三菱美術館で最後の浮世絵師芳幾、芳年展、モーニングとコラボ

【銀座新聞ニュース=2023年2月23日】不動産業界国内3位の三菱地所(千代田区大手町1-1-1、大手町パークビル、03-3287-5100)が運営する三菱一号館美術館(千代田区丸の内2-6-2、03-5777-8600)は2月25日から4月9日まで「芳幾・芳年-国芳門下の2大ライバル」展を開く。

三菱一号館美術館で2月15日から4月9日まで開かれる「芳幾・芳年-国芳門下の2大ライバル」展のフライヤー。

幕末を代表する浮世絵師、歌川国芳(くによし、1797-1861)の兄弟弟子としてよきライバルで、「最後の浮世絵師」と呼ばれた落合芳幾(よしいく、1833-1904)と月岡芳年(よしとし、1839-1892)に焦点を当て、「それぞれの活躍を紹介するとともに、彼らがいかに浮世絵の生き残りを図ったのかを探る」展示会を開く。

また、週刊マンガ誌「モーニング」(講談社)で連載している「警視庁草紙ー風太郎明治劇場」(山田風太郎原作、東直輝さんマンガ)とコラボして、「芳幾・芳年」の時代とシンクロするオリジナルストーリー、警視庁草紙外伝「異聞・浮世絵草子」が2月22日発売の「モーニング13号」から3週連続で掲載される。

ウイキペディアによると、落合芳幾は1833(天保4)年日本堤下の編笠茶屋に生まれ、1849(嘉永2)年頃、17、18歳で近所の歌川芳兼(竹内田蝶、1832-1881)に誘われて歌川国芳に入門した。1855(安政2)年の「安政の大地震」により妻子を失うも、この時の吉原の惨状を錦絵に描き、名をあげる。1857(安政4)年頃からは合巻、雑書などの挿絵も描いている。1861(文久元)年に歌川国芳が没すると、遊女屋風俗などを描いて幕末から明治初期にかけての浮世絵師の第一人者のひとりとなる。

1866(慶応2)年に芳年との無残絵の競作「英名二十八衆句」が発行されて人気を呼んだ。1867(慶応3)年、皎々舎梅崕(こうこうしゃ・ばいがい)編の「久万那幾影(くまなきかげ)」の挿絵を描く一方で、開化的なものに興味関心があり、横浜絵などを描いた。芳幾の関心は浮世絵にとどまらず、1872(明治5)年、条野伝平(1832-1902)、西田伝助(西田菫坡、1838-1910)とともに「東京日日新聞」の発起人となった。1874(明治7)年10月に錦絵版「東京日日新聞」に新聞錦絵を書き始め、錦絵新聞流行の先駆けとなり、1875(明治8)年7月まで挿絵を担当した。

同年、「平仮名絵入新聞」(のちの「東京絵入新聞」)の創刊にもかかわり、この新聞で挿絵画家としても活動した。また、「歌舞伎新報」の発行にもかかわり、1879(明治12)年2月の創刊当時から俳優の特徴を写実的にとらえた挿絵を描いた。1877(明治10)年ごろから新聞事業に傾注し、錦絵はあまり描かなくなっていく。1887(明治20)年に春陽堂から刊行された「新作十二番之内」の口絵を描いており、これが木版口絵のはしりとされる。

洒落を好み温厚であったが、新聞事業から身を引いて後の晩年は、自作の張子人形に縮緬(ちりめん)を貼って美術人形として浅草仲見世において販売をしたが、売れずに終わり、不遇であった。1904(明治37)年に死去。享年72。

「モーニング」で連載されている「警視庁草紙ー風太郎明治劇場」の単行本の表紙。

月岡芳年は1839(天保10)年江戸新橋南大坂町(武蔵国豊島郡新橋南大坂町、東京都中央区銀座8-6)生まれ、商家の吉岡兵部の次男・米次郎として生まれ、のちに、京都の画家の家である月岡家の月岡雪斎(生年不詳-1839)の養子となり、1850(嘉永3)年、12歳で歌川国芳に入門(1849年説あり)、武者絵や役者絵などを手掛ける。

1853(嘉永6)年、15歳のときに「画本実語教童子教余師」に「吉岡芳年」の名で最初の挿絵を描く。同年に錦絵初作品「文治元年平家一門海中落入図」(大判3枚続き)を「一魁斎(いっかいさい)芳年」の号で発表した。1865(慶応元)年に祖父の弟である月岡雪斎の画姓を継承した。1866(慶応2)年12月から1867(慶応3)年6月にかけて、兄弟子の落合芳幾と競作で「英名二十八衆句」を表す。これは歌舞伎の残酷シーンを集めたもので、芳年は28枚のうち半分の14枚を描く。

1868(明治元)年、「魁題百撰相」を描く。これは、彰義隊と官軍の実際の戦いを弟子の旭斎年景(あさひさい・としかげ、生没年不詳)とともに取材した後に描いた作品で、続いて、1869(明治2)年頃までに「東錦浮世稿談」などを発表した。1870(明治3)年頃から神経衰弱に陥り、1872(明治4から明治5)年、自信作であった「一魁随筆」シリーズが人気がかんばしくなく、やがて強度の神経衰弱に罹る。

1873(明治6)年に立ち直り、新しい蘇りを意図して号を「大蘇(たいそ)芳年」に変える。また、従来の浮世絵に飽き足らずに菊池容斎(1788-1878)の画風や洋風画などを研究し、本格的な画技を伸ばすことに努め、歴史的な事件に取材した作品を多く描いた。1874(明治7)年、6枚つながりの錦絵「桜田門外於井伊大老襲撃」を発表、また、落合芳幾の新聞錦絵に刺激を受け、同年に「名誉新聞」を開始、1875(明治8)年、「郵便報知新聞錦絵」を開始した。

1877(明治10)年に西南戦争(1877年1月29日から9月24日)が勃発し、この戦争を題材とした錦絵の需要が高まると、芳年自身が取材に行ったわけではないが、想像で西南戦争などを描いた。1878(明治11)年に天皇の侍女を描いた「美立七曜星」が問題になる。1879(明治12)年ころに手伝いにきていた坂巻婦人の娘・坂巻泰と出会っている。1882(明治15)年、「絵入自由新聞」に月給100円の高給で入社するが、1884(明治17)年に「自由燈」に挿絵を描いて、絵入自由新聞と問題になる。また、「読売新聞」にも挿絵を描く。

1884(明治17)年に坂巻泰と正式に結婚、1885(明治18)年に代表作「奥州安達が原ひとつ家の図」などにより、「東京流行細見記」(当時の東京府における人気番付)の1885(明治18)年版の「浮世屋絵工部(浮世絵師部門)」で、落合芳幾、小林永濯(えいたく、1843-1890)、豊原国周(くにちか、1835-1900)らを押さえて筆頭に挙げられ、名実共に明治浮世絵界の第一人者となった。

この頃から、縦2枚続の歴史画、物語絵などの旺盛な制作によって新風を起こし、門人も80人を超した。1886(明治19)年10月にやまと新聞社に入社、錦絵「近世人物誌」を2年継続して掲載した。1888(明治21)年に「近世人物誌」を20回でやめ、錦絵新聞附録とし、この時期までに200人余りの弟子がいたといわれる。1891(明治24)年、ファンタジックで怪異な作品「新形三十六怪撰」の完成間近の頃から体が酒のために蝕まれ、再び神経を病んで眼も悪くし、脚気も患う。また、現金を盗まれるなど不運が続き、日本橋浜町に新築するため、本所亀沢町に仮寓(仮の住まい)した。

1892(明治25)年、新富座の絵看板を右田年英(1863-1925)を助手にして制作するも、病状が悪化し、巣鴨病院に入院し、病床でも絵筆を取り、松川の病院に転じる。5月21日に医師に見放されて退院、6月9日に東京市本所区藤代町(現東京都墨田区両国)の仮寓で脳充血のために死亡した、享年54。「やまと新聞」では6月10日の記事に「昨年来の精神病の気味は快方に向かい、自宅で加療中、他の病気に襲われた」とある。

画家としての活躍は21歳から54歳までの33年間で、晩年の弟子山中古洞(1869-1945)の分析では、芳年の作品のテーマは約500ほどあり、同じテーマの作品を複数製作することも多く、なかには同じテーマで100点もの作品を作った例もある。そのために芳年の生涯での製作数は1万点にも及ぶと見られ、それ以外にも本、雑誌、新聞などの挿絵が無数にあり、多くの浮世絵作家の中でも3代目歌川豊国(国貞、1786-1865)や葛飾北斎(1760-1849)に次ぐ多作家であろうとされている。

「警視庁草紙」は「モーニング」2021年9月9日号から連載をはじまったマンガで、作家の山田風太郎(1922-2001)の「山田風太郎明治小説集」(筑摩書房)の「警視庁草紙」(第1巻と第2巻の上下)を原作としている。

物語は初代警視総監、川路利良(かわじ・としよし、1834-1879)を先頭に近代化を進める警視庁と元南町奉行、駒井信興相模守(生没年不詳)、元同心、元岡っ引の知恵と力を駆使した対決を描いている。大久保利通(1830-1878)、岩倉具視(ともみ、1825-1883)、樋口一葉(1872-1896)、山田浅右衛門(8代目吉豊、1839-1882)ら実在の人物と架空の人物が銀座煉瓦街を駆けめぐるとなっている。

開場時間は10時から18時(祝日を除く金曜日、第2水曜日21時)。入場料は一般1900円(前売は1700円)、高校・大学生1000円、小・中学生は無料。障がい者は半額。毎月第2水曜日17時以降1200円(オンラインのみ)。月曜日は休み。三菱一号館美術館は4月10日から2024年秋まで、設備入替、建物メンテナンスのため休館する。