高岡のレトロ街に感激、実地見聞の重要性を再認識(130)

【モハンティ三智江のインドからの帰国記=2023年6月30日】6月のまだ梅雨入り宣言が出ていない7日に、重い腰を上げて富山県高岡市(末尾注参照)に日帰り観光に出かけることにした。近場でいつでも行けるとタカを括っていたため、延び延びになっていたものだが、3月末に上京して以来、4・5月はずるずると日常に埋没し、お臀に接着剤が貼り付いたようになっていたため、まずは日帰りで行ける観光にトライすることにしたのである。

高岡市の名物、市を象徴する高岡大仏(全体の高さ15.85メートル、うち坐像7.43メートル)。俳人・与謝野晶子(1878-1942)は鎌倉大仏よりいちだんと美男と、端正な美顔を褒め称えたと言う。

歳を重ねると、どうしても遠出することが億劫になり、散歩や街中に出るくらいで行動の範囲が狭まるところを、これではいけないと我が身を叱咤激励して、差し当たって負担があまりかからない日帰り旅行に出ることにしたわけだ。

ネットで高岡市の主な見所は高岡大仏(奈良、鎌倉の大仏に次ぐ日本3大大仏のひとつとの説も)や、瑞龍寺(ずいりゅうじ、曹洞宗)などであるとの前知識は得ていて、勝手に小さな町と思い込んでいたが、実際に降りたってみると、予想以上に大きな街で(富山第2の都市で人口16万人以上)、駅周りはモダンに整備されており、びっくりした。

小さな町で大して観るものもないだろうから、午後は電車(氷見線)で雨晴(あまはらし)駅(徒歩5分のところに立山連峰が見える雨晴海岸がある)経由氷見(漁港)まで足を伸ばそうと思っていたのだが、とても片手間に周れるような街ではないとわかり、じっくり時間をかけて見学することにした。

まずは高岡駅(2階)の北口寄りにある観光案内所で地図をもらい、主な見所に印をつけてもらって、エスカレーターを降りて右折、突き当たってまた左折、徒歩で10分ほどのところにある高岡大仏(高岡銅器の職人の技を結集し1933=昭和8=年に完成、高岡市指定有形文化財)、大佛寺にある青銅製の阿弥陀如来像、高岡のシンボル的名所の見学に向かった。

大仏そのものは、予想していたより小さかったが(高さ7.43メートルで奈良の大仏の約半分)、台座の内部の回廊の壁に天女や地獄絵図があり、興味深かった(あとでわかったことだが、中央の部屋には1900=明治33=年に消失した3代目木造大仏の頭部が鎮座、今のは4代目、初代1609=慶長14=年、2代目1745=延享2=年)。

そこからさらに前方に歩いて伝統保存地区(正式名称は高岡市山町筋重要伝統的建造物群保存地区)の街並みに差し掛かると、「土蔵造りのまち資料館」にぶつかり、その通り一帯にあっと驚く別世界が開けていた。

1914年に建築された富山銀行本店(旧高岡共立銀行、守山町)。地元では「赤レンガの銀行」の愛称で親しまれ、さまざまな装飾が施された壮麗な外観、要所に花こう岩を配し、屋根はグリーンの銅板ぶき、両サイドには、小さな尖塔もある。どこか東京駅に似ているのは、建築界の重鎮・辰野金吾(東京駅丸の内駅舎の設計者、1854-1919)監修のもとに清水組(現清水建設)の田辺淳吉(1879-1926)が設計したせいとか。

実際、私はこういうレトロな街並みが高岡に保存されていることは知らず、歩いているうちに次々に現れる白い土壁・瓦屋根の旧商家、すなわち土蔵造り(1900年の高岡大火後火に強い土蔵造りが広まったとか)の町屋始め、大正モダンのフレンチ窓・煉瓦壁の瀟洒なビルにすっかり魅了されてしまった。

なかでも際立つのは、赤レンガ造りの重厚な富山銀行本店(1914=大正3=年創建)で、まったくどこの外国の街に紛れ込んだのだろうと、訝しんだくらいに素晴らしく、金沢市や富山市とも違う和洋折衷のレトロな街の虜になってしまった。

金沢をよく「小京都」というが、高岡の方がその名にふさわしいのではないかと思った。金沢駅からIRいしかわ鉄道でたったの39分で別世界へ飛べるわけだから(片道870円)、感激ものである。

この旧い街並みは「日本遺産」(文化庁が認定した地域の歴史的魅力や特色を通じて文化・伝統を語るストーリー)に登録されているらしいが、世界遺産であってもおかしくない素晴らしさで、かなりな範囲にわたって軒並みが続く。

白い土蔵造りの商家が建ち並ぶ山町筋一帯。前田家ゆかりの町民文化が花開いた歴史を今に伝える伝統保存区は、大正期のモダンな小ビルと相まって、和洋折衷の不思議な空間を形づくる。

無我夢中で歩き回ったあと、赤レンガ銀行界隈の山町筋を抜けて、さらに奥の路地を直進、千保川にかかる小さな橋(新幸橋=しんさいわいばし)を渡って金屋町、鋳物で有名な地区(正式には高岡市金屋町伝統的建造物群保存地区)へ。風情ある石畳の通りには、千枚格子戸(細かく引き割った桟を無数に並べた繊細な造り)の町屋が軒を並べていた。山町筋が商人の街なら、ここは職人の町だ。こぢんまりとした地区の一角にある「鋳物資料館」で一休みしたあと、一旦駅に戻った。

構内のカフェで遅い昼食休憩後、反対側の南口に出て、しばらく直進したところにある瑞龍寺へ(山号高岡山、本尊は釈迦如来、開基は3代目前田利常=1594-1658、高岡城築城の2代目の前田利長=1562-1614=を弔うため、1614=慶長19=年建立、1997年国宝指定)。16時30分の閉門30分前でざっと外観だけ見学、緑と古びた木造の禅寺の対照が美しかった(仏殿、法堂、山門は国宝指定)。寺を出て反対側に足を伸ばすと、しばらく行った先に前田利長の盛土の上に立てられた立派なお墓が小堀に囲まれて、長大に伸びあがっていた。

駅に戻ると、夕刻間近、また大仏側の出口に出て、「高岡古城公園」に向かった。お堀に囲まれた高岡城跡があり、鬱蒼とした緑に覆われた敷地内に神社がふたつあって(護国神社と射水=いみず=神社)、参拝したあと、観光を締めくくり、駅に戻った。高岡から電車(氷見線)で20分ほどで行ける雨晴駅に向かい、夕日の沈む海岸を観ようかと思ったが、また氷見方面に行くついでに寄ればいいと思い直し、金沢駅まで直帰した。

高岡駅南口に出て直進、しばらくすると、曹洞宗の禅寺が。その名も瑞龍寺も、高岡観光には外せない名所だ。

半日観光だが、思いがけずレトロ街が素晴らしかったし、旅気分を充分味わえた。こんなに近いところに別世界が開けているのに、何を今までグズグズしてたんだろうと我が身の怠惰さに呆れた。近いからいつでも行けると不遜になっていたし、また大したことないだろうとタカを括っていた自分が恥ずかしかった。

近くても遠くても、未知の街は行ってみなければわからない、こんな近くにパラレルの不思議世界が開けていたことは予想外で、面白かったし、期待してなかった分余計感激した。自分に制限をかけないで、億劫がらずにもっと動こうとしみじみ思った。

本当にどこに、天国が開けているかわからない。それは、動いた者にだけ与えられる特権だ。今まで、旅に出て失望したことは一度もない。期待以下であったとしても、あとで振り返れば記憶に残る良きものになる。

ぼられたり(インドなど)、強行軍に疲れたり、病気したり(西インドのビーチリゾート地ゴア=Goa=でマラリアをもらったことも)、相棒がいると喧嘩したりと、トラベルにトラブルは付き物、その場はハプニングに慌てるが、あとで振り返ると、かえって印象深いものに変わるのだ。なのに、行くまでが億劫で(歳のせいもある)腰が上がらない。行けば、結果は必ず、面白かった、楽しかったとなることがわかっていても。

実は佐渡島に行きたいと4月から思っていて、機会を窺っていたのだが、天気予報が雨がちでタイミングがなかなか合わず、ずるずる来てしまった。まずは足慣らしに近場にトライしようと動いて、やっと弾みがついたように思う。

動けなかった(何故かそういう気分になれなかった)4・5月のふた月間を無駄にしたことが今更ながら惜しまれてならなかった。人生の黄昏期に入った私にはもう、時間はないのだ。足腰が丈夫なうち、目が見えて耳が聞こえるうちに、行きたいところに行って、できる範囲で見たいものを見ておこう、死ぬ前に後悔しないためにもと、改めて自分に言い聞かせた。

注:富山県高岡市は、北西部に位置する富山市に次ぐ第2の都市。加賀前田家2代当主前田利長が築いた高岡城の城下町として発展し、高岡城の廃城後は商工業都市となった。伝統工芸の高岡銅器に代表される鋳物の生産が盛んである。

古代、現在の高岡の郊外は、越中国の国府であり、そのため、746=天平18=年に国守として大伴家持(718-785)が赴任し、在任した5年間にとても多くの秀歌を残した。これは、高岡市が“万葉の里”と呼ばれる由来である。

近世になると、1609年に加賀前田家2代当主、前田利長が高岡城に入り、“高岡”の町(現在の高岡市中心部)が開かれる。この1609年の開町により、近世高岡の文化が始まるも、1615(元和元)年の一国一城令により高岡城は無くなり、当時「城の無い城下町は衰退していく」と言われていたため、3代当主前田利常の「高岡の人々の転出を規制し、商業都市への転換を図る」という政策が功を奏し、高岡は発展の道を辿り始め、“商工業の町”としての歴史、高岡銅器や高岡漆器などもこの頃から始まった(ウィキペディアより)。

(「インド発コロナ観戦記」は、92回から「インドからの帰国記」にしています。インドに在住する作家で「ホテル・ラブ&ライフ」を経営しているモハンティ三智江さんが現地の新型コロナウイルスの実情について書いてきましたが、92回からはインドからの「帰国記」として随時、掲載します。

モハンティ三智江さんは福井県福井市生まれ、1987年にインドに移住し、翌1988年に現地男性(2019年秋に病死)と結婚、その後ホテルをオープン、文筆業との二足のわらじで、著書に「お気をつけてよい旅を!」(双葉社)、「インド人には、ご用心!」(三五館)などを刊行しており、コロナウイルスには感染していません。また、息子の「Rapper Big Deal」はラッパーとしては、インドを代表するスターです。

2023年6月27日現在(CoronaBoardによる)、世界の感染者数は6億8645万9470人(前日比731人増)、死亡者数が688万9168人(9人増)、回復者数は6億1935万6094人(1088人増)。インドは感染者数が4499万3999人、死亡者数が53万1903人、回復者数が4446万0441人、アメリカに次いで2位になっています。

ちなみにアメリカの感染者数は1億0728万3941人、死亡者数が116万7832人、回復者数は1億0543万6062人。日本は5月8日以降は1医療機関あたりの全国平均になっています。編集注は筆者と関係ありません)