城は、昭和の大修理(1956年から8年間)から58年を経て、今にその華麗な雄姿を温存していた。

姫路城を出て、徒歩10分の好古園には、250匹の錦鯉が泳ぐ美しく丹精された庭園が。

木造建築の最高峰ともいうべき、大天守閣、櫓(27棟)、門(21棟)、土塀、石垣、堀などが良好に保存された歴史的にも貴重な建造物は、日本100名城のひとつでもある。

堪能して地上に出て、お堀沿いに歩いて向かった好古園(西御屋敷跡、にしおやしきあと=1618年、姫路城借景の1万坪の池泉回遊式庭園)は、武家屋敷の遺構を活かした、築地塀で仕切られた9つの日本庭園が開ける。250匹の錦鯉が生息する池をはじめ、竹や花、あずまやなど、各庭ごとにさまざまな趣向を凝らされ、丹精された美しさで、見所があった。

夕刻のバスに間に合わせるよう足早に一巡して、姫路駅に戻り、新快速で京都に戻り、荷物を預けてあったホテルに寄って引き上げたら、16時過ぎで、時間まで40分ほど、駅前のベローチェでコーヒー休憩、満喫して帰路のバスに乗った。

京都にはこれまで、普通列車を乗り継いで来ていたのだが、格安で行ける直行バスを今回初めて試して、今後はこれを利用するに限ると思った。何故か、金沢ー京都間の直行バスはないと思い込んでいた私で、湖西線で琵琶湖を車窓に見なながら、行くのもいいけれど、バスの方がずっと便利で格安だ。4時間かけて金沢着、市バスで最寄りの停車場まで帰り、22時過ぎには無事帰着した。

※最後にひとつ言い足しておきたいのは、京都ー姫路間の快速列車で明石駅を過ぎたとき、車窓越しに見えた城の両櫓がなんとも風雅で、今度来たときは絶対ここで降りて、お堀の向こうにそびえる城(後で調べて明石城と判明)を見学したいと思ったことだ。姫路城があまりに有名すぎて、知名度はかすむが、車窓から見た駅周辺が、お堀といい、ふらりと下車して散策したくなるような風光明媚さだった。

〇本命日の墓参り
早めの1周忌を済ませた後、本命日の10月9日に墓参りをするつもりでいたが、次弟が生憎海外出張、では月命日の11月9日ならどうかと訊いたら、その日も都合が悪いというので、結局10月24日になった。

先祖のお墓は、福井市内の足羽山(あすわやま)にあるので、車で連れて行ってもらわねばならないのだ。今回は、母の1周忌だけでなく、ルソン島に衛生軍曹として出征した伯父の供養もするつもりで、花束と菓子を2個ずつ用意していった。

ちなみに、10月21日にアップしたフィクション、「ライブラリー夜話 夏の幻」(外地で戦死した伯父が図書館警備の姿を借りて姪に会いにくる短話https://ginzanews.net/?page_id=60440)は、私自身の不思議体験が基になっており、伯父が供養してもらいたがっていると、感じたのだ。

母(法名は釋静楽)には、ピンクの百合を、伯父には、白い百合を手向け、プラスチックの小箱に詰めたクッキー、あられ、1口饅頭、キャンディを中央の先祖の墓(母の遺骨は父と共にこちらに納められている)と、左脇の一回り小さい伯父の墓にお供えした。

新一郎と俗名が銘打たれ、衛生軍曹として名誉の戦死を遂げた旨刻まれた墓は不思議にぴかぴかで歳月を感じさせない真新しさ、法名釋清風にふさわしい清々しさだった。

墓参りには何度も来ていたけれど、伯父のことは特に意識したことはなく、これまで漫然と先祖と一緒くたにしてお参りしてぃただけに、今回は77年後の大変遅まきながらも姪からの初供養になった。伯父も草場の陰でさぞかし、喜んでくれただろうと思う。

無念というなら、外地でお国のために果てた伯父が最たるものだろうけど、夭折した父はじめの一族の中にも天寿を全うし得なかったたくさんの霊の口惜しさを感じ取り、今回はいつになく、先祖との繋がりを感じた墓参りであった。

インドから戻って7カ月半、これですべての儀式は済ませ、母の葬儀に参列できなかった無念さのいくばくかの溜飲は下げ、肩の荷を下ろした。

(移住以降日本での2度目の年越し、前回は大雪だったので、今年は雪が少ないことを祈っています。1年間、インド発コロナ観戦記、並びに帰国記をご愛読頂き、誠にありがとうございました。来年も引き続き、ご愛読のほど、くれぐれもよろしくお願い致します。著者。

「インド発コロナ観戦記」は、92回から「インドからの帰国記」にしています。インドに在住する作家で「ホテル・ラブ&ライフ」を経営しているモハンティ三智江さんが現地の新型コロナウイルスの実情について書いてきましたが、92回からインドからの「脱出記」で随時、掲載します。

モハンティ三智江さんは福井県福井市生まれ、1987年にインドに移住し、翌1988年に現地男性(2019年秋に病死)と結婚、その後ホテルをオープン、文筆業との二足のわらじで、著書に「お気をつけてよい旅を!」(双葉社)、「インド人には、ご用心!」(三五館)などを刊行しており、コロナウイルスには感染していません。また、息子はラッパーとしては、インドを代表するスターです。

2022年12月19日現在、世界の感染者数は6億5309万9968人、死者は666万5631人(回復者は未公表)です。インドは感染者数が4467万7310人、死亡者数が53万0674人(回復者は未公表)、アメリカに次いで2位になっています。編集注は筆者と関係ありません)